ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

「空を飛ぶことよりは 地をはうために 口を閉ざすんだ 臆病者として」②

 

以下のように伝えるうちの一部でした。載せておきます。

 

◆ある学生さんの質問「先生は、社会の問題を指摘するのに、なぜ社会を政治的にとか、制度的、法的・社会運動的に変えていくことを強調せずに、ガタロさんの例を前に出すのですか?ガタロさんは素晴らしいけれど、解雇されても貧困でも、社会に文句を言わずに気持ちの持ち方で幸せになれる、というメッセージの面があるのではというところが引っ掛かります。」

→ 伊田の応答:いい質問ですね。そしてあなたのまっすぐな姿勢には共感します。何度か少しは応答したのですが再度まとめて答えておきます。まず私は「制度的、法的・社会運動的に変えていくこと」は大事と思っています。だから政治家とか、社会活動家、NPO活動家、社会的企業家、いいアート作品で訴える、いい法曹家や研究者になる、その他になって、社会構造を変えていく人が増えればいいと思うし、そういう人を応援したいと思います。それが多くの人を「助ける」には有効だと思います。その時のシステムとしては、私は、北欧型の個人単位・社会民主主義システムがいいと思います。

あなたがそういう夢と希望をもってチャレンジすることを応援したいと思います。がんばって!いい社会を作る構成要素になってください。


しかし、私は個人的には、いろいろ見てきて経験して歳をとって、日本ではそのような改革をするのはむつかしいなあと思っているので、重点を「社会制度全体を変える」ことより「身近なところで個別に少しでも問題を現実的に解決する」ほうに移しています。たとえば労働関係やDV関係、いじめ、パワハラ、セクハラなどで何か問題にぶち当たれば、相談を受けて、個別に解決策を提示したり支援します。気持ちを聞いて相談にのり、カウンセリング的に対応することもあれば、いまの制度を使って具体的に解決するよう動くこともあります。生活保護を使えるように同行支援するとか、もめている夫婦に介入して解決の道を探るとか、はその一例です。


主流秩序論は、そうした私の視点を反映しています。したがって、社会全体の構造を変えることも大事としつつも、重点は主流秩序を構成している個々人が、主流秩序に対していかに対抗して生きていくか、そうした個人の生き方を問うことに強調点を置いています。


 私自身は10年ほど前に、大学正規教員(助教授)を自ら辞めました。大学や社会運動で、言葉の上で「いいこと」を言う一方で、将来まで安定した身分が保障され年収が高くてイイ家を買って結婚して子供をもって…というのは欺瞞かなと思ったのです。学生さんに格差の問題を話している私自身の年収が高く、主流秩序の上層の生活をしているなんて矛盾じゃないですか? この問題は「トランプ支持者が、政治をやってきたやつらは民主党も含めて特権階級だ、と怒りを向けること」とつながっている面はあります。


 それに「結婚し正規雇用で年収が800万円あってやりがいある仕事をしている」なんてモデルは普遍的ではなく、ひきこもりや非正規労働者の多くは選ぶことができません。主流秩序の上層は、席が極めて限られて、社会構造に加害的な立ち位置です。多くの人は「負け組」になり、生活も苦しく、自信も奪われていきます。社会を変えようとしても、なかなか変わらない。この現状のなかで、モデルになりやすいのは、主流秩序をのし上がるのではなく、序列から少しでも離れて、好きに生きる方向です。
リベラルや左翼、革新政治家は、戦争や集団への差別・格差など、「大きな人権侵害・暴力・不正」を問題にしてきました。一方でそういっている本人自身が身近なところでは権力的で、能力主義にとらわれ、暴力や非正規との格差に鈍感、子供には学歴をつけさせる、ということがよくあったわけです。社会の暴力は身近にたくさんあります。だから私は、主流秩序論で、身近かなところから言っていることとやっていることを一致させていこうと提起しているわけです。


こうした私の主張の重点の変化は、以下のところに書いています。興味のある方は参照してみてください。また、俗っぽくわかりやすく言えば、「政治って汚くて怖くて、理想を持っていても、そのうち実際の効果を目指すなら泥水に入っていかざるを得ず、そのうちそれに取り込まれてしまうことが多い」ものとおもうのです。

それでも一歩でも改革を進める人も大事ですが、私は、理想を捨ててどろどろになっていって権力に近づいたり現実の制度を少しでも変えることに生きがいを見いだせなかったタイプです。

実際には、私も政治家の応援をいくつか身近にしてきて政治の実際を少しはわかりました。そのあたりがわかるものとして、韓国ドラマ『レディ・プレジデント』とか、ドキュメンタリー映画『選挙』(想田和弘監督)とか見てほしいと思います。政治、選挙って、なかなか現実はひどいものです(私はもちろん、素晴らしい政治家が一部いるとは思っていますが、それは少数派です)。

私は、社会構造全体を変えるべきという考えからアナーキスト的に、いまここから未来社会を生きることに重点を移したということです。


「あの人のための 自分などといわず あの人のために 去りゆくことだ/ 空を飛ぶことよりは 地をはうために 口を閉ざすんだ 臆病者として」(吉田拓郎『人生を語らず』1974年作品より)

 

●私の生き方の変化(主流秩序論へ至る過程)がわかるもの


『主流秩序社会の実態と対抗――閉塞社会の秘密2 電子版』第1章(2015年12月、電子書籍Kindle版、1章)
その他、アナーキスト的感覚で以下のようなことを書いています。テキスト『閉塞社会の秘密──主流秩序の囚われ』と合わせて読んでもらうといろいろわかると思います。
目次
はじめに           
1章 問題意識――見飽きた言説の次へ    
1-1 これまでの語り方でOKか?    1-2 自分の人生を振り返って   1-3 教員的・学者的なことへの疑問


2章 主流秩序社会の実態
2-1 主流秩序の基本的理解  2-2 知らぬ間に巻き込まれたり、寄り添うもの  2-3 日々、私たちを主流秩序にそって再染色するメディア   2-4 暴力という主流秩序  2-5 インテリ的な人の主流秩序への加担  

 
3章 主流秩社会を生き抜く方法――対抗の視点 100のポイント――
3-1 非暴力の感覚    3-2 アナーキズムの感覚    3-3 スローの感覚   
3-4 スピリチュアリティと〈スピ・シン主義〉がわかる方向に近づけるか  3-5 思想としての脱主流秩序  
3-6 反インテリ・反専門家の感覚   3-7 弱さ、つまづき、はみ出し、ポンコツ  3-8 生き方の分類図
3-9 実践、運動、アクティビティ   3-10 疑問や批判にたいして   3-11「欲望を違うレベルに拡張する」という幸福 
3-12 下位/周辺から見える風景    3-13 正体はその存在の仕方に現れる  3-14 ちゃんと生きるコツ
3-15 自分が主流秩序の加担者になっていないかを意識する       

 おわりに  

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その中の主張の一部
○活動家のジレンマ
「顔と名前が見える関係」が大事、支援者が支援する相手と、対等に出会い、IとYOUという個人と個人の間で具体的に関わることが大切だよねというのが、第一の重要な視点である。


しかし、そうした苦しみなどを減らすため(根本的な対処をするため)には、その問題の背景にある社会構造(制度、政策、法律、社会意識、政治の決定のしくみ、予算)を変えることが必要であり、そのためには、政策決定過程に参画すること、現実の政治の力関係をかえ、選挙での権力奪取が大事だということ。これが第二の重要な視点である。


 第二の点での変革のために、被害者(苦しんでいる人)を数字という量の多さで示し、「THEY」で捉え、こんなに多くの人が苦しんでいる、犠牲になったと政治家や官僚や世間に示すことが有効とされ、政治や学問ではその語り方が主流である。
 しかしそれは、被害者、人間一人ひとりを数字(量的発想)でとらえることであり、犠牲の利用であり、第一の点に抵触する。命の尊厳、命への感受性が大事にされない。関係性、援助の深さ、質が大事にされない。これを「活動家のジレンマ」という。


 数字ではなく質でものごとを見るという点からすると、私の主張は、「鳥ではなく虫の視点」つまり、上記の第一の点に重点を移す論を押し出す立場だ。
私の主張は、大事なのは第一の視点の方で、付け足しで、まあ第二の点も余力の範囲で一応追求するのがいいというバランス論である。


○一つを数えろ
これに関係する話をもう一つ紹介しておく。こんな時代に量で上から考えるのではなく、「一つを数えろ」と映画監督の園子(そのし)温(おん)さんが語っているという話だ。私はこの感覚に共感する。


園子温さんは、東北大震災・福島原発事故に直面し、映画『希望の国』(2012年公開)を作った。それを作るに際しての感覚を次のような詩で示している。
「膨大な数」という大雑把な死とか涙、苦しみを数値に表せないとしたら、何のための「文学」だろう。季節の中に埋もれてゆくものは数え上げることは出来ないと、政治が泣き言を言うのなら、芸術がやれ。一つでも正確な「一つ」を数えてみろ。

政治や学問に、その能力がないなら、芸術でも何でもいいが、だれかが「一つでも正確な一つを数える」ということをしなくてはならないと、私も思う。私が虫の視点というのは、これに通じる。これが私の選んだスタンスである。


広く社会全体に影響を与えること、制度も予算も現実には大事、選挙も大事とはもちろんいくらでもいえるが、制度というものが変わっても、人の心(一人一人の質、態度)が変わらなければ、隣の人に優しくできない。「隣の人へのかかわり方を変える」には、一人一人の主流秩序に対抗する思想の獲得という「深さ」が決定的に大事だと思う。


本書が強調したいのは、虫の視点からの現場での小さな個々人の動きの重要性だ。どんな社会でも必ず個々人のしんどい状況はある。何かの制度がいま変わったって、差別はなくならない。人権侵害、パワハラ、心無い冷たさはあり、相対的な弱者、適応がうまくないものが、排除されたり差別されることは残る。だからこそ、制度改革や政治だけをいつまでも語っているだけでは全く不十分だ。制度がどうあろうとも、政治状況が悪くても、個々人にできることはあるし、個人の支援はできる。気持ちを聞き、寄り添うことはできる。自分たちで問題に向かうとか、自分たちで交渉するということができる。嫌なことに対して嫌というのは難しいが、それが言えれば尊厳を守れる。それは、個々人の人生にとってはとても大事なことだ。個人の思考と抵抗がないところに希望はない。


ひとりの人と出会う。向き合う。聞く。そしてその人が傷つかないようになるためには何がいるのかを考える。元気になるには何が必要なのかを考える。社会(構造、全体)が変わるのはむずかしいが、社会の一部は変えられる。


目の前で困っている人に、あなたの問題は法律の問題だから「制度改革を求めるこの署名をしてください」「この政党に一票を入れてください」というのはまちがっている。悔しい思いを聞き、具体的一歩(小さな解決)を踏み出す策を共に考える方が重要なはずだ。


個々の苦しみを知らない人ほど、大きな話を得意げに語る。・・・ なぜなら、最初の目標に立ち戻って考えてみればわかるが、具体的なひとりを助けることが目標だったからである。制度変革も、実際に助けているならそれはいい。それがあるかどうかが大事である。
「小さいことに忠実な人は、大きいことにも忠実であり、小さいことに不忠実な人は、大きいことにも不忠実である。」(ルカの福音書16章10節)