ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

非暴力主義の理解

 

巷では、中国や韓国や北朝鮮が無茶をするから、もう話にならない。いつまでも甘い顔をしてらだめで、軍事力を持って物理的軍事的力で抑えつけないといけない。アメとムチ、対話と圧力なら、圧力を強めないとだめだ。教育勅語はいいものだ、野党はダメだ。

テレビでタレント「ホンコン」が言っているような、こんな単純な意見がまかり通る場面が増えてきました。知性と想像力と優しい感情が欠如している状況です。

 

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この世に、大阪や神戸の街に、暴力団(やくざ)は存在する。だからと言って市民は、武装しかないか。ナイフや拳銃を持って武装すればいいのか。そんなことないでしょう。

普通の人にとって非暴力の対応しかないでしょう。 それは弱腰で現実に役立だたない空論だ、理想論だという意見がありますが、そうではないっと言うことを確認しておきましょう。

 

非暴力と言うのも「闘争」です。それは物理的力で相手に勝つということ以外の多くを含みます。

通常は、無抵抗、不服従とか、合法的な戦い、暴力を使わずに言論や沈黙で戦うと言うことですが、現実的歴史的な非暴力闘争には、非合法的な戦いもありました。本当に服従しないとなれば法律を犯す(法律違反として逮捕される)とか、逮捕されるとかはありうるわけです。

抗議の意志を込めて道路などに座り込むとか、卵を投げると言ったことも、税を納めないとかも、世界ではたくさんなされている非暴力闘争ですが、かなり過激になることもあり、逮捕されることもあります。

 

ガンジーらが行ったデモでは多くの人が警官等に殴られ、たたかれ瀕死の重傷を負うようなことも死ぬこともありました。其れに参加するのは命がけであり怖いことでした。

つまり非暴力といっても、その運動は、積極的・非暴力的抵抗という過激で勇気が必要な、危険性のある闘いでした。

 

そして実は、そうした被害を受けることを含んで、そのひどい被害実態を世界に見せて、暴力側の非道さを訴える、改心を求めるというような面が、時には非暴力主義の運動にはありました。

 

自己犠牲によって、多くの人(世間/敵/相手を含む)の良心に訴え、相手の弾圧の鉾先を鈍らせる方法でした。そしてそれは簡単に成果が出るものではなく、多くの場合、弾圧されたり負けたりするものでした。

 

非暴力と言っても実際にはとても暴力をこうむることはあるのです。

非暴力主義を言っている側はいつも安全かというと全くそうではなく、非暴力を貫いたらしばしば暴力的弾圧をされ、怪我したり命の危険にさらされてきました。

 

それを「そんな戦いは良くない」とか「嫌がる」人もいますが、厳しい現実に向き合う時に、そうした勇気を持って法律に反して逮捕されてでも戦うという人がいてこそ、意義がある(効果がある/社会が少しでもよくなる)という場合があり、それは「良くないこと」だとは言えないと私は思います。

私はそういう闘争を勇気ある戦いだと評価しています。

 

労働運動におけるストライキ、ピケ闘争なども非暴力主義のひとつです。其れに対して弾圧、解雇、やくざや第二組合によるスト破り、それに伴う暴力的攻撃など厳しいことが投げつけられることもあります。

 

 「逃げる」というのも、非暴力の戦いの一つの手段です。そして逃げた後、 裁判する、行政に言う、警察にいって対応する、メディアに訴えて報道してもらうなど、武力とは別の方法/領域で戦うということです。生き残って別のところで幸せに生きるのも、広い意味の戦いです。

 

逃げるという場合、その場から離れるとか少し離れる(引越し、転職、転校する)というものもあるし、DVから逃げる、離れるというのも大事な選択肢です。ときには日本という領域から出るのも一つの選択。しかし日本社会はまだ完全には「物言えない国」になっていないので、 まだ「海外に逃げるしかない」「海外に逃げるのが一番いい」という判断を下すその時期ではない。

 

ナチスなど全体主義国家・政権と戦うときに、非暴力闘争と言ってもかなり危険性を顧みずに戦わざるを得ないものになります。

ヘイト勢力と戦うことも必要であり、その中に「「しばき隊」のような人もいるのが現実で、それを完全に否定はできないと思います。世界史的には民族解放運動、独立運動なのでゲリラ闘争、武装闘争もありました。ほとんどの政治は武力による戦いでした。ある条件下では暴力的な戦い方も反対運動の多様性の一つとしてむしろ許容したいというのが私の立場です。

 

でも「しばき隊」以外のやり方を取る人もいることが大事です。暴力的な風土を変えようといって非暴力を広めることは大事と思います。

爆弾闘争はだめと思いますが、 そうした武力的闘い以外に「闘いの方法」を広げることが大事と思います。私の言い方でいえば、主流秩序に抵抗する多様なあり方になることです。

 

武力を使って勝つというのは、「広い対応/戦い方のひとつ」に過ぎないということを理解することです。それが非暴力の理解には重要です。私の言葉でいえば、主流秩序に対して、直接介入以外にも間接介入的なものがあります。直接介入も多様です。暴力・武力はその一部に過ぎません。

そして現代の日本では、もう暴力的な戦いには基本的に展望はないと思います。

 

もちろん、正当防衛と言うものも時にはあります。攻撃に対して反撃や防衛はあります。

しかし体力的に弱い人、喧嘩に弱い人、暴力的対応が苦手な人もいます。

そういう人に「棒などの武器」をもちなさいと言ってもできないし、負けます。かえって危険になり得ます。だから米国社会のように、誰もがけん銃やスタンガンを持ち自己防衛しましょうと言うのは、現実的ないい対応ではありません。

 

またそれで勝てばいいのかという問題もあります。銃を撃つ練習をしてうまく撃てればいいでしょうか。人を殺してしまったという体験はトラウマとなりえます。人を傷つけるという経験をしてしまったということも被害体験であり、その人を傷つけます。

 

だから、実は「逃げる」「離れる」と言うのはかなり融通のきく広い概念でいい概念だと思います。逃げるのが悪いこと、勇気がないことと思っている人がいるので、そうではない、ということを伝えていく必要があります。DVからは逃げるのがいいです。

 

差別されるとかいじめられる、傷つけられる、殴られるということがあっても、まずは離れて、証拠を集めて、その後の裁判所・警察・行政などを使った戦いがあるのです。

相談先、非暴力の戦い方、身の守り方、一緒に戦ってくれる人(同伴者)を教えられていない人、知らない人が多くいます。一人で我慢し、間違った選択をしてドツボにはまっていく被害者がいます。

 

だからこそ、いじめ、差別、DV・ストーカー、パワハラ、セクハラ、解雇など労働における不利益への闘い方(対処の仕方)の教育がいります。これが特に日本では決定的に欠けています。

 

非暴力主義は空論でも理想論でも逃げでも消極的対応でもありません。主流秩序の下位の人、負け組、 攻撃力のない人にとってはリアルな戦い方なのです。やろうと思えば攻撃力ある人も、しない方が平和に暮らせます。

 

 だから「相手が暴力的ならこっちも力を見せないとだめ」という単純な「力には力」、「現実的には力がいる」「やられる前にやっつけろ」というのは古い時代の政治観であり、無知ゆえの古い発想です。

(歴史を見ればほとんど武力闘争で政治は進んできたので、その意味で『古い』といっています)

 

いま、人類は変われるのでしょうか。

日本にとって武力をもつこと(軍事力攻撃力を高めること、憲法9条を変え、安保法などで戦争できるようにすること)が本当に平和になるのでしょうか。 圧力と対話とよくいっていますが、挑発して対話を遠のかせて、武力衝突を誘発しているだけではないでしょうか?危険性を高めているだけではないでしょうか?安倍政権に対話の姿勢はありません。国内外で敵をたたけばいいというだけの単純な対応です。

 

この30年、日本はどんどん悪くなってきており、その結果「反日」などとと言う言葉がテレビでさえ飛び交うようになりました。 これは「反俺様」の発想で、「俺の言うことが聞けないなら俺の前から消え失せろ!」と言うことにすぐになっていきます。

実際、「俺の言うことが聞けないなら、文句あるなら公務員辞めろ」と「君が代を歌えないならら公立学校の教員辞めろ」と橋下・元維新代表はいい、自分に従わないものを処分しました。今、

ネトウヨ的なものいいが拡張して、かなりの人が「文句あるなら日本から出て行けばいい」と言うようなことを言い始めています。

 

俺と違うものとの共存はないと言う発想です。安倍首相も、どうせ議論しても変わらないから、多数決で決める、決められない政治は無責任だと言って強行採決でどんどん決めて行きます。反対派を説得するのではなく、味方を増やして見方だけに通じることを言えば、いい、そのためには、敵をいけにえにして皆でたたこうということです。だから安倍首相は、いつも相手を攻撃します。浅はかな反論をし、印象操作だとか言いまくります。民主党政権のことを持ちだして揶揄します。日教組だとか、バカなヤジを飛ばします。

 

自分=日本と違うものとの共存はない。慰安婦問題では日本が正しくて韓国が間違っているという。領土問題でも日本が正しくて、韓国や中国が間違っているという。共謀罪法案の危険性を指摘した国連の特別報告者・ジョセフ・ケナタッチ氏が間違っているという。そのうち、日本が責められるなら「国連への拠出金をやめよう」「国連脱退しよう」となる発想です。文書はないのでわからない、不正はない、悪いのは籠池であり前川だという。外国が間違っている、反対勢力が間違っている。森友でも加計学園でも、レイプ事件不起訴問題でも、不正はなかったという。などなど。

 

悪いのは向こうで、自分はまちがっていない。

国際連合を脱退して戦争に進んで行ったのと同じ道を歩んでいます。

根拠を示さずにその結論だけしか言えないのは馬鹿ですが、いまその状態です。

 

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なお、非暴力の闘いの力は、スピリチュアリティあるものといえます。

ガンディーは、あることが気に入らないとき、自分の権利を守るための、苦痛に耐える方法、つまりサティヤーグラハ(「魂の力」、「受動的抵抗(パッシヴ・レジスタンス)」の力)を使うといっています。ある法律がよくないとき、法律を受け入れず、そのために下される罰を受け入れるという抵抗をするというのです。

 

 

 

そういう自己犠牲を含む崇高な精神のことがわからない人には、非暴力主義はわからないと思います。「そんなのは非現実的だ、武力を持たねばならない」といってのけられるのです。

 

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