『笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ』をみた。
ちゃんと生きている二人。
自由に生きるということを思った。
むのたけじのことは、学生のときに「たいまつ」とかを買って読んで以来時々フォローしてきた。
前から言っていたことだが、朝日新聞を戦後すぐにやめたことに対して、残って大本営発表したことの総括をする道もあったといってた。僕は、其れはそうだが、潔く離れるのも一つと思う。
笹本さんのことは知らなかった。彼女は三岸節子さんの影響を受けたという。
日本で最初の女性報道写真家。
彼女が見つけた素敵な女性たちの生き方が面白かった。
北原 怜子(きたはら さとこ)さんのことを知った。そういう人もいたんだ。28歳で亡くなった。僕はまだ時間がある。
以下、ウィキからの情報。
1929年8月22日 - 1958年1月23日。は、キリスト教の教義に基づき献身的な活動を展開した社会奉仕家である。「蟻の町のマリア(ありのまちのマリア)」とよばれたという。彼女を紹介した本もある。
1950年に浅草にある姉の家に転居した際に、“ゼノ神父”ことゼノ・ゼブロフスキー修道士(コンベンツァル聖フランシスコ修道会)と知り合う。ゼノ修道士を介して隅田川の言問橋周辺、現在の隅田公園の界隈(台東区側)にあった通称「蟻の町」の事を知る。「蟻の町」とは小沢求、松居桃楼たちがまとめ役となって結成された廃品回収業者の居住地である[2]。
当初は、通いながら奉仕活動をするものであったが、やがて彼女は貧者を慰問することは偽善者のごとき大きな罪であると悟り、自らが汗を流して貧者と共に労働をし生活し助け合うことが重要であると考えるようになった[3]。
彼女の行動によって「蟻の町」、特に子どもたちの教育環境は段々と整えられていく。
彼女の行動は世界に発信され賞賛の声が多く届くが「財宝ばかりでなく、名誉や地位もまた悪魔的な誘惑だ」として、その名声に甘んじることはなかった。
諸々の奉仕活動での体力的無理が祟り著しく健康を害し、療養のため「蟻の町」を離れるが、やがて死期を悟ると「蟻の町」に再び移住。1958年腎臓病で夭折した。28歳没。墓所は多磨霊園にある。
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