ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

仕事だからといってどんな仕事でもするのか

 

そういう人はいるし、そういうようにせざるを得ない切羽詰まった状況の人もいるのが現実です。でも、あなたは、私はどうのか。そこには選択があります。どこまで切羽詰まっているのか。思考しているか、他の道はないのか、主流秩序に加担していることをどう意識し、どう責任を取り、どう折り合いをつけるのか。

ゼロと100の間にはグラデーションがあるということです。
粗雑に、「しかたない」「好き嫌いじゃないんだ」と思考停止するところからいじめも差別も戦争も始まっていきます。

そして、戦争の前線で死んでいくのも、過労死するのも、被ばくする危険作業につかされるのも、いつも末端の人間です。

 

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原発作業員と3・11:中)現場40年、「好き嫌いじゃないんだ」
朝日2016年3月18日05時00分



 東京電力福島第一原発で40年間働いてきた男性がいる。1971年の営業運転の開始直後から、事故当日まで。そして今は、廃炉作業に通う。「1F(福島第一原発)」とともにあった半生を振り返った。


 男性は、第一原発にほど近い工事会社員。今も原子炉建屋に出入りし、空調関係の復旧工事を担う。
 初めて働いたのは、72年ごろのこと。初めは、漁師の副業として。魚の価格が上がらず、漁師を諦めた89年からは、原発「専業」になった。


 地元で生まれ、漁師にあこがれた。高校を休んでサンマ船に数カ月乗り込んでしまうほどの船好きで、卒業を待たずに漁師になった。ひとたび漁に出れば、数カ月家を空けるのはざらだった。フォークランド紛争が終わったばかりのアルゼンチン沖までイカ漁に行った時には、領海侵犯をしていた近くの船が砲撃を受け、沈没したのを目撃した。遠洋は長いと、10カ月ほどかかった。休漁期間に稼ごうと始めたのが、原発での仕事だった。


 ■わざと検査せず


 男性が原発で働き始めた70年代。下請けの現場は「今ほどルールが守られていなかった」という。原子炉建屋から出てくるパイプなどの廃材を、直接触って廃棄することもあったという。放射性物質が、建屋の廊下などに付着したこともあり、「除染」したことがあった。


 配管の傷を見つけるには、「浸透探傷検査」という手法を使うのが、今も昔も一般的だ。赤い浸透液を配管に塗って、一定時間おいた後に拭き取ると、亀裂など傷があれば、そこに染みこんで残る。次にシンナーなどの揮発性の液体に白い粉末を混ぜた「現像液」を塗ると、傷に染みこんだ赤い部分だけが浮き上がり、傷がわかる仕組みだ。


 傷は修理しなければならない。ただ傷を見つけても修理が納期に間に合いそうにないときには「傷がある場所には、わざと赤い浸透液を塗らなかった」という。検査をごまかし、修理は運転再開までに間に合わせた。
 男性は振り返る。「元請けは、ミスは隠さず報告するよう要請するが、仕事外しのペナルティーは必ず来る。だから、ミスは隠すのが一番理にかなっていた。元請けと下請けのピラミッドのような関係がある限り、ミス隠しはなくならない」


 ■元請け「人送れ」


 東日本大震災当日は、原子炉建屋の地下にいた。部品の交換作業を終え、検査を受けていたところだった。上の階から、巨大なものがぶつかり合うような金属音が聞こえた。避難しようにも、階段は揺れが激しく、地震が収まるまで上れなかった。津波が押し寄せたが、避難した敷地内の事務所までは届かなかった。その日夜、帰宅した。


 後日、最後まで原発に残ったのは「バルブ屋さん」だったと聞いた。施設の配管に一番くわしく、どのバルブを開ければどこに水が流れるかを知っていたからだ。原発で働くバルブ業者に「元請けから下請けまで、最後まで現場にいたんだ」と直接聞いた。


 男性が原発作業に戻ったのは11年5月ごろ。会社から「戻ってきてくれないか」と電話があった。第一原発では働かせない約束だった。


 だが、ある日、勤め先の社長が食堂に社員を集め、申し訳なさそうに告げたという。「第一原発に行く気はさらさらないが、行かないと仕事が来ない。すまないけど、みなさんは第一原発の予備作業員として登録させていただいた」


 社長の説明によると、元請けの会社が下請けの社長たちを集め、「第一原発に人を送ってくれ」と要請した。社長の一人が「今の条件ではダメだ。危険手当を割り増しで出してくれ」と言うと、元請けから、こう返された。「銭が先の業者とはお付き合いしませんから」。仕方なく応じた業者もいれば、拒んだ業者もいた。男性の会社は、前者だった。


 漁師のころ、「原発の温排水で海の生態系が変わる」と原発に反対したこともあった。一方で40年、仕事をくれたのも原発だ。「下請け業者は、震災の前も後も原発におんぶにだっこ。それで稼いで大きくなった会社もあるし、技術力を上げた会社もある。世話になった思いは、浜通り福島県の太平洋沿いの地域)の人間ならある。好き嫌いじゃないんだ」


 (疋田多揚)

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