ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

はっきり意見を言うことへの躊躇がひろがっている

 

今日、2015年6月9日の朝日新聞「わたしの紙面批評」で湯浅誠さんが橋下市長に関する朝日の記事について批判している。朝日の記事は上から目線で断罪し、それは橋下支持者の反発を呼び起こすだけで説得的でなく、民主主義の少数派の意見の尊重、歩み寄るという姿勢に反するという批判だ。湯浅さんはそんなつもりはないだろうが、従来の左派への批判に通じる論理構成だ。

 

湯浅さんとは立場も近く一緒に活動もしたし、信頼できる一人だと思っているが、私はこの記事の意見に対しては「私は違う意見を持っている」と言っておく。

 

大ざっぱに言えば、湯浅さんの意見はおおむね穏健で妥当なもので多くの人が受け入れやすいものだが、その分甘く、あまりこわくなく、、マスメディアが使いやすく、主流秩序への揺るがしが低く、しかも現代社会においては危険性を内包した意見だと思う。

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私は社会にはもっととんがっていたり偏っていたり、はっきりと異論を言うことがあってもいい、そういう多様性が大事で、それがあってこそ穏健中庸も生かされると思っている。

 

歴史的には、労働組合も含めて戦争に近づくなど右傾化するときにはどんどん妥協が妥協を生み、徐々に巻き込まれ、モノが言えなくなり、大政翼賛化した事実がある。戦争に協力しつつ発言力を保持し、一定の歯止めをしているというのだ。歴史にはそんな事実がたくさんある。

いまの公明党の言い分はそれを繰り返している。だが歴史の史実はそれは戦争への加担であったということを示している。

 

またもう少し政治力学の一般化でいえば、社会民主主義系の政党などの穏健左派・リベラル系政党は、共産党緑の党、ワンイシューで意見を言う活動団体、被害を受けた当事者の告発や裁判闘争などがあってこそ、それも少し踏まえつつ、その要求全体をそこまで十分には入れられないが、右派や保諸政党と妥協的駆け引きの中で、一定の成果を勝ち取れるのである。より左やラジカルなものがないと、穏健リベラルは、右派との駆け引きや交渉でカードが減るのである。

 

身近な感覚でいえば、運動団体とか活動家には、かなり一方向的に見える意見を言う人や団体があるものだ。しかしその問題を深く学び追求し、被害の実態を知ったからこそ、それを知らずに一般的なところでぬるいことを言っている人にどんどん憤りが強くなり、かなり批判的な意見になることが多い。

私はそういう人たちがいることが社会には必要と思う。環境問題でいえばグリーンピースのような団体があってこそ、政治では徐々に環境問題も進むということだ。慰安婦問題でも最も元慰安婦の方々に寄り添ってきた運動団体の意識はまともと思うが、社会全体で見れば偏っているとレッテルはりされる。個人加盟ユニオンでも現場の労働のひどさを知っているからこそ、政治家や官僚や学者の現実無視の机上の空論に腹を立てる。

 

しかし、湯浅さんの今回の意見は、そうしたものへの目配りが見られない。むしろ公平中立客観主義の人、論理的リベラル派、中庸的な立場の活動家や学者・インテリ・評論家によくある感覚がにじみ出ている。

つまり、運動団体等の極端なキメツケ、非科学的な感情的な意見、排他的な攻撃的な意見などに辟易し、そういう勢力が嫌いになって、そういう団体や活動塚は話し合って合意を形成するのでなく対立するだけで、結局多数派を形成できない、結局本気で社会を変える気をもっていない自己満足の動きだと切り捨てるのである。

 

それと似た感覚を朝日新聞に向けてしまっている。

私は朝日新聞も主流秩序の一部になっていると思うが、慰安婦問題などでもっと主張すべきと思っているぐらいで、右派と一緒になって朝日をたたくことには反対だ。

 

上記のような「古い左」嫌いのスタンスの根底にあるのは、多数派形成しないとだめ、だから皆に届く言葉でないとだめ、だから古い言いかた、本質をズバッというなどはだめで、今どきの皆に受け入れられる言いかたでないとだめ、若者に通じないとだめという考えだ。一見正しいようでその程度の思考でとまっている人が多い。

 

それに対して私は結論を言えば、その前提が絶対的ではないという。それが主流秩序の視点だ。

 

多数派になるため、皆に受け入れてもらわないとだめというのは、ある局面ではそれなりに大事な一面だが、しょせん、いくつかある大事な事の一つにすぎない。

 

だいじで大切で重要なことを言っても聞いてもらえない、通じない空気・時代環境・社会的雰囲気という場合がある。

戦争中に、反戦を言えば多くの場合敵国に通じる行為だと言われるのと構造は同じ。宗教団体の中で宗教への疑問を言うようなこと。つまり長いものにまかれないと思って少数派の意見を言うと多数派は煙たがる。この構造にどう立ち向かうのかという大事な点を見落としてはならない。とくに全体主義化・戦争化・右傾化する流れのときには。

 

ほんとうに物事を決めるのが左派の活動場所ではなく、中央政治、権力のあるところ、上級官僚、自民党有力議員、大物政治家第一政党であるから、そこの人(その決定メカニズム)に届かないといけない、そこで交渉できないといけない、とおもっているのが、現実派と自称している人の感覚だ。

 

それは主流秩序の状況を見れば事実である。だからその現実の上で現場の最先端を知っているからこそ、そこでの交渉の在り方の有効性を基準に考える。そうすると反対だけを遠くで遠吠えしていてもだめじゃないか、大衆や官僚や自民党政治家に届かないのはだめじゃないかとなる。

すると橋下の方が現実を知っているとなる。公明党の方が現実的にいいことをしているとなる。

 

すると相手を批判して一方的に「正論」のようなものを言い放つとか、相手を論破するだけのことは何の意味もないと思うようになる。宮台も単純に論破からロビー活動へ移行するなどと言っていた。

それは今の社会の空気にも一致する。真正面から古い言葉で意見を言うのは、なんかウザい。聞く気にならない。そういうはっきりした意見を「上から目線だ」「偏っている」『極論だ』「自己満足だ」といって嫌う風潮が広がっている。

 

こうして若者に届くように言わないとっだめという世代論が必ず出てくる。

 

そんな中でコミュニケーション能力が高く空気を読む人は、いまの日本で通じる方法を考える。

すると笑いに包んだり、反論も含みこみ、脱力的とか中庸的とか両方の意見をわかったうえでどっちも極端だ、わかっていないというようなスタンスになる。素人的なのがいいとなる。

つまりは、非政治的で純粋で素朴なのがいいとなる。テレビでコメントしている論家的なのがいい。非当事者的、つまり第3者的なのがいい。

ぼくは偏ってませんよというわけ。特に従来の左翼右翼を批判して、そういう極論でなく中庸が公平でバランスが取れているというのは絶対必要条件になっている。皆で民主党政権をたたいて自民党は現実的というようなメディアの空気を共有する。

 

庶民、民衆、市民を馬鹿にしてはいけないという。バカにするのはエリート主義だという。そう言って本当には民衆を馬鹿にしているのがほとんどの政治家だし活動家だし学者だ。その構造を私は主流秩序という。

 

フェミニズム運動でも慰安婦問題でも部落解放運動でもアニマルライツ運動でも、一部に排外主義的で問題があるのは事実だろうが、それはどんな運動にもありうるし、一部に過ぎない。一部に極端な単純化があろうと、その現実を踏まえてなお、それこそバランスを見て、そうしたものを含みこんで運動全体の意義を見て大事な事が守られること、生みだされること、運動の成果があることを知らねばならないと思う。

 

だから私はさかしらに中庸を気取るインテリには違和感を感じてきた。

湯浅さんはもっとも運動に近いところにいた人なので、その存在意義や発言にも共感するところもあるが、それでも、そうではない面があるということを今日はここで指摘しておきたい。

 

簡単に言えば、これからもっと暗黒社会化がすすむ中で、各人の生き方が問われる。その時に、「茶色の朝」のように、自分はそんなに左ではないと言って保身を図る愚かさに警戒したいと思う。

そして社会には、はっきりと「皆にはすぐには共感してもらえない意見」を言う人がいてもいい。すこし嫌われてもいい。頑固者とか堅物と言われても、空気読めないと言われてもいい。自分の頭で考えて愚鈍にもそれをストレートに言う人がいてもいい。世間からずれた自分の生き方を貫く人がいてもいい。生きるのが下手で、損する役回りをする人がいてもいい。

 

その朴とつだがまっすぐな言葉を受け止める感性を保持したいと思う。

反発があってもいい。反発がないことがいいとは言えない。(もちろんこの言いかたもある側面でしかないです)

 

だから僕はもっと日本の新聞も論調をはっきりさせる必要があると思っていて、琉球新報など地方紙にはいいものがたくさんあると思っている。朝日、毎日はもっと旗色を鮮明に出したらいいと思うので、湯浅さんの紙面批評は、私の重視したい点とは逆方向の要素が強すぎると感じた。主流秩序に加担しているマスメディアへの批判がいるときに、逆方向に引っ張る面があるとかんじた。慰安婦問題で朝日バッシングがあったことに無意識におびえている人が多すぎるなかで。

私がここに書いた面を忘れると非常に危険な意見になるということです。

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わたしの紙面批評)橋下徹氏の「敗戦」 朝日新聞紙面審議会委員・湯浅誠さん

朝日新聞2015年6月9日05時00分

 

 ◇「戦国武将型」に一定の支持/切り捨てず少数派尊重を

 あまり公言されないが、政治における闘争を戦国時代になぞらえる政治家は多い。「とるかとられるか。自分たちは死に物狂いの戦いをしている」といった言い方や気分は、政治家において一般的なものだ。

 

 橋下徹大阪市長は、それを公言する珍しい政治家の一人だった。選挙という合戦に勝利した武将が官軍となり、それに刃向かう者は賊軍とみなす。合従連衡呉越同舟は政治の常であり、すべてが民心を得て合戦に勝利する(選挙で多数を得る)ことにつながっていた。惜敗した大阪市住民投票後の記者会見で、橋下氏は「民主主義は素晴らしい」と持ち上げたが、それは「大層なけんかを仕掛けても命を取られ」ないからだった。

 

 この“戦国武将型民主主義”モデルを「民主主義の正統な考え方と違う」と“欧米型正統派民主主義”モデルを持ち出して批判することはできる。だが、橋下氏はそれで民心が得られるわけでないことをよくわかっていた。そのように主張する学者などの「すかした物言い」に対する反発をバックに「空理空論」と切り捨てた。

 

 その点、5月19日の社説「橋下氏引退へ 議論なき独走の果て」は、橋下氏や彼を支持する人々に届く言い方ではなかった。「異論を顧みずに独走する危うさ」「丁寧な合意形成をすっ飛ばす『選挙至上主義』」と指摘した上で、「民主主義とはほど遠い」と切り捨てた。そして「有権者も考える必要がある」と諭した。あえて言えば“上から”の匂いのする、反発心をあおる言い方だった。

 

 同日の天声人語(「橋下氏の民主主義とは」)も同様だった。「民主主義の取り扱いには注意が要る」と、これを民主主義に内在する問題と捉えた点は社説と違ったが、社説と同様の問題点を指摘した上で「ついにその限界がきた」と書いた。

 二つの記事はともに「丁寧な合意形成」「時間をかける知恵」を政治に求めた。しかし読者は、そうなればなったで、マスコミは「決められない政治」と騒ぎ出すことを知っている。

 

 より重要なのは今回、僅差(きんさ)とはいえ、少数派は橋下氏と彼を支持する人々だったことだ。朝日新聞はしばしば少数派の尊重を謳(うた)う。だとすれば、今回は橋下氏の“戦国武将型民主主義”モデルを尊重し、その中から次へと至る回路を見いだす必要があったのではないか。少数派に限界があるのは当然で、大事なことはそこから何をくみ取るかではなかったか。社説で謳った「ともに『答え』を探す」とは、そういうことのはずだ。民主主義とは面倒くさいものなのだ。

 

 どう「答え」を探すのか。そのヒントは橋下氏の会見の中にあった。彼は「僕みたいな政治家はワンポイントリリーフ。権力者は使い捨てがいい」と語った。自分のような風雲児は、混沌(こんとん)とした過渡的時代が要請するものだが、天下をとる器ではないということだろう。裏返せば、真に民心を得るのは、思慮と配慮にたけた武将であり、政治家だということだ。敗将・橋下氏の弁は、戦国武将型の理屈をくぐりながら、同時に正統派欧米型に至る回路があることを示していた。

 

 5月20日の大阪本社紙面「終幕 橋下政治(2)」では、池田大作創価学会名誉会長がかつて橋下氏に贈ったとされる諸葛孔明の言葉を紹介した。〈賢にしてよく下り 剛にしてよく忍ぶ〉。賢明ではあるが腰が低く、剛直ではあるがよく耐え忍ぶ――。そんな言葉を「橋下氏は『警句』として受け止めた」と記事は書く。どういう統治者が理想的なのか。かつての実際の戦国武将たちから学ぶことは、橋下氏も朝日新聞も私たち有権者もまだまだ多い。より強靭(きょうじん)な民主主義を育てるために、私たちにはまだ学ぶべきことが多くある。喜ばしいことだ。

 

 (記事は文中示したものを除き東京本社発行の最終版)

 ◆この欄は、4人の紙面審議会委員が輪番で担当します。

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 ゆあさまこと 社会活動家。法政大学教授。2008年末に「年越し派遣村」村長。09~12年、内閣府参与。08年「反貧困」で大佛次郎論壇賞