ソウルヨガ

主流秩序、DV,スピシン主義、フェミ、あれこれ

同性婚

 

 

 

以下の意見、私はシングル単位論、主流秩序論を言っているので、よくわかります。1990年から言っていることなので。

高野さんは僕の本を読んでくれたのかな。だれかの引用をまた使ったのかも。家族単位、カップル単位、シングル単位という、「単位」という用語を意識的に使う人はまだまだ少ないので。

でもこの言葉をその独自性を理解せず一般用語のように、あるいは自分の独自主張のように勝手にさらっと自分も使っていますというような人がいます。それを見て、私の主張を知らずに、世帯単位のことは皆が言っていると思う人がいます。まあいつか誰からちゃんとトレースするでしょう。

 

でもまあ、同性婚の問題は一歩前進という面もあるというぐらいで、大きな方向性をわかる人が増えていく契機になればいいですねえ、という緩い感じでいいかとおもいます。

 

なお事実婚というのもかなり結婚制度という主流秩序に乗っています。そういう枠に乗らない様々な程度があります。高野さんはそこは分かっていないみたい。

 

刑事裁判を考える:高野隆@ブログ

http://blog.livedoor.jp/plltakano/archives/65859796.html

 

2015年07月05日

自由とは何か:同性婚容認判決は自由の勝利なのか

 

10日前、アメリカ合衆国最高裁判所は5対4で同性カップルによる婚姻届出を受理しないミシガン州など複数の州の法律を憲法に違反し無効であると宣言した。オバマ大統領はこの判決を「アメリカにとっての勝利」だと言って賞賛した(https://www.whitehouse.gov/the-press-office/2015/06/26/remarks-president-supreme-court-decision-marriage-equality)。

 

私の「リベラル」な友人たちもみな、この判決を喜び、フェイスブックの写真を虹色にしたりしていた。私は早速合衆国最高裁判所のサイトにアクセスして判決文(http://www.supremecourt.gov/opinions/14pdf/14-556_3204.pdf)を読んでみた。

 

その判決内容は、しかし、私の予想していたものとやや違っていた。私は、連邦最高裁は同性カップルの婚姻届を認めないのは平等保護条項に違反すると言ったのだと思っていた。オバマ大統領もコメントの冒頭で「全ての人は平等に創造された」というアメリカ独立宣言の一節を引いている。

法廷意見は確かに平等保護条項にも言及している。

しかし、その判断の主要な根拠は、平等保護条項ではなく、デュー・プロセス条項である。 合衆国憲法第14修正(1868年)はこう定めている――「いかなる州も、法の正当な過程(due process of law)によらずにいかなる個人の生命、自由または財産をも奪ってはならない」。同修正は、この文章に続けて、「また、その法域内にあるいかなる個人に対しても法の平等な保護(equal protection of laws)を拒絶してはならない」と定めている。

 

前者をデュー・プロセス条項、後者を平等保護条項と言う。ケネディー裁判官が執筆しギンズバーグ、ブライアー、ソトマイヤー、ケーガン各裁判官が賛同した法廷意見は、異性であれ同性であれ、カップルが政府に自分たちの結婚を承認させる(婚姻届を受理させる)ことは、デュー・プロセス条項がいう「自由」(liberty)に当たるというのだ。

 

法廷意見は、同条項が言う「自由」は、拘束されずに自由に行動するというような狭い意味ではなく、また、表現の自由とか宗教の自由というような憲法が明文で保障している自由に限られるのでもないという。

「これらの自由に加えて、個人のアイデンティティや信念を規定する親密な選択を含む、個人の尊厳と自律を中心とするある種の個人的選択にも及ぶ」と言う。

(Obergefell v. Hodges, 576 U.S. ___ (2015). Slip op., at 10)結婚におけるパートナーの選択はこうした個人の尊厳と自律に関わる基本的な権利である、と。 生涯にわたる親密な関係を結び、子どもの養育を含む家族生活を行うという選択が、個人の尊厳と自律に関わる基本的な権利であり、個人の自由に任せられるべきだというのは理解できる。

 

こうした関係を結ぶパートナーとして、異性ではなく同性を選ぶ人が事実として存在し、そうした選択の自由は保護されるべきだというのも分る。かつてアメリカの多くの州では同性間の性的な交渉を犯罪として処罰していた(反ソドミー法)が、2003年、合衆国最高裁判所は、こうした法をデュー・プロセス条項に違反して無効だと宣言した。(Lawrence v. Texas, 539 U.S. 558 (2003))。この判決の法廷意見(ケネディ裁判官執筆)はこう言っている。

 

この事件には未成年者は登場しない。傷つけられたり脅されたりする人もいないし、同意を拒めない状況に置かれた人もいない。同性愛者が結ぼうとする関係に対して政府が公式の承認(formal recognition)を与えるべきかどうかという問題でもない。この事件は、二人の大人が相互に同意のうえで同性愛者のライフスタイルにとってありふれた性的交渉をしたというだけである。

 

上告人らには彼らの私生活を尊重してもらう資格がある。州政府は、彼らの私的な性行動を犯罪とすることによって、彼らの存在を貶め彼らの運命をコントロールすることはできない。デュー・プロセス条項のもとにおける彼らの自由への権利は、彼らに対して、政府の介入なしに彼らがそうした行動をとる完全な権利を与えている。(539 U.S., at 578.強調は引用者)

 

結婚は私的な空間における性行動ではない。それは個人の選択を政府が公式に承認し、その当事者に特別な権利や利益を与えあるいは義務を課すものである。本件の上告人たちは、自分たちが選択した親密な関係に政府が介入することを排除することを求めているのではなく、むしろ政府の介入を要請しているのである

 

これを「自由」と呼ぶのは自由というコンセプトを破壊することにつながる危険性はないだろうか。 法廷意見は、「政府の公式の承認」が必要な理由を主として子供の福祉の観点から説明している。

 

結婚というものが与える承認、安定、予測可能性がなければ、彼らの子どもたちは、自分たちの家族は下等なものであるというスティグマを感じることになる。さらに、彼らは未婚の親に育てられ、自らの落ち度なくしてより困難で不確かな家族生活へと落ち込むという重大なコストを負担することになる。こうして、問題の婚姻法は、同性カップルの子供に害を及ぼし、屈辱を与える。(Slip op., at 15)

 

おそらくアメリカ国内にも日本と同じくらい多くの未婚カップル(いわゆる事実婚)がいるだろう。私の回りにもそうした選択をしているカップルがいる。その中には子供を育てている人もいる。彼ら自身もまたその周囲の人々も、彼らが「下等」だとか「困難で不確か」だと感じているようには全く見えない。

むしろ彼らは積極的に自らの自由な選択として「事実婚」を選んでいるように見える。仮に、未婚の親に育てられている子供たちが何らかのスティグマや困難をかかえているとして、それは親が未婚だからというわけではないだろう。

 

何か他の原因があるはずである。そして、その原因は親が法律婚をしたからといって解消できるものではないだろう。未婚カップルとその子供に対する法廷意見の理解は、はなはだ一面的であり、実証的根拠のないものであり、そして、差別的ですらある。

政府の承認に必要以上の価値を与えようとしている点で、それは権威主義でもある。 現代において結婚という制度は、個人の尊厳と自律に基づく選択の保護という側面では、特別の役割を果たしてはいない。それはむしろ、政府による人民統治の基礎的な単位として機能している

 

それは財産関係や親族関係、相続から医療、教育、福祉などまで、あらゆる場面に複雑に入り組んだ権利義務の体系をなしている。これは「自由」の問題というよりは、政府の統治権限行使の在り方の問題であり、富の再分配の問題でもある。同性婚であれ異性婚であれ、事実婚のカップルやその子どもたちが法律婚の家族が得ている法的利益を享受していないという現実が問題なのである

この差別に合理的理由はあるのか、差別をなくすためには何をすべきか、差別をなくす方策の一つとして同性同士の法律婚を認めるという方策は正しいのか、そして、それは憲法上の権利なのかという議論をするなら理解できる。しかし、これは個人の自律とか尊厳の問題ではない。政府の介入がなければ存在し得ない「尊厳」とか「自由」というものは尊厳でも自由でもない。 (2015年7月5日)

 

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