ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

非暴力で思うこと

 

教育でも、人間関係でも、DV問題でも、暴力的ということが問題で、その特徴を表すのは、DV的、外的コントロール、支配・操作的、調教、強制、カップル単位、YOUメッセージ、、攻撃的(アグレッシブ)なかかわりと言える。

 

それに対して、非暴力というのは、非コントロール型と言えるもので、I(アイ)メッセージ、共感的、アサーティブ的、非DV的、シングル単位的、相手の意思尊重、主体性尊重、傾聴の特徴を持つ。

 

物事の本質を突くとか、世間(主流秩序)に流されずに、権威にたてつくというのはいいと思が、それが必ずしも攻撃的暴力的である必要はないと思う。
このあたりのバランスがむつかしい。

 

ひとつは相手が強者、権力側、支配側、暴力加害者側だと、「弱者側、被害者側」は闘争的(防衛、反撃、抵抗、反逆)にいかないと権利を守れないという一般論は言える。

 

しかし、暴力に暴力で対抗するのは、おおむね不利だし負けるし、同じ土俵に立っているので、いくら勝っても実は「ミイラ取りがミイラになる」ことであり、暴力社会は変わらない。それが主流秩序の仕組みだ。
主流秩序の上位に行く努力はおおむね暴力的であり、自分の権利のために相手をつぶすことになる。椅子取りゲームだ。


暴力社会と戦っているつもりで実は暴力社会を強化・維持してしまう。

それは戦後左翼などによくあったし、新左翼の暴力闘争はその典型であった。

 

そうではなく、主流秩序に加担しない、暴力風土を強化しないような「脱力的な、スローな、非暴力な」、対応こそ必要なのだ。それが主流秩序との闘い方であると思う。そのために身近な場所から非権力的になることが大事。

 

でその具体像を、例えば加害者プログラムでは学ぶわけ。


パワハラ的、モラハラ的、DV的なこういう言い方していたけれど、それを非暴力的なシングル単位的な、アサーティブな、言い方に変えるとどうなるか、それを考え、実践できるようにしていく。


これは難しい。

しかしそれが教育においても人間関係においても、現実的な改善をもたらす。時間はかかるがそれしかない。力で成果・効果をすぐに勝ち取ろうとすることの弊害は大きい。

 

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