ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

責任のとり方

 

 

過去に何かをしてしまった場合、どう責任を取るのか。分野や事の性質、程度などによっても変わるでしょうが、相談にのっていたり、教育したり、加害者プログラムをしていると、この問題にかかわることがよくありますので、一般的なことを簡単にまとめておきます。慰安婦問題や侵略戦争のことなどの歴史問題における日本政府やメディアの態度の問題にもつながります。

 

先ず過去に起こったことは変えられません。

そこで過去に相手にひどいことをしたことについては、まず謝罪することです。

そしてその誤りの原因を解明し、今後それをしないように行動することが責任のとり方の基本です。

 

過去、それが「どうしようもなかった」というのではなく、過去、そうならない道もあったのに、まちがった選択をした点で責任があり、今後それをしない選択をすることで、責任を取っていくのです。

 

被害者の心情を考えると、謝ったからすむということはおよそなく、ことにもよりますが、半永久的に傷がいえないということがよくあります。それに対しては謝罪し続けるしかありません。それを受けて時間がたって、被害者側がもういいとか、許すとかという気になることはあります。それをまつしかありません。

 

ですから加害者側が「もう謝ったからいいだろう」「いつまで謝りつづけないといけないのか」「もう許してくれてもいいだろう」というのは間違いです。「どうすればいいんだよ!」と怒るのも間違いです。もう謝らなくてもいいという時期を決めるのは加害者側ではありません。

許すことができるのは被害者側です。

 

口先の謝罪に心がこもっていないと反発が来るということもあります。その意味でほかの態度も含めて真摯な姿勢があるかどうか、言葉や態度に本気さがあるかどうかは重要です。

ですからいやいやな感じを含みこんで「傷つけたとしたらすみません」とか「遺憾に思います」というような、あいまいな「逃げの言葉」とか、口先の言葉とは裏腹に本気では反省も謝罪もしていないなと感じる態度ではだめでしょう。

「金を出したからいいでしょう」とか、「どうせそちらは金目当てでしょう」などと相手に不信感を持っているような態度ではだめです。土下座をすることは、相手に威圧的な態度であり鈍感な間違った態度です。こころの中で汚いものを持っている人ほど簡単に土下座します。

 

誠実なら、安易な土下座とか、「危機対応マニュアル通りの謝罪の仕方」などをしないでしょう。むしろ答えがない中で苦しみ続けることこそ、被害者の苦しみに寄り添うことなのです。上手く早く処理するようなことこそインチキです。

 

次に過去は変えられないのだから、いくら謝っても、演技だけかもしれません。しばらくの間、反省の態度をとるのは簡単です。それを継続できるかどうかが大事なのです。ですから今後の言動が謝罪と反省が本物かどうかを見極める点で一番大事です。

 

具体例でいくつか見ていきましょう。

DVならもうしないこと、エラそうな言いかたや怖いような行動をとらないことなど再発しないことが一番大事です。そうして、相手に安心感を持ってもらえるようにしていくしかありません。それには時間がかかります。毎日の実践で、非暴力的な態度をとっていくことを積み重ねることです。相手が少し攻撃的挑発的にかかわってきたときでさえ、決して暴力で対応しないようになることです。そのために共感的尊重的・シングル単位的な態度の練習をし、それを日常で実践していかねばなりません。

 

それはほかのケースでも同じです。

過去に「浮気」をしてしまって相手を傷つけたなら、信頼を取り戻すよう、日々いい関係を積み重ねていくしかありません。その途中には、相手からの怒りの表出もあるでしょう。それを甘んじて受け続けることです。

間違った対応は、相手が攻め続けることに逆切れし、「いつまで謝らないといけないんだ」「いつまでそのことを言い続けて僕を非難するんだ」と反撃することです。

 

過去の戦争や性奴隷制について反省と謝罪を本当にするなら、「もういいだろう」とか「金目当てだ」「政治的パフォーマンスだ」などといったり、侵略や性奴隷の事実を否定・軽視したり言い訳・正当化するなどもってのほかです。「いつまで謝らないといけないのだ」「過去の人のことで今の我々には関係ないし責任もない」というのは完全に間違いです。

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過去の事実を認めるならば、未来に向かって共に平和な社会[戦争しない、軍事的対立しない、非軍事化していく]を作っていく行動を実際にとることこそ大事です。それは今の世代の責任です。教科書から侵略や慰安婦などの真実を消して戦争を正当化するのではなく、今生きている「元慰安婦の方やその支援者団体や遺族などに敵対する」のでもなく、いまの教科書に事実を書き、今生きている「元慰安婦の方やその支援者団体や遺族など」に誠実に謝罪し、戦争にならないよう憲法を守り軍事的に縮小(軍縮)していくことです。その他外交的に非暴力で信頼関係を構築するなど非戦にむけてできることをすることです。それは未来に向かっているのです。

 

相手がナイフを持っているかもしれない、突き刺してくるかもしれないと言って、こっちもナイフをいつももとう、ナイフの使い方を練習しておこう、ナイフ以上の武器(スタンガンや銃)などを持つようにしようとすれば、緊張が高まり、余計に危険になります。

そう思うと今の日本政府や保守系メディアがやっていることはことごとく、「適切な責任のとり方」の逆です。

 

苛めでも虐待でも、パワハラ、セクハラでも、過去にしたことを謝罪するとともに、その加害者が、未来に向けて「壊してしまった人のつながり、平和的な社会、信頼感」を再構築していく努力を示すしかないのです。自分が穏やかな人になり、二度と「苛め、虐待、パワハラ、セクハラ」をしないようなひとになることです。

 

そのためには、口先で謝るとか、ただ「逮捕されないようにがまんする」というだけではだめです。なぜそれをしてしまったのか、自分の中の「それをもたらした暴力肯定の考え」「ゆがんだ思考」に気付き、そうではない「非暴力的な言動になる適切な考え方」を身に着けることです。それを実践できるよう自分の環境を整えて、自分が変わるようにしていきます。

 

具体的には学ぶ場所に行き、学んで理解し、それを実践し、それを継続していくこと(定着化、身体化)です。理解の後、習得し、活用・応用・定着させていきます。

バッティングフォームの例でいえば、打撃のフォームの間違いを見つけ、理論を含めて適切な打撃フォームを「理解」し、それをなんども練習してまず基本形をできるようにし(習得)、そのうえで応用的な状況でも状況に応じてそれができるように練習を重ねていき、本当に自然に実際のゲームでそのフォームで結果を出していくようにしていくこと(活用・応用・定着)です。

 

DVなどの問題行動の反省については、改善した日々の時間的な継続が大事であり、日常を点検し続け、微調整を続け、それを死ぬまで続けることこそ、責任をとっていくということです。