寸善尺魔―――太宰治「ヴィヨンの妻」
太宰治「ヴィヨンの妻」の中で、小料理屋のおやじがいうセリフに強い印象を持った。
「人間の一生は地獄でございまして、寸善尺魔(すんぜんしゃくま)というのはまったく本当でございますねえ。一寸の幸せには、一尺の魔物が必ずくっついてまいります。人間365日、何の心配もない日が1日、いや半日あったら、そりゃぁ幸せな人間です。」
そうなんだなあ。
太宰にはそう見えたんだなあ。
そのように思う(おもわざるをえない)人がいるよなあ。
そのように思う人が多い時代だったんあろうなあ。
いまでも人によるなあ。
ぼくはどうだろう。
365日の中の1日しか「何の心配もない日」がないということはないなあ。
かなり、「何の心配もない日」があるなあ。
ぼくはまあ幸せなのかもしれない。
でもいつ何があるかもわからない。
マイナスがないということもない。
でも主流秩序から離れる感覚で生きているから、あまりつらくはない。ほとんどつらくはない。多くの日は何の心配もない。
いつ大きな穴に落ちるかもしれないとわかっているからこそ、今そうなっていないことの幸せも感じる。めぐまれているなあとも思う。
でも主流秩序の視点があるからこそ、世界のひどさについては一方でいつも意識している。
他の人で身近な人、友人、知人、仲間のことを思うと幸せなんて言えなくなる気持ちもある。
電話相談でもひどい現実がその先にいつもある。世界は全く平和ではない。
いつも心に重しがある一方で、映画や素敵な人の心持に触れ希望を感じてしあわせになる気持ちもある。
世界とつながることの苦しさと幸せ。
寸善尺魔は、私たちの日常の横にぽっかりと底なしの穴がある感覚にも通じるかも…
・・・等と思った。
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この作品、おとこに都合の良い女の面がある。性暴力にも甘い。その点で古臭い。
また主人公の一人、夫の大谷(太宰の戯画化された分身)は死ぬことばかりを考えいい加減で勝手でDV的で、ひどい奴なのに、それに甘いと思う。そこに時代を感じる。
しかし自由かつたくましく生きる気概が、大谷の妻、さっちゃんにはある。男性があがめる理想化された、男に都合のいい女の面と、その枠に収まりきれないおおきな面の両方があるだろう。