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「日本ぼめ」の快感

 

 

(耕論)「日本ぼめ」の快感 

朝日新聞 2015年6月16日05時00分

http://digital.asahi.com/articles/DA3S11809029.html

 

 かっこいい日本、「クールジャパン」を海外に売り込もう。そんな動きの一方、日本のここがすごいという外国人のほめ言葉がよく伝えられる昨今。少し、熱くほめられすぎてないか?

 

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 ■肯定ばかり、だから安心 武田砂鉄さん(ライター・編集者)  

テレビ番組で、日本のラーメン屋の行列を「美しく冷静に行列に並ぶことができるのは日本人だけ。規律正しい国民だ」と外国人のキャスターにリポートさせていた。併せて流した映像は裕福ではなさそうなインド人がバケツを持って並ぶ姿。そこまでして「日本」をたたえますか。

僕も日本は好きです。しかし、何でもかんでも日本を褒めがちな風潮は気持ち悪い。外と比較し、外を下げて、自分たちを持ち上げる。「日本アゲ」ですね。欧州の先進国でも電車の発車時刻は遅れて当たり前なのに「定刻発車できる日本はすごい」とか。

 

1998年から3年半、「ここがヘンだよ日本人」という番組がありました。世界から見ると日本人はこんなにおかしく見えるよと、それを面白がり、笑いのめす度量があった。今なら「自虐的だ」と叱られるのでしょうか。「世界の日本人ジョーク集」が売れたのは約10年前。自分たちを笑う余裕がありました。

書店の店頭で目立つ、日本を褒める本は三本柱です。ただただ称賛する本、中国や韓国をけなす本、「昔の日本人と比べ今はだらしない」と叱る説教調の本。嫌中・嫌韓本はヘイトスピーチの社会問題化などで失速気味。

その分を「褒め本」が埋めています。

 

 三本柱の購読層は重なり、中心となるのはいずれも50代以上の男女。中韓への鬱憤(うっぷん)を日本アゲで埋める構図です。ひと昔前までは「日本の方が上」と余裕で感じていられた状況が、中韓の経済規模拡大で変わった。日本褒めは、プライドが崩れた中高年を優しく慰め、安心材料を提供しているともいえます。

 

 安心の作り方も粗雑です。ある本は「日本を褒める」本文の多くが、ネットに投稿された外国人の日本を称賛する書き込み。一面的なところがウケる。物事には否定的な見方も肯定的な見方もあるはずなのに肯定以外は切り捨てる。それを繰り返し「日本はやっぱり素晴らしい」「まだ大丈夫だ」と安心する。

 

現状を精緻(せいち)に分析し、解決策をあれこれ探る難しい本よりも、風邪薬の効能書きの「熱が出たらこの薬」みたいに、「不安になったら日本アゲを読め」という図式が出来上がっているのでしょう。

もう一つ気になるのは、行列や定刻発車という個別事例がいきなり「日本という国」「日本人」という「大きめの主語」に昇華してしまうこと。理解に苦しみます。行列に整然と並ぶ姿が、なぜ「日本人はすごい」に直結するのか。

 

「せっかく褒められて気持ちよくなっているのに、気の利かない野郎だ」と思われようとも、その都度立ち止まってぐずぐずと考え続ける以外にないと思う。さもないと、いつしか「大きめの主語」に取り込まれ、翻弄(ほんろう)されてしまいます。(聞き手・畑川剛毅)

 

たけださてつ 82年生まれ。出版社勤務を経て昨年独立。「紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす」を今年4月に出版。

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■自己愛保つために自賛 春日武彦さん(精神科医

       

自己愛のない人間はいません。その表れ方は、自己肯定、思い上がり、独りよがり、といろいろ。自信を抱くことで生きる意欲を高める自己肯定は、人が真っ当に生きるための支えになります。

一方、自画自賛や自己陶酔などは独りよがりと言えます。

日本の長所を自賛する現象が目立つとすれば、多くの日本人の自己愛が傷つき、危機にさらされているからです。 

個人の自己愛が危機に瀕(ひん)したとき、それぞれの人がとる対応は二通りあります。ひとつは「自分はこれだけのもの。とやかく言うな」と虚勢を張ること。居直りにも近い態度で、積極対応といえる。

もうひとつは消極対応。表面的には沈黙を装いながら、内心では誇大した自己像を思い描き、守るのです。極端な例は引きこもりですが、それ以上自己を傷つけないように心の内に逃げ込むわけです。

もともと日本人はこの二通りのやり方を絶妙にブレンドしてきました。

自己肯定感をそれなりに持ちながらも、自虐的な日本人論を面白がったり、辛口の外国人が言いたい放題の「ここがヘンだよ日本人」なんて番組を苦笑しながら楽しんだりしてきました。

それが、最近は変わり、積極と消極、二通りの対応が個人の中でブレンドされることなく、いわば並立する形で表れてきたような気がします。

自画自賛の現象は、消極対応の発展型なのです。「無人販売所が成り立つ日本はすごい」「町工場の技術がすばらしい」。こういう話題は、どこの国の人だってあえて否定や反対しませんよね。そうした話題について紹介して、内輪だけで盛りあがっている。

これ以上自分たちが傷つかないように、自分たち自身を慰める側面が強いのでしょう。

一方で、積極対応については、とかく強気な態度や言葉遣いが持てはやされる風潮に表れています。分かりやすい例は排外主義的なヘイトスピーチネトウヨの言葉です。「自分が正しい」と言い切るのは、安心感を得るのに手っ取り早い方法ですから。

 なぜ二通りの対応がブレンドされることなく、分かれて表れるようになったか。ネット環境の発達とともに、単純で平板な思考法が一般的になったことが大きいでしょう。屈折、含羞(がんしゅう)など「ひねり」の面白さも分かりにくい社会になり、身もふたもない正論やクレーマー的な理屈が横行するようになってしまった。 

そうした思考法は、社会での勝ち組、負け組といった単純素朴な対立構造こそがリアルだと感じる感性ともつながっています。

自己愛が揺るがない人間なんていません。どのように折り合いをつけて自己愛を保つか、そこに品性や志が反映します。最近の安直な自画自賛現象はそれらが欠けた結果なのです。(聞き手・村上研志)

 

 かすがたけひこ 51年生まれ。日本医科大卒。東京都松沢病院部長などをへて、成仁病院顧問。著書に「自己愛な人たち」「『キモさ』の解剖室」   *