ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

鈴木大介氏の、貧困報道への反省と提言  主流秩序論に近づいているが・・・

 


以下に紹介する鈴木の、貧困報道への反省と批判には真摯な姿勢が見られるとは思う。

 

研究者が実態を知らず、それで食っていることへの批判とか、
貧困報道がかわいそう報道になって、単に消費されているだけというのは、私の、主流秩序論、スペクタクル社会化批判と重なる。


貧困当事者がいい人ばかりではなく、実際のリアルはかなり問題があったりするという事実に触れているのも、まずは前進だ。
だから半分はこの論考には共感した。

 

僕も大学の教育で(自分もほかの先生も)貧困や社会の不正や差別、労働問題を伝えても、多くの学生はだからその弱者、被害者、非正規、ホームレスにならないよう、自分は主流秩序の上位に行こうというようになっている現実を見てきて、大学教育なんてもののダメサを考えてきた。過去の運動や教育の限界、過去のリベラルの限界を感じてきた。

 

一人一人の質を主流秩序との対峙で高めないような運動や教育には、僕は興味が持てなかった。だから僕は大学の正規教員をやめた。

 


しかしそもそもスズキが何か書くことで「多くの人に届けられる、変わってもらえる、まともな動きをしてもらえる」と思うのが、間違いだと思う。まだ自分の仕事に幻想を持ちすぎていると思う。


主流秩序の加担者たちを大学教育や記事程度ので変えられると思うのが甘い。ほんのすこし影響はあるだろうが。

貧困当事者がひどい人であったり、ゆがんでいたり、約束を守れなかったり、攻撃的であるとか、裏切ったりするのはむしろ当然。主流秩序にとても深く絡み取られているのだから。人を信じないし、人生は戦いと思っているし、人を裏切るし、人の〈たましい〉などわからない人は多い。
だって与えられていなかったもの。ひどいことをされてきてそれにさらされて、悪い奴が勝つというのを見てきたから。

 

 

僕の主流秩序のスタンスは、当事者が労働相談にきたり、被害者支援、加害者紫煙のところに来るなら、まともな生き方の方向に進むという点で寄り添う。
しかし主流秩序の上昇を手助けはしない。


主流秩序に従属している状況を美化も同情もしない。それが貧困であるということ、恥ずかしいことであることに気づいてもらうような関わりをするだろう。マイルドヤンキーの現状をリアルだといって追認しない。
困った状況に対して、自分で主流秩序の上昇ではない形の解決を見つけていくことを支援したいと思う。


***

未だスズキは認識の入り口に来ただけの感じがした。

そして鈴木が「ほかの研究者やジャーナリストはそれで飯を食っている」という批判は、鈴木が研究者批判をするその返す刀で、自分にも帰ってくる。

そこまで自分の加担性を考えて、主流秩序への加担性と自分の生きるスタイルを考えることこそ次にいると思う。

 

「「かわいそうバイアス報道」が当事者を失望させるだけの安易なアマチュア支援者やにわか支援希望者を量産してきたとすれば、僕のこれまでの著作は「害毒」と言っても過言ではない」
「貧困者を安易にコンテンツ化してならない理由は、単なる紋切り型の当事者見せ物報道の繰り返しはいずれ飽きられ消費されて、誰も見向きもしなくなるから。また、明日はわが身といった切り口は人目を引くが、貧困問題とはわが身に降りかからなくても解決に向けた努力をしなければならない社会問題だということ。」
「最悪の言い方をすれば、こんなコンテンツは綜合警備保障さんやセコムさんの株価を吊り上げるステマ報道のようなものだ。」
とまで言える鈴木さんなので、

 

このまま思考を進めていけば、主流秩序論に近いところに来るかもしれないとは思った。

 

端的に言えば、当事者の運動・戦いでしか変わらないという面と、
主流秩序の中で自分が加担者であることの自覚から謙虚に加担性を減らすことの実践、、そして
現場での具体的支援(本当に一人でもいいから実際に「被害者」を助けること)こそ必要という3つに至ってほしいと思う。

 

鈴木が問題にしている「多くの読者」など、変わるはずもない。そこから考えていくべきだと僕は思う。


学舎やジャーナリストもまあまともなものなら一定必要だが、非常に危険、殆ど、弱者を食い物にしているだけという自覚を持ってほしい。

ということで、貧困問題で食っている人の中で、まあ、最もマトモだとは思うけど・・という話でした。


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貧困報道を「トンデモ解釈」する困った人たち
ある階級の人たちは「想像力」が欠如している

鈴木 大介 :ルポライター 鈴木 大介ルポライター 1973年、千葉県生まれ。「犯罪する側の論理」「犯罪現場の貧困問題」をテーマに、裏社会や触法少年少女ら の生きる現場を中心とした取材活動 を続けるルポライター。近著に『脳が壊れた』(新潮新書・2016年6月17日刊行)、『最貧困女子』(幻冬舎)『老人喰い』(ちくま新書)など多数。現在、『モーニング&週刊Dモーニング』(講談社)で連載中の「ギャングース」で原作担当。
2016年06月22日
http://toyokeizai.net/articles/-/123487

 

 


鈴木大介氏による貧困報道への提言。今回のテーマは「かわいそうバイアスの限界」について
「もし食い物万引きしちゃいけないって言うなら、3日間公園の水だけ飲んで暮らしてみればいいんすよ。非行少年なんか、親が3日飯食わせなかったら誰だってなるんすよ」

「子供のことが心底憎いって思ってる親がいるはずがないって、わたし、生まれてから100回ぐらい他人に言われた。けどわたしが施設で暮らしてる間、母親から“あんた生むんじゃなかった”って手紙も100通ぐらい送られてきた気がする。母親の手紙にカミソリ入ってたことだってある」

 

「俺はヤクザになりたくないから東京に来たんですよ。中学卒業して地元で食っていきたかったら、ゲソ付ける(ヤクザになる)かヤクザの下で働く以外に選択肢がない地元って、鈴木さんわかります?」
「少なくともウチが通ってた高校じゃ、高校中退した理由が親の失業だって同級生がクラスに8人いました」

 

「初めての援交の相手はママの元カレです。あたしのママは、ばあちゃんに“シングルマザーでも娘3人生めば家が建つ”って言われて育ったんだって。女は中学卒業すりゃ夜職に突っ込んで稼がせることできるからって。実際、ママは中3からずっと夜職」

 

「鈴木さんて大学進学したやつはみんな親が金持ちとか思ってません? 鈴木さんの頃はどうだったかわかんないっすけど、僕の周りはだいたい家賃とか仕送りとか学費とか、大学行ってる間に親に払ってもらったもんは卒業したら返すのが前提ですからね」

目からウロコが落ちた取材対象者の言葉
ここ数年の取材で目からウロコが落ちた取材対象者の言葉を、思いつくままに並べてみた。


目からウロコが落ちるとはつまり、自分の生きる世界とは違う世界の常識を目の当たりにしたり、想像の範疇の外側をのぞいてしまったということ。取材記者を続けてきて痛感するのは、記者自身も含めて、「人間の想像力が及ぶ範囲とは恐ろしく限定的なものだ」ということである。
自戒を込めて、今回の提言は貧困報道における「かわいそうバイアスの限界」だ。よろしければ読者も一緒に悩み抜いてみてほしい。

 


前回までは、貧困者の安易な消費コンテンツ化に危惧を提した。貧困者を安易にコンテンツ化してならない理由は、単なる紋切り型の当事者見せ物報道の繰り返しはいずれ飽きられ消費されて、誰も見向きもしなくなるから。また、明日はわが身といった切り口は人目を引くが、貧困問題とはわが身に降りかからなくても解決に向けた努力をしなければならない社会問題だということ。


加えて貧困者とはそもそも「見るからにかわいそうで助けたくなるような人々」ではなく、その真の像が見えてくるまでに長い取材と記者と取材対象者との人間関係の構築も必要だから、速報性を求められるメディアの短期取材ではその実際はつかみづらく、かつ差別を助長しないように報道そのものに一定のバイアスがかかっていることが望ましい。


そうまとめてはみた前回までの連載だが、その先にもまだまだ問題は山積みだし、僕の提言は突っ込みどころ満載だ。
まず僕自身、これまで貧困者の描写にかなりのバイアスをかけ、彼らの見苦しい部分や読者が共感しづらい部分、差別の助長につながりかねない部分には目をつぶり、彼らの抱えた苦しさや貧困に陥るまでのバックグラウンド、声にならない「助けて」の声を意図的に拡声して報道してきたが、実はその作業が無駄だったのではないかと思うことも少なくない。


なぜならば、こうだ。
たとえばそうしたかわいそうバイアスのかかった報道を見て、貧困者を支援したいと思った人がいたとしよう。そこそこ一般的な家庭に育った若い学生さんがそう思ったとする。けれど、リアルにその当事者に接したときにその学生さんはどう思うだろうか。


「鈴木の本に書かれていた貧困者の像と違う」「なんか怖いっつーか面倒くさすぎる」。そう思って立ち止まってしまうかもしれない。


加害者の像を持つ貧困当事者
面倒くさいならまだしも、当事者の中には社会や対人関係の中で濃厚な「加害者の像」を持つ者も少なくない。「なんとか力になりたいんです」とアプローチした結果が、夜中にLINE100本とか、それで突き放したら「だましたな呪い殺してやる」の呪詛に転じたり、ふと気づいたら財布を持ってドロンだとかといったことは、貧困者支援の現場ではよくあること。


もちろん当事者すべてがそうではないから、こんなことを書くことがそもそも新たなスティグマ(差別的烙印)と言われかねないが、その一見してデンジャーな人物が、よくよく付き合ってみたら実は不安と孤独の中で切り裂かれるようなつらさの中で生きているだとか、そうなってしまう前に信じ難いほど苦しい人生を過ごしてきたということがわかったりするのも、またよくある話だ。だが単に僕の著作で憐憫を刺激された程度のにわか支援者は、リアルに接した加害的なパーソナリティの前に、そんな背景への推察を簡単に失ってしまう。


抱えてきた苦しみが大きいほど、そこにきれい事はない。
だからこそ支援者には専門性が必要なわけで、一方でその「かわいそうバイアス報道」が当事者を失望させるだけの安易なアマチュア支援者やにわか支援希望者を量産してきたとすれば、僕のこれまでの著作は「害毒」と言っても過言じゃないだろう。


随分、自虐的だとは思うが、この「ハンパにきれいに書くのも問題よ」という言葉は、思えばもう6年も前に、貧困者支援の最前線で戦う支援者から僕に投げかけられた言葉だ。
とはいえ「まずは可視化だ」ということで、かわいそう報道=苦しみの可視化報道を続けてきたが、その前に立ちはだかったのは、「想像力の壁」だった。一言で言ってしまえば、「人は自分が見たことのあるものにしかリアリティを感じられない」生き物だということ。それはこれまでの執筆活動の中で、読者の反応で痛いほどに味わってきたことだ。


読者の反応は3つに分かれる
コンテンツとしてブームになる前から子供や女性、若者の貧困をテーマに執筆を続けてきたが、その読者の反応は大きく3つに分かれた。
ひとつは実際にそうした困窮者の支援サイドにいる方々からの「私たちの見ている日常をよく描いてくれた」「よくぞ当事者の代弁をしてくれた」という反応。
もうひとつは「知らなかった! こんな人たちがいるなら私もなんとか力になりたい!」「知りたくなかったし、もう絶望。私はなんの力にもなれない」。

そして最後に、少なからずいるのが「こんな世界は見たことがない、これが本当に日本の光景なのか」「ファンタジーじゃないのか」と反応する読者だ。

描写にバイアスをかけているとしても、僕自身は取材対象者の物語を作るほどの才能はないし、その当事者の「 」(カギカッコ)内の言葉を絶対に改変したくないということで担当編集者たちと戦ってきた。だからそのリアルに自信はあるし、ファンタジーでこんな面倒くさい取材続けてられるか!とも思ったが、実は最も重く受け入れるべき読者の反応は、3番目なのだ。


その理由が、まさにその「想像力の壁」こそが、貧困問題の解決に大きな壁となって立ちはだかる現実だからである。
冒頭の取材対象者の言葉にいちいち驚いていたように、僕自身、その取材執筆活動はつねに自らの想像の向こうにあるリアルとの遭遇で、非常に体力を使う「解釈の経緯報告」だった。10年以上も似たような取材ばかりをやってきても、まだ目に落ちるウロコが残っているのは情けないが、それはそもそも僕が(一時的に貧困だったことはあったけど)スラム育ちでもなければ世代間を連鎖する貧困の当事者ではないからだ。


筆力がないのを読者のせいにしているようで気も引けるが、とにかく取材執筆活動の中で幾度も痛感させられたのは、人の想像力とはかくも限定的で、記者風情が筆致を尽くしたところで、読者が見てきた世界以外のリアルを想像してもらうことは困難極まりないということだった。
あまりにも書いても書いても「ちゃんと伝わった」気がせずに、たどり着いた結論は、日本はそもそも不平等で、階級間の景色が隔絶した社会だということだ。格差社会ではなく、階級社会。そしてその階級間の想像力や見ている景色の隔絶。


貧困問題がいつまで経ってもリアルな社会の危機として語られず、自己責任論やら他人事な嘲笑の向こうにある理由がこれだ。この日本には明らかに格差がある程度固定した「階層・階級」があり、たとえ同じ都道府県、同じ市町村に住んでいる人々でも、その育ってきた「階級」によって見てきた風景に大きな差がある。そして人はその自らの属する階級の世界観を超えた風景を想像することは難しい。

 

小ぎれいな新興住宅地に生まれ育った人間には、地方の公営団地で育った子供が通う中学校の中に組織化された万引き団(入学したら逆らえない先輩たちに強制万引きさせられる)があるとか、成人式で集まったら中学時代の同級生の女の子が3人に1人は夜の仕事をしていただとか、そんな話はもう「なんちゃってヤンキー漫画」の世界よりも現実感を失っているし、下手をしたら中学校入学初日に街角で食パンくわえた女の子が遅刻遅刻言って転ぶ世界のほうがリアリティなのかもしれないのだ。


貧困を記事にするとクレームが来る
そんな絶望的な隔絶があるのだと確信を深めた素材として、こんなひどい話もあった。
とある「かつて学生運動に身を投じた団塊世代に人気の雑誌」から受けた取材の中で、記者さんはこう言った。


「子供の貧困や女性の貧困を記事にすると、読者からすごい勢いでクレームの投書が届くんですよ」
その投書の内容とは、こんなものだという。
「僕らの世代が労働階級の解放のためにずっと尽力してきたのに、いまだに腹をすかせた子供が日本にいるはずがない!」
「われわれの知っている戦後の貧困とはうんぬん~~アフリカではうんぬん~~」


脱力感に腰が抜けそうな話だが、彼らにとってはこの日本でリアルに進行している子供の貧困よりも、テレビで報道される海外の子供の貧困のほうがよほど想像がつくということ。そして彼らは想像できないものを「ない」と断言するというのだ。


ここまでくると人の想像力の限界というよりは、その階級間で景色がまったく共有されていないことが原因として最も疑わしい。格差ではなく階級とするのは、そこに生きる人々が世代を超えて「そこ」から別の景色の世界に移動する手段が限られているからである。

 

「自分の出会ってきた中にはそんな人はいないから理解できない」。 この言葉は、僕の知る尊敬すべき若き支援者が、未成年の少女の貧困とセックスワークの相関性について「貧困の研究者」から投げかけられたというものだ。


貧困の研究で飯を食っている研究者が、少女の貧困と性産業との相関性に「理解できない」ほどに、階級間の景色は共有しがたいというのか。研究者という学究の徒はエビデンスがないものを信じないというが、そんなお粗末な想像力ではエビデンス調査の端緒すらつかめまいよ。


このエピソードは、いまだに思い浮かべるだけでドタマに来る。
これが階級間の隔絶と想像力の壁。イラ立ちついでにさらに言ってしまえば、これは雑誌からテレビまであらゆるメディア全体の作り手にも言える話だ。多くのメディアの発信地は東京なのだが、その東京発信の情報と地方の世界観の温度差にはすさまじいものがある。

 

厳しく言えば、「東京だけがもう日本ではない」。
たとえば取材の中で、少子化晩婚化やおひとりさま女性にについての話題を、地方のいわゆる「ソフトヤンキー」的な20代女子に振ると、こんな返答がよくある。
「わかんないかなあ……地元で30歳で結婚も出産もしてない女の、そのどーしょうもなくイケてない感が」
「そこまで売れ残っちゃったら、いつどこで男と知り合って、どうやって結婚するの? 子供産んだとき周りみんな年下で、めっちゃ孤立するじゃん」


地方出身で都市部に暮らすおしゃれアラサーアラフォー女性は、彼女らからすると「中高時代に頭はよかったけど地元じゃイケてなかった組」。東京発のメディアにとって最も身近な女性の貧困とは、こうした「おひとりさまキャリア女子の貧困リスク」となるわけだが、地元女子からすればむしろそうした女性の貧困コンテンツは「それみたことか、ざまあ」的な消費動向が強い。


そんな地方のコンビニで「東京おいしいラーメンランキング10」とか見出しに打った雑誌が並ぶのだから、雑誌不況なんか当然すぎる話なのだが、ことほどさように地方と東京、大都市では世界観に大きな差があり、お互いはお互いの想像力の壁の外にある。
ゆえに「東京だけが日本ではない」。となれば、首都メディア発信の貧困報道の的外れ感もまた、この「想像力の限界」なのかとも思う。地方にもこれまた地方在住者でも想像を絶するような貧困があるわけなのだが、首都発のメディアからすればそんな貧困は想定外の想定外、国外の問題よりリアルじゃないというわけだ。


中村淳彦氏とよく比較されるが……
ちなみに僕とはまったく違うコンセプトで、まったく近しい取材対象者のルポを続ける記者に、東洋経済オンラインでも連載執筆中の中村淳彦さんがいる。僕がこの連載で貧困当事者のコンテンツ化に文句をつけた結果、中村さんと僕を比較する読者も多いと伝え聞いたが、それもまた違うのではないかと思ったので言及したい。

 

そもそも中村さんは僕の先輩で担当編集者だったこともあり、同じ層を取材し続けてきたアングラライター仲間だ。
昨今まさに貧困のコンテンツ化の急先鋒に感じる中村さんではあるが、彼はことさら意図的に取材対象者を選んで「狙いすました売れる貧困コンテンツ」を発信してきたわけでは全然ないし、ルポライターとして手にしたカメラの描画力でいえば、より高い再現力を持つのは僕ではなく中村さんだ。

彼の筆致は貧困者にいっさいバイアスをかけることなく、淡々と見たままを描く。それこそ前段の「加害者像」ですら包み隠さない。その視線は、僕の著書の「3番目の読者」に近く、最も一般読者寄りな視点だろう。確かに残酷だが、明らかに貧困には縁のない読者に向かって貧困者を見せ物化する「陰惨」さは感じない。


中村さんの記事はことに「支援者サイド」にすこぶる評価が低いらしいが、いざ貧困周辺の当事者が見たときに評価が高いのは、実は中村さんの記事だ。なぜならそこには「なんだ私と一緒じゃん」というありのままの当事者像が描かれているからで、逆に鈴木は「わかるけど……あんたどんだけかわいそう物語盛ってんの」と言われる。


中村さんには貧困問題がコンテンツとして消耗されてはならないという危惧を持ってほしくはあるが、やはり本来はバイアスとリアルの両サイドが必要なのかもしれない。


さて、ならばいったいどうすればいいのだろう。どうすればよかったのだろう。面倒な論考に、もう少々お付き合いいただきたい。


本音を言えば、貧困問題なんて「人道」の一言で解決がつけばよかった。苦しいと言っている人を見たら、誰もが手を差し伸べてくれるような世の中ならよかった。かわいそうバイアスな報道から社会的弱者や困窮者に興味を持ち、実際に触れてその面倒くささや加害者像や出口のなさを知ってなお、そのそのバックボーンの痛みにまで思いを馳せてくれる読者が、もっともっといてくれてもよかった。


貧困当事者は「苦しい」と言わない
だが結局のところ、貧困の当事者は「苦しいです」とは言わないし、見るからに苦しそうに見えない人も多い。そこでバイアスな報道をしたところで、階級間の世界観の分断と人の想像力の限界の前では、人道主義なんかあまりにももろく、「鈴木が書くことが本当だとして、それは個別の事例ではないのか?」「著者は取材対象者に思い入れし過ぎで、やっぱ当事者には自己責任があるんじゃないか」と感じる人々に声が届くことはない。
ましてリアルを見たら、コンテンツ上の貧困者に同情できた人も、貧困者の攻撃サイドに回りかねない。ならばどうすればいいのかと、いろいろ考えてきた。こんな報道はどうだろうか?


この日本にある貧困を放置した結果に、それこそこの社会問題が「具体的にわが身に降りかかる火の粉」となって襲ってくるというトーンだ。

たとえば、「子供の貧困を放置すれば将来の日本は経済大国ではなくなり、すべての人が貧しく暮らしづらい国になってしまう」だとか、「地方はインフラごと崩壊して人は都市部でしか暮らせなくなる」とか(そんな本あったな)、「貧困を放置した結果に日本の治安は悪化して、犯罪の横行する諸外国のようになってしまう」といった啓蒙記事。

 

僕自身がこうした表現にもチャレンジしてきたし、貧困問題を放置した結果に社会が被る損失も、続々と報道されつつある。が、これもまた反省点がある。
こんな啓蒙記事は、昨今、大手メディアが垂れ流している「あなたも貧困予備層?」な記事の発展版にすぎず、「俺んとこは平気」な想像力の壁の分厚い人々にはまるで届かない。

「もしそうなるとして、それは何年後なの? そのとき俺もう死んでるし」という世代の人にはさらに届かない。「あなたたちの子供の世代がヤバい」といっても、子供に残すものがしっかりある階層の人々にはまるで届きやしない。

 

これはもう、届かないことが結果として出ている。子供や子供を持つ親世代よりも高齢者を極端に優遇する政策がずっとずっと、ムカつくほどにずっとまかり通り続けてきた今の日本が、まさにその結果だろう。


一方の「治安悪化」を切り口にした啓蒙コンテンツはどうか。僕の場合は、特に男の子(ことに組織的な窃盗や特殊詐欺事犯の現場にいる男の子)を中心に取材を進め、世代間を連鎖する貧困と社会から排除され続けた結果として、犯罪行為を生業とするようになった若者のライフストーリーを執筆してきたが、多くの読者の反応はこうだ。


「びっくりしました」「防犯に役立てます」……。

もうガッカリを通り越して、叫び出したくなった。
虐待があったり親の貧困があって、盗まないと生きていけない陰惨な過去があって、そんな子たちが社会へのルサンチマン(恨み)を抱えて犯罪をしている。何が悪かったのですか? 腹が減ったと泣いている子供を無視してきた社会が、彼らを生んだのではないですか? 
そうとつとつと書いた本の感想が「防犯のために親に読ませます」。大手紙の記者から「防犯記事のために取材をさせてくれ」うんぬんの依頼を受けて、どれほどの腹立ちをもって断り続けたことか。

 


駄目なのだ。こうした報道では、届かないならまだしも、「治安の悪化につながる貧困者を排除せよ」だとか「この危機の時代に暴走する貧困者からわが身を守る方法」といったロジックが大手を振って歩くようになる。

 

そして続く売れ筋コンテンツは、「持たざるものが持てるものから奪う世の中にしないためにはどうすればいいのか?」ではなく「持てる者が持たざるものからいかにして奪われないようにするのか」になり、階級間の対立感情をあおるばかりで貧困問題の解決とはいっさい関係ない方向に向いてしまう。

 

最悪の言い方をすれば、こんなコンテンツは綜合警備保障さんやセコムさんの株価を吊り上げるステマ報道のようなものだ。


限られた財源の中で、どこまで助けるべきなのか


では本当に、どうすれば……。結局、無能な僕には答えが出ないから、無力感や徒労感にさいなまれつつも代わり映えのしない「かわいそうバイアス」という芸風で記事を描き続けている。今もって「どう報道すべきか」に答えは出ないが、この問題は「こうあるべきです」と正解を提示するのはジャーナリストの先生様のお仕事で、僕は多くの人に論考してもらい、思索を深めていくことのほうが大事にも感じているからだ。


さて、ここまでこの長大な駄文にまじめにお付き合いいただいた読者には、きっと混乱の中にこんな疑問が惹起しているのではないかと思う。
「そもそもそんな面倒でまずい人たちだったとして、なぜ貧困者をそのままにしてはいけないのか」
「限られた財源の中で、どこまで助けるべきなのか」


報道スタンス=貧困問題や当事者のリアルをどう知ってもらうかについては答えがないが、実は僕自身が若い読者や取材対象者、たとえば大学生や詐欺の現場で働く若者などとの対話の中で、「生活保護とかマジずるくないですか?」といった質問を受けた際に、一定の説得力を持つ物語を用意することはできた。