ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

落合恵子さんの半生

 

朝日新聞で半生を語るインタビュー記事(全12回)。フェミ感覚が見えます。

 

 

(人生の贈りもの)わたしの半生 作家・落合恵子:7 71歳
2016年12月20日16時30分
日曜夜のラジオ番組「ちょっと待ってMONDAY」でパーソナリティーを務めた落合恵子さん。女性スタッフのみで制作する点に共感し、約10年ぶりでマイクに向かった=1987年8月、東京都新宿区の文化放送
 ■フェミニズムと出会い、やっと深呼吸
 ――フェミニストですね。
 海外の情報も含めてフェミニズムに触れたのは1970年代前半、「同じようなことを考える人がいるんだ」と。文化放送アナウンサーとして、企業で働く一社員として、女性であることで求められる役割がとても息苦しかった日々に出会ったんです。退 社し、クレヨンハウスを始め、フェミニズムに関する本を次々に読み、小説もシングルマザーや性暴力などをテーマとし、やっと少しだけ深呼吸できるようになりました。
 ――86年、再びラジオパーソナリティーとして10年近く離れていた古巣に復帰しました。
 「ちょっと待ってMONDAY」という日曜夜の2時間生放送です。元同僚から「女性スタッフだけで番組を作りたい」と相談され、企画制作にもかかわりました。MONDAYには「MAN DAY」つまり「男性優位の日々」を掛け、戦争やセクシュアルハラスメントなど、女性の視点で硬派な特集も組みました。ゲストの故野坂昭如さんに「まだそんなに前に出る必要はないよ。おじさんたちがまず先に闘うから」と言われたこともありました。
 ――88年度に日本婦人放送者懇談会賞を受賞。89年、女性の本の専門店を開きました。
 「ミズ・クレヨンハウス」は、フェミニズムに入門したい女性、さらに男性も学んでほしいと開かれた空間にしたんです。でも故ナンシー関さんに「どうしても引いてしまう」と書かれた(笑)。わかるなと思うのは、あらゆる運動体は共感する者同士で固まり、ニューカマーを一見歓迎するようで実ははじく面があるから。「女性の」と銘打たねばならないのは、いまだ差別が残っている証拠。本来「ミズ」などいらない社会でありたいんです。
 私は、「フェミニズムはアンチナショナリズム」と考えます。これは米国人作家で活動家のグロリア・スタイネムの言葉で、性別や職業、人種などで分断されない社会を作ることだと。私は集団の中で、より声の小さい人たちに目が行き、そうした人たちが放置されることに腹が立つんです。
 ――更年期を扱った「メノポーズ革命」出版が99年。
 それより前に海外のフェミニズム論で自分の更年期に触れたものを読み、いつか書いてみたかった。私たちは体の変化も含め、あらゆる「タブー」を破って表に出そうとした世代。言葉にすることで心配が減っていったんです。それでも私が何かの番組で「閉経したら、真っ白なソフトデニムが不安なくはけてうれしい!」と発言すれば、男性キャスターが驚く。災害支援で生理用品の提供を呼びかけても、メディアは女性に関しては押し入れの奥に入れがちです。
 苦い思い出もあります。母が健在だった頃、母親が子どもを遺棄した報道に「私は一度もそんなこと思わなかった」と彼女が言った。私は「遺棄は許せないが、どうしようもなくそうしてしまう女性もいる。なぜ父ではなく母ばかり責められるのか。追い詰められた母子の避難所をもっと作らねば」と理詰めで反論した。母は、私の「ありがとう」の一言を待っていただけなのかもしれないのに……。
 (聞き手・高橋美佐子)=全12回
人生の贈りもの)わたしの半生 作家・落合恵子:5 
2016年12月16日16時30分

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小説を書き始めたころの落合恵子さん。同じ女性たちが屈辱感を味わっている姿に黙っていられず、それが執筆のテーマになった=本人提供

 ■女性への差別、小説の形で「告発」
 ――文化放送退社後、1976年にクレヨンハウスを設立し、作家活動も本格化します。
 会社に勤めながらエッセー「スプーン一杯の幸せ」を書き、退社後はルポを月刊誌に載せたこともあったんですが、小説に切り替えました。悪意がなくても記事で特定の個人やグループを傷つけ…