ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

韓国映画『弁護人』—-—-主流秩序での生き方を問う映画

 

 

韓国映画『弁護人』(2013年/韓国、日本公開は2016年)をみた。

主流秩序での生き方を問う映画だった。これもまた素晴らしいもので、今年に入ってA+がつけられる、3本目の最高傑作だった。超おすすめ。

(残り二本は『すべての政府は嘘をつく』と『わたしは、ダニエル・ブレイク』)

 

権力、メディア、法曹界がこぞって主流秩序に従属している中で、

社会意識もない、俗物の二流弁護士が、身近な人との関係の中で真実に向かい始める話だ。

其れは普遍的に、主流秩序に一人一人がどう向かうかを問いかけるものでもある。

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ビデオレンタルが開始されている。ぜひ見られることをお勧めする。人生で無駄ではない、珠玉の2時間になるだろう。

 

この映画の話は、軍事政権下の1980年代、実際に起きた冤罪事件「釜林(プリム)事件」をベースにした実話に基づくもので、故盧武鉉ノムヒョン)元大統領の弁護士時代を描いている。

国家保安法違反などの疑いで多くの学生が不当に逮捕され、拷問を受けた事件で、盧武鉉大統領が人権派弁護士として転身するきっかけとなった。

 

なお、映画や宣伝では「冤罪」というが、本質的には「思想的弾圧事件」というべきであろう。社会主義だったら悪い、でも社会主義支持者ではないという話ではない。軍事政権に少しでも異論を持ちうる民主主義的な思想の持ち主や社会運動を予防的見せしめ的に弾圧するという事件に対する闘いの映画であり、事実をベースにしているという。

釜山の弁護士の142人のうち、99人が参加したというところに、当時の心意気がある。どんな暗黒社会でも、そこ(=底)でどう生きるかの態度価値創出の余地はある。

 

軍事政権の韓国でそうであったように(光州事件、そしてこの映画のもとになった事件)、共謀罪を強行成立させるこんな日本社会にあって、共謀罪に反対する人がいて、この映画を日本の問題として受け止める人が一定数いることに希望がある。

 

韓国で1100万人が見て大ヒットとなったというのがいい。日本ではそうはならない。その差が安倍首相とムンジェイン大統領という、日本と韓国の差だ。

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この映画のお母さん役の方が亡くなったそうだ。いい仕事をしてこの世を去った。

 

 

HP情報

1980年代初めの釜山。学歴はないが税務弁護士として活躍するソン・ウソクは、世話になったクッパ店の息子が事件に巻き込まれたと耳にする。店主に懇願され拘置所に面会に行ったウソクは、信じがたい理不尽な扱いを受けていると知り弁護を引き受けるが……

 

予告編

http://eiga.com/movie/84865/video/

 

  • ウィキ情報

盧 武鉉ノ・ムヒョン朝鮮語: 노무현、1946年9月1日〈旧暦8月6日〉- 2009年5月23日

テチャン小学校の学籍簿には『小農で生活は下流』と記されたが、小学校では生徒会長を務め、中学校では成績トップを争うほどだったが、貧困により1年の休学を余儀なくされている。苦しい家計を思い、一度は高校進学を諦めるが、兄の強い説得と助力で名門の釜山商高に進学して警備員のバイトをして日銭を稼いだ[1]

 

当時商業学校からの花形コースであった銀行マンを志し、農協の就職試験を受けるも叶わず[15]、卒業後に「三海工業」という小さな魚網会社に就職するが、その待遇に失望して一カ月半で退職。司法試験への挑戦を決意する[16]

 

盧武鉉は自著に貧しさ故に高卒で社会に出たこと、就職に失敗して独学で弁護士の道を志すようになったことは、盧武鉉の政治家人生における一種の稀少価値となったと記している[17]。当時、高卒では司法試験を受ける資格が与えられなかったが、故郷に帰って村外れのぼろ家に手を加えて「磨玉堂」と名づけて勉強の場とし[1]、日雇い労働をしながら1966年11月に資格試験(司法及び行政要員予備試験)に、1971年に三級公務員の一次試験に合格。兵役をはさんで勉強を続け、1975年に29歳で第17回司法試験に合格した後、盧に他の道が開けた[1]

 

司法研修院で研修を終えた後、1977年大田地方法院(裁判所)判事に就任。1978年判事を辞めて弁護士事務所を開業。当初は登記業務・不動産・租税関連の訴訟を専門とし、ヨットが趣味で琵琶湖でのイベントに参加するなど、釜山でも稼ぎのいいブルジョア弁護士の盧弁(ノビョン、盧弁護士)として知られていた[18][1]

 

しかし1981年に別の弁護士の代理として釜林事件の弁護を引き受けて学生運動に関わった事が転機となり、徐々に政治・社会問題への関わりを深めて路弁(アスファルト弁護士)に変貌した[1]

 

1982年にはこの年に弁護士になった文在寅盧武鉉の法律事務所に入所し、「弁護士盧武鉉・文在寅合同法律事務所」を開設(後に文在寅は盧武鉉大統領の下で大統領府民情主席、大統領秘書室長などを務める)。

1982年の釜山アメリカ文化院放火事件では被告側弁護人を担当。1985年には釜山民主市民協議会の常任委員長となり、本格的に韓国の民主化運動に足を踏み入れた。

 

1987年には大統領直接選挙制を求める6月抗争を主導し、大宇造船事件では逮捕と拘留も経験している。盧武鉉は後年、人権派弁護士への変身は覚悟や決意を要求されたものではないと語った。平凡な常識と良心、そして「拷問されて真っ黒になった学生の足の爪」を見ての憤りと怒りであったと自著に記している

 

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