ソウルヨガ

主流秩序、DV,スピシン主義、フェミ、あれこれ

『リトルダンサー』をみなおした

 

 

映画関係のエッセイを書く必要があり、『リトルダンサー』をみなおした。

 

あらすじがわかるので、知りたくない人は読まないでください。

 

リトルダンサー』は、1984年のイギリス炭坑町ダーラムが舞台。

11歳のビリーはおばあちゃんに優しい子。すこし歳の離れた兄トニーはたくましくて、もう炭鉱で働いている。

そして愛する母が死ぬ。そんななか、炭鉱ストが行われている。一部の仲間が裏切って働くこと(スト破り)に抗議する炭鉱労組のひとたち。

 

本作も、『我が谷は緑なりき』、『フル・モンティ』、『ブラス!』、『パレードへようこそ』といった炭鉱の町を舞台にした炭鉱労働者の映画であり、その組合魂を描いた点で素晴らしい精神が伝わってくる。

しかし現実はストへのスタンスで、友人同士でも関係が壊れる。スーパーで出会うとよくも顔を出せたなと怒るような形で。

時代や文化の影響、そして炭坑労働者ということもあって、マッチョな世界だ。すぐに殴る親、兄。男ならボクシングやサッカー、レスリングというような町。 

男がバレエをするなんてという社会。バレエをするなんて「オカマ」だというようなことが平気でいわれる街。なぜバレエがダメなのかと言われてもだれも説明などできない、そんなの決まっていると怒るだけの世界。「殴られたいのか!」と手を挙げて殴るふりをするような。

 

友人の中に独り、ボクシングが嫌いな男子マイケルがいる。ゲイの子、あるいはトランスジェンダーかもという子。本人も周りもまだまだ分からない。ただ彼は家でひそかに姉の服を着たり口紅を塗ったりしている。

それをしていると何か楽しい。

 

ビリーも踊りに目覚めるのは似た感覚。何か惹かれる。ダンスをはじめる。回れるようになってどんどん楽しくなっていく。

で、もちろん、ビリーが隠れて、女子に混じってバレエをしているのを知って父が怒る。

「何がいけないの?」と問うビリーに父は、男がするのはボクシング、サッカー、レスリングだ、バレエは女のものだと怒鳴る。

バレエをしていてもオカマとは限らないんだよと言っても通じない。もちろん、そもそもLGBTで何がだめなのかという言葉も概念もまだビリーは持っていないし、父親にはそんな考えを聴いたこともない。

 

そんな中、町のバレエの指導をしている中年女性で少しくたびれたコーチ先生が、ビリーにロイヤルバレエのオーディションに行くよう勧める。ビリーに何か才能のかけらを感じたのだ。

だが父と兄が「何言ってんだ、信じられない」と反対。田舎でロンドンは遠い。旅費もかかる。男がバレエなんて。バレエなんかしていたらスト破りみたいなやつになるという兄。こいつのためにならないと言い放ち反対。

 

そしてストの関連で弾圧を狙っている警察は、過激な活動をしている兄に目をつけており、兄が逮捕されてしまう。当然その騒動があったために、ビリーはロンドンにいけない。

貧乏、弾圧、ジェンダーセクシャリティでの偏見、さまざまなものがビリーの前に立ちふさがる。

そのことにダンスで怒りを表すビリー。

 

それを見て私たちは気づく。最初は下手だった彼の踊りに躍動が加味されて上手くなっていることに。テクニックでなく、本質的な感情表現という点で、上手くなっている!伝わってくる!

***

 

数か月たって冬になっている。ストは続き、労働者は追い詰められ、給料もなく、金が苦しい。 ピアノを壊して寒さをしのぐ“暖炉のまき”にしている。それはかあさんの思いでのピアノだった。貧しい生活。つらいクリスマス

 

ゲイの友人マイケルはあるときビリーの手を温めてくれる。キスする。

「このことは秘密にして」

でもビリーは、彼を嫌うとか怒るのでなく、友人としての関係を続ける。マイケルの辛い気持ち、炭鉱町でLGBTとして生きる辛さがなんとなくわかるから。

で、彼にチュチュを渡す。

2人でバレエのダンスを楽しく行う。

性や性的指向を越えて、魂と魂でつながる友情。

 

だが陰からそれを見つけた父は戸惑う。迷う。

ビリーはそこでダンスを父に見せる。蓄積されたエネルギーを爆発させる素晴らしダンス。

 

父はそれを見て決心する。コーチの所に行ってきく。「オーディションを受けさせるにはどうしたらいいんだ?」

 

とはいうものの、オーディションを受けに行かせるにも金が要る。ストをしている労働者にそんな金はない。

ひそかにスト破りを決意する父。

 

ある朝、スト破りで働こうとする父を見つけて、ビリーの兄は父を追いかけ、その裏切りをなじる。

父と息子の慟哭。スト破りが人間として最低のことだなんて、父は百も承知だ。だが、ストをつづけても勝ち目はない。だったらビリーにチャンスをやろう、そのために金が要るんだ。慟哭。

 

だが解決はスト破りじゃない。違う方法を探そう。そういってスト破りから父を連れ帰る。

炭鉱町の仲間、皆でビリーをロンドンに送る金集めが始まる。父は母の形見の時計など宝飾品を金に変えようと質に入れる。ビリーの人生の成功という母の思いと自分の思いを胸に刻んで大切なものを金に換えようと手放す。

****

 

田舎の炭鉱町ダーラムから出たことがない父だった。だって町の外には炭鉱がないからどうして出る必要があるんだ?

 

なんとか息子を連れてロンドンでオーディションを受けさせることはできた。だが更衣室でバカにされてほかの参加者を殴ってしまい、田舎の洗練されていないビリーは合格しそうにない。

 

バレエ学校に入る面談オーディションには親の面談もある。子どもをバレエ学校に入れようなんてのはインテリで裕福で都会の親だ。そんな「バレエに慣れ親しんでいる裕福な普通の親」とは全く違う。とつとつと思いを語る父

 

ビリーも口頭試問がある。そこで聞かれる。「踊っていてどう感じるの?」

ビリーは少し考えて答える。

「おどると頭がからっぽになる。ぼくは飛ぶ、鳥のように

電気が流れるんだ。」

 

***

しばらくたって、ダーラムでは、ビリーが合格するかどうか皆が待っている。

通知が来る。 皆がかたずをのんで待っている。

喜ぶ父。

愛があふれる場面だ。

 

しかし炭鉱仲間はストが負けて職場に戻ることになった。

沈痛な雰囲気。

だがそんな組合の町の人にとって、ビリーが町を出て「上昇」していくことには希望を感じている。

 

ダーラムを出ていく日。コーチ先生にお礼。「ずっとわすれない」

「どうだか。しっかりやるのよ」

そういって、また田舎で、才能のない普通のこどもたちにバレエのレッスンをする先生。

この先生にも人生がある、悲しみがある。過去がある。彼女にも都会で輝く可能性はあったかも知れない。だが現実はこの町でこんなことをするぐらいだ。で、ビリーに出会い、タバコをくゆらしながら、すこし輝いた時間があった。ビリーと出会えて幸せだった。才能を見出したのは私だ。

 

ビリーはゲイの友人マイケルに最後、キスする。

やさしい。彼はうれしい。

そういう人たち、みなの思いを背負って都会ロンドンへ。

 

****

数年たって父と兄が着慣れない背広を着て、息子・弟の公演を観にロンドンに来ている。ロンドンの中心の一流の劇場だ。

 

開演前にビリーが家族用に席を取ってくれたところに座る。隣の席には、大人になったゲイのマイケルがいた 「見逃せないわよ」 

横にはマイケルの恋人らしき素敵な男性もいる。

 

「家族が見に来ていると言ってくれ」とスタッフに伝える父。

 

舞台のそでで出演を待つビリー。そこに家族が来ているというメモが手渡される。

その数秒後、たくましいからだになって主演スターになったビリーが、この世のものとも思えない素晴らしい跳躍で舞台に飛び出していく。まばゆいばかりのその跳躍。

 

田舎にいた11歳のビリー。そこから飛び出し成長し白鳥になった。世界レベルのダンサーがそこにはいた。

 

泣ける映画だった。

皆の思いを受けて、片田舎からロンドに来てついにトップダンサーにのし上がった。

あの田舎で先生に出会わなければこうはならなかった。

父や兄がその世界観を脱皮しなければこうはならなかった。

 

男だってバレエをしていいじゃないか

ゲイの友人マイケルへの優しさ。 ゲイフレンドリーな映画

素晴らしいダンサーになるまでには多くの人のこんな支え・応援があった。多くの人の思いがあった。

「この子の夢をつぶさないでやってほしい」

 

私は映画を見て思う。

「貴方や私はビリーのダンスのように感情を出せているか。ビリーの親や兄のように、自分の殻を脱いで、誰かへの自由を抑圧せず、応援しているか」

 

日本ではこの労働運動の<たましい>、連帯意識、スト破りへの怒りの感情など、理解されにくいだろうと思う。

日本でも昔は三井三池闘争があった。   労働運動の連帯の息吹があった。が今ではそれをわかる人は少ない。80年代にはイギリスのサッチャーと思想を同じくする中曽根による国労潰しがあった。限界はあったものの高度成長期には労働運動があるていどの力を持っていた。政治とも結びついていた。そんな中、高度成長が終わるとともに、分配闘争型物質主義型の労働運動の限界が出てきて、国労潰し、春闘つぶしで、労働運動の季節は終わった。

国労潰しがひどいことだとわかっていない人が多い日本だが。

 

そしてこんな酷い日本になった。

 

いまの日本、主流秩序にからめとられた多数派の感覚では、組合の仲間意識や、スト破りする人へのあれだけの敵意はわからないだろう。

だが時代を超えての「人生からの問いかけ」がそこにはあった。

それは人としての生き方の問題だったのだ。

 

日常に、重要な選択を迫られる場面があるのだ。換言すれば、まともな生き方になるチャンスがまいにち、そこかしこにある。

 

自分だけカネを得るのか。なかまのために団結を守るのか。金に負けないか。VWの不正や旭化成の手抜き工事や小渕議員女不正経理とか、汚職や買収に手を貸すのか。

なかまのため、社会のマイノリティのために、自分の責任を考えて生きられるのか。それが戦争遂行のための滅私奉公と区別できるか否か。

 

同時にこの映画のように組合魂、連帯意識ある人も、ことジェンダーセクシャリティになると、全くダメで、暴力的で抑圧的だということ。

まだ11歳だからかも知れない。 でも大人だってそんなことする、言葉で表現できないいらだち。

それをこの男の子は型破りなダンスで表現する。

それが徐々に上手になっていく。洗練されていく。

 

気持は言葉だけじゃない

イギリスの田舎の炭鉱町に住む少年は父と兄の3人暮らし。母が亡くなり、男なら炭鉱夫ときまっているような雰囲気の街で、1人、ふとしたことからバレエにひかれていく。

それが最後の跳躍シーンにつながった。

 

あのシーンを思い出すと、皆の思いが重なって一人の人生があるのだと思って泣けてくる。

いい映画だった。