ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

植松容疑者は、私だ :障害者施設殺傷事件(その2)   功利主義をこえられるのか

 

 

 

先日書いた以下のブログの関連のことを少し。
2016-07-29
植松容疑者は、私だ
http://hiroponkun.hatenablog.com/entry/2016/07/29/120023

 

功利主義といってもいろいろあるが、それでも基本は、多数派のためには少数派が犠牲になるのは仕方ないということだ。そこに主流秩序をアわせて、前回すこし書いた。わかりやすかったようで、多くの人が読んでくださったよう。

 

サンデーモーニングでも少し似たようなことを言っていたけれど、主流秩序論にまでいかないからどうしても浅い。主流秩序への自分のかかわりやスタンスを問う人が増えればいいなと思う。

 

『閉塞社会の秘密──主流秩序の囚われ』(アットワークス、2015年)の関連部分を少し紹介しておきます。

 

○ 強者が強引に価値を決める社会
現代社会は、自由や多様性の装いをまといながらの、高度な統制の社会である。大事件(大震災、戦争、テロ、猟奇的事件、カルト、エイズなどの不治の怖い病気 など)を利用して不安を植えつけ、真に敵対的な政治運動を封印し、関心を非政治的な身近なものに向けさせ、「自由な消費」という形での画一的統制をおこなっている。


原発をめぐる議論に典型なように、多くのことは実は客観的・中立的・科学的・合理的な判断によって決定されているのではなく、利害、主観、政治的、思想的、ときには倫理的哲学的な立場によって判断がわかれるようなものによって決定されている。事故の起こる確率が高いと見るか低いと見るか、もし事故が起こっても社会的経済的利益と比較して甘受すべきものと見るか、甘受できないものと見るかは、人一人の命や痛みをどれだけの重みと見るかにかかっている。お金を払えば、事故が起こった原発で働いてもらうことに問題はないと考える。自分の家族は行かせないが、行きたいという人がいて契約が成立しているならいいじゃないか。その程度の思考で原発事故やその後の対応を考える。


識者の多くは、競争を肯定し、金による契約を肯定し、商品を売るために文を書き、口を開くような人である。それは「嘘に巻く包帯」のようなものであった。10万人が利益を得るなら5人が死んだり50人が病気になったり自然が破壊されるのはしかたないとおもうかどうか。都会で事故が起こるとどうしようもないから、金をばらまいて地方に原発を造るのはよいと見るか、ひどいと見るか。

100万人が失業していようと、統計的にそれが2%で相対的にましであることなら、たいして問題ではないとみるかどうか。貧乏な人が代理母になったり、子どもや臓器を売ったり、売春したり、ひどい労働条件のところで働くのも、「本人がその金額の契約で納得しているならいいじゃないか」という。「一部そういう例外はあるかもしれないがしかたない」という。多国籍企業が労賃が安い国に行ってそこで安く商品を作るのはいいことだ、金で土地を買ったりビルを買うのはいいことだと思っている。


そこは価値観の問題、生き方の問題であり、受験偏差値が低いとか高いとか、素人である、専門家であるとかは関係ない。理屈はどこにでもつけられる。多数の利益の前には少数の犠牲は正当だという、道徳における単純な帰結主義功利主義 の思想は強くはびこっている。先に結論ありきで、組織の名のもとに動き、責任など誰も取らないなかでは、恥ずべきことなど「恥ずべきこと」ともおもわれずに、いくらでもなされる。社会とは所詮その程度で動いている。(たぶん、そこは大筋では変わらない。で、自分はどうするかが、次章の課題である。)

 

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功利主義を超えた先に


本書の観点、スローの視点は、最大多数の最大幸福という功利主義では考えないということを意味する。マイケル・サンデルは『白熱教室』の「殺人に正義はあるか 犠牲になる命を選べるか」という問題提起において、以下のような事例を紹介した。


病院で中程度のけがをしている5人と重症の1人がいて、5人を診れば5人を助けられるが、重症患者は死ぬ。その逆に重症患者1人を診ればその人は助かるが5人は死ぬ。どうするか。
 また臓器移植で5人の心臓、肝臓、膵臓(すいぞう)、肺、腎臓(じんぞう)を必要としている患者がいて、移植があれば5人は助かるとする。そこで、隣の部屋に偶然、健康診断にきている健康な人を1人殺して5人に移植することは正義か。


さらに海の上で4人で漂流していた時に、生き延びるために誰かひとりを殺して食べて残り3人が生き延びるという行為を私たちはとるのかという問題。
 功利主義で言えば、多数派の利益になるのであるから一部少数者の犠牲は合理的な選択となる。


多数がよければ少数の犠牲は仕方ないという観点だけで生きるなら、日本国民の多くが沖縄に基地を押し付けることも、福島や福井県など人口の少ない地方に原発を押しつけることも正当化される。多数の正社員のためには、少数の非正規労働者は不安定雇用でも低賃金でも首切りにあっても、しかたないとなる。

日本人の利益を優先して外国人を差別することも、健常者の利益のために障がい者を差別することも、性的多数派のために性的マイノリティを差別することも合理的となる。さらに、わが国民(民族)が生き残ったり豊かになるために他国を侵略する戦争を肯定する考え方にもつながるし、失業率が一定あってもよいとみる考え方にもつながる。


 だから本書は、そうした功利主義を批判する立場を選んでいる。だがこのことは直ちに自分は多数派の側にいて主流秩序の維持再生産に加担していないかという問いにつながっていく。きれいごとだけでとどまらずに、自分の生き方や利害にかかわることにまで論理的にはつながり、自分のありようが問いの前で審問される。


たとえば、上記のような少数派を犠牲にすることに違和感を感じるというなら、では、動物の犠牲(苦痛、大量虐殺)の上に肉食や革製品利用・羽毛利用があることについては自分はどう考え行動するのか。

環境破壊につながる食事の仕方でいいと言えるだろうか。自動車を所有し乗ることはどうなのか。エネルギーをかなり使う家電製品の多用はどうなのか。多くの食べ物は、工業的な食物生産によって供給されている。そして多くの店では豪華な食事が供されている。そこに、少数の犠牲はないのか。結婚したり正社員になるということは、結婚できない人や結婚していない人や正社員でない人の犠牲の上に立っていないのか。


 こうして、功利主義の立場をとらないということは、たとえば消費主義の問題、さらにべジタリアン問題といった簡単ではない問いを私たち一人一人に突きつける。仕事だから仕方ないとか、「動物たちが命をささげてくれていることに感謝しましょう」という程度で話を終わらせるのは、欺瞞(ぎまん)でしかない。

上記の臓器移植の例で、「健康診断に来た人の命をいただいたので感謝しましょう」と言って5人の移植のために一人を殺すことを正当化しないならば。また泥棒した後にお金を奪われた人に、泥棒した人たちが仲間の間で「感謝しましょう」と言っていればよいと思わないならば。


功利主義の立場を「合理的」と呼び、現状を急激/根本的に変えないようなことを「現実的」と呼び、自分の生活を変えないような、外国や昔の話、哲学や一般論、安定した立場にいるものが経済政策などを論じているのは簡単である。自分にかかわらない空論だけ言っていられるから。

しかし、そういう立場をとらないならば、そして「思考しないで自分の加担性をみずに、少数を犠牲にするような鈍感さ」を問題とするならば、自分にとっての難問に直面せざるを得ない。

私たちは、何かしらの命を奪って食べているし、グローバリゼーションの中で生きており、資源・工業製品を消費し、金を使ってモノを買うという形で消費主義に加担している。学歴主義に加担し、美人をほめたたえて美の秩序を再生産し、地球環境に悪いものも買って消費し、大量のごみを出している。


いまの社会、主流秩序と自分の責任の問題、正義や倫理の問題を考えていくということは、慣れ親しんだナイーブな状態(信じていること)が揺るがされるから自分にとってのリスクである。しんどくなる。楽ちんさ、純真さを失う側面がある。自分の政治的判断にも確信性が減ってしまい迷うことになる。本書はその立場から考察している。


だがそれは苦しいばかりではない。むしろその道を通ってこそ見える景色を喜びとし、成長ととらえることができると考える。そうして獲得していける世界の闇や深みにつながる感性を、私はスピリチュアリティと呼ぶ。単純な元気さがなくなり無口になった先に、また希望や楽観性を見出せるようになりたいと思って本書をまとめている。


ただ議論して気のきいた理屈を言うだけで、変革と結び付かない議論に人生を使ってはならない。自分を変えられる時に自分はどうするかという問題である。

 

ポイント16:功利主義ですまないとなると、がぜん難しくなる。自分の加担性を入れて、それでも見えてくる小さな希望を探す。現状を急激/根本的に変えないようなことを「現実的」と呼び、自分の生活を変えないで一般論を語るのは思考停止あるいは欺瞞でしかない。