ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

「美談批判ですむ」と思うのが嫌い

 

 

人権意識、連帯意識が低下している社会で、困っている人に手を差し出す人もいる。

その極端な形が危険な人を助けようとすることで、今回は踏切に居た老人を助けようとした男性がいた。そして残念なことに巻き添えを食って亡くなられた。

 

川崎市川崎区の京急八丁畷(はっちょうなわて)駅近くの踏切で4月15日朝、自殺しようとしたらしい70代男性が踏切内に居たので、その人を救い出そうとして横浜銀行勤務の児玉征史さん(52)がかけより引き戻そうとして巻き込まれて2人ともが亡くなった。

 

一般論として「危険な人がいてもそういう助け方はしないでください」「助けを呼び、救助の連絡をするのが正解」というのが今の公式見解である。

 

また少し美談として扱われることに対し、本音の意見がでることがある。

例えばテレビ(ひるおび)で女性コメンテーターが「きらわれてもいいからいいますけど、助けられないときには助けないという判断をすることも必要。学ぶべきは助けてはいけない場合もあるということ」といっていた。そこには、「日本人は人を助けるという教育を受けて美徳をもっているが、これからのいい日本人は変わるべき」という思いと見解がついていた。

 

そうだ、「死んでは何にもならない」という意見の人は多いと思う。家族なら「なんでそんなことしたんだ」と怒りの気持ちも出るかもしれない。

 

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だが僕は正直、少し違う意見だ。

そもそも、日本人の多くが危険を顧みず人を助けるとは思えない。

助けない人が99,9%になっていると思う。そういうなかで、自分の危険を顧みずに飛び込んで助けようとする人は素晴らしい人だと思う。

 

死んではだめだというのが絶対命題とは思えない。人は瞬間瞬間、自分の生き方をしている。積み重ねられた経験からできた自分の値観の体系(ライフスタイル、〈たましい〉)がある。その結果が、目の前で差別があるときにどういう態度をとるかという形で出てくる。

死ぬのがいいなどもちろん全くおもわないが、自分が不利益をこうむってでも眼の前の困っている人の味方になる、助ける、

排除されるかもしれないが大きな勢力の不正を見つけて内部告発をする、

多数派の皆から批判されても戦争に反対する

というようなことが大事と思う。

 

そこに態度価値が発生するのだ。

 

そこに鈍感な意見が多い。主流秩序への態度など考えていない意見ばかりだ。

人生から主流秩序への態度を毎日問われている、という感覚からは、「助けてはいけない場合がある」といって自分のエゴイズムな生き方を肯定するような隠れた意識を見直さない意見に違和感があるということだ。

人はだめな自分を肯定するために、直観的に「正論的なもの」をきれいごとだ、偽善だ、嘘だとよく批判する。上記のコメンテーターにもそれを感じた。人間のスピリチュアル度のレベルが透けて見えるのだ。

 

今回亡くなった児玉征史さんは素晴らしい人生を生きたといえる。ご冥福を心からお祈りしたい。

そして、そこから学ぶべきは「助けてはいけない場合がある」ということではなく、もっと小さなことでさえできていない自分を振り返り、少しでもましな選択を明日からしていこうということだ。

それが児玉さんの死を受け継ぐ私たちの使命であると思う。

 

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