ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

暗い現実を示す『六龍が飛ぶ』

 

 

韓国ドラマ界には才能ある人が参加していると思う。その一例が『六龍が飛ぶ』だ。

『根の深い木』のスタッフが作った作品だが、通常の時代劇的な善悪がわかりやすかったり、武将の勝利物語、国盗り物語、ではない。

 

「根の深い木」でも政治路線の二つの対立があったが、

「六龍・・」ではもっとリアルに根深いニヒリズムとリアリズムが題材になっている。

 

庶民(民 たみ)のことを考えて善政をしようと王政自体,土地の私有制自体にまで目を向けて理想に燃える計画で社会改革を進めるものたち。その思想は社会主義的だ。

だが、いっぽう「ムミョン」派は、人々は私有財産を増やすという目的があってこそ働くし、其れで社会全体はうまくいくという資本主義擁護派だ。

そこに儒学という壮大な観念的理想主義と前衛主義のインテリがいて、王政の中で生きようとする。その純粋者たちは当時にはそれなりに大きな影響力があった。

そして武力がもちろん大事な武器でもあった。王族の子どもの跡目争いも絡む。

 

若いころに理想主義に感化されたが経験を積む中で、実力行使を伴うリアリズムの道をいく5男・イ・ヴァンウォン の姿が痛々しい。

 

そこには自分が活躍したいという欲望があり、説得などという空論で決断ができない師匠や民の人気を気にしたり自分の正義に拘って行動が遅い父を乗り越えて、リアルに実力主義で権力闘争を進めるリアルな覇道がある。

 

そして仲間が分裂していく。路線闘争。

 

理想を語りそれを追いかけていたこわろは幸せだったという物語。

だから死ぬまで夢を追いかけられた幸せ。

だが現実は、権力に近づくほど、リアルな「汚い道」「暴力」「敵の抹殺」「妥協」をしないといけない。

誰につくか、選ばないといけない

どつちにつくか。仲間割れ。

 

それはしかたないという。情では政治はうごかないという。大人になれという。多少の犠牲はつきものだ、鬼にならねばならないという。

 

 

だが、プニはいったんは踏ん張る。Aでも、Bでもなく、ひっそりと平和に政治から離れて暮らす道を行くと。

この「離れるというみち」を皆が行ければいいのだが、物語は、そうはさせない。

 

なかまとともに政(まつりごと)闘争から離れると決断したのが正しい。

私は主流秩序から離れるという路線なので、そうおもう。

 

***

イ・ヴァンウォンの路線は、多くの人は最初引いてしまうが、現実的として結果称賛される。

人を誠意をもって説得するというようなことが現実的でないなかで、理想主義者も変わっていく。社会主義が権力闘争、権力集中、独裁、になったように、「国家の安定までは・・・」という名目で理想とかい離していく。

 

反対派の粛清も進む。

反体制のなかで、「確信を持っている13人」は理念に生きて死んでいった。イ・ヴァンウォンは、反対派を懐柔し問題解決するために、芯のある頑固な人とそうでない人を火をつけてわける。

頑固な人は説得してもかわらないと見て、粛正する。

 

それに対して逃げて生き延びる、原則よりも現実というような人が多数とみて、彼らを取り込む。彼らならその反体制の意思を変えられるとみる。

3日、飢えさせ、そのあと解放すれば、復讐を誓いつつそれを名目にして生き延びる道を選ぶと見た。主流秩序に従属する道を、当面しかたないと思って受け入れると見たのだ。そして実際、追い込み、おどせばそうなった。

多くの人は「生きる」道として主流秩序を選ぶ。

 

イ・ヴァンウォンはなぜそうしたか。それは自分がそうされて屈服した経験があるからだ。

イ・ヴァンウォンは知っている。ほとんどの人は弱い。飢えにも、拷問にも耐えられない。金に弱い。理想など捨てると。

 

イ・ヴァンウォンは、敵にまわれば容赦なく殺すと愛するプニにまで言う。

そういいながら、迷うプニに怒って「おれはおまえにいてほしいといっているのだ、わからないのか!」と怒る。

これはDV加害者とおなじ発想だ。

愛情という名で自分の思い通りになるべきだ、と思い込み、「分かってくれ」と支配する。

相手の気持ちや相手の幸せを考えられない。

 

「六龍・・」はイ・ヴァンウォンの成長と主流秩序の物語だ。悪役が悪役でなくなり、善人が善人でなくなる物語だ。

ドラマの最後がどうなるかではない。物語のプロセスにその暗い現実があるのだ。

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