主流秩序がらみでの、あれやこれ
主流秩序がらみで。
テレビとか、学生さんから教えてもらうこととか。
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● 自分の〈たくましい〉をみつめたときに自分の本当にしたいことはという問に対して、自分の考察では、「社会の雑巾になりたい」ということが答えとして自分の頭の中に一番に入ってきた。
言葉だけで見てみたらなんか汚いなとかどういう意味かなとか思われるかもしれないが、この言葉は上記の話にも出てきたその先生がおっしゃった言葉で、大概の社会の大人はキレイに掃除されたところばっかりを歩き、そこで生活をしている。また、キレイなところで生きたいと思っている。
でも、世の中には、キレイな所だけではなく必ず汚いところや掃除しなければならない所がある。そういうところを掃除できる人になりなさいという意味である。
そういうことができる人は影で努力できる人で、そういう行為は誰か必ず見ていてくれて後で返ってくるよとその先生に言われて、その言葉を間に受けた自分は今でもその言葉を大切にして、そういうことをしたいと考えている。
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●就活を始めた時、企業選びの基準にブランドが入ってくる。本当に自分を見つめなおすと、私はエリートになりたかったのではなく、エリートに見られたかっただけなのだとわかる。
そして中身が空洞の積み木を人一倍積み上げてきた私だからこそ、ガタロさんの生き方はうらやましくもあり、恨めしくもある。なんで30年も清掃員をやれるんだ、もっと良い職を求めないのか。憤りに近い疑問が残った。
定義がわからない「上」を無自覚的にも目指して、まがいなりにも22年間生きてきたのだから、今更自分を否定できない。主流秩序にからめとられるとは今の自分のことを言うのか、とビデオを見ながら感じた。
それでもやっぱり掃除係で一生を終えたくないという自分が確かに存在するし、訳が分からなくなっている。
ガタロさんが負け組ではないのを知りながら、負け組だろうと叫ぶ自分もいる。何が勝ち組なのかを問うている自分もいる。
私は自分を生きられているか、他人に作られていないか、いろいろと疑問が残る映像だった。
スピリチュアルな視点は排除しようとして生きてきた。見えるものが大事で、見えないものは甘えのもとになると。
しかしそうではないのではと、すこし思うようになってきた。
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●「君が何気なく過ごした今日は昨日死んでいった人があれほど生きたいと願った明日だ」
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