ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

坂口安吾

 

イダヒロユキ著『閉塞社会の秘密──主流秩序の囚われ』(アットワークス、2015年4月)

の続きを書いている。

そこでは坂口安吾の「堕落論」『続堕落論』を引用し、私の考えと近い点や面白い点に言及して主流秩序論を展開している。

 

先日学生さんに堕落論を読んだことがあるかと聞いたら60人ほどの中で読んだことがる人は1人、教科書で見た人が一人、うっすらと知っている気がする人が一人、後は読んだことがなかった。

多くの人も、今読めばびっくりするだろう。

 

そこにはまともな思考があった。考えていない大衆ということ、それを支配する政治家たちを見つめていた。戦争中のたてまえの愚かさをみぬいていた。人間の現状を見つめ、堕落せよと言い、そこから這い上がるところに、神を見た。

戦争が終わった後だから見えていたものを見失っている人が大多数だから。大震災や原発事故の後に見えていたものをもう忘れている人が多いから。

天皇制の虚構、政治に利用される現実を見ないほどの、この愚かな状況の中で、再読する人が増えることを願う。

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以下、「堕落論」より。

 

戦争中は真の闇で、そのくせどんな深夜でもオイハギなどの心配はなく、暗闇の深夜を歩き、戸締なしで眠っていたのだ。戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。そしてもし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておれば良かったのだ。私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。

 終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由では有り得ない。なぜなら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ。政治上の改革は一日にして行われるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏みだした人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか。

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