ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

セクハラ告発者への攻撃

首相とご飯を食べるということを武田鉄矢がいいといって、それをネトウヨが賛成するような時代。だからフェミ的なものはネット右翼はとにかくたたきたい。慰安婦問題もセクハラ問題もDV問題も。

それをあつかったリテラの記事。

「20年経ってもこの国は、このように加害者ではなく被害者を叩きのめそうとするのである。」 「性暴力の被害者をバッシングする人たちは、いま一度、「被害女性の落ち度がことさら気になるのはなぜなのか」について、男女問わず考えてみてほしい。」

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以下記事紹介

はあちゅう、詩織さん…セクハラ告発者バッシングがあまりに卑劣! 加害男性でなく「女性の落ち度」が非難される理不尽 2017.12.24

 ハリウッドの大物プロデューサーであるハーヴェイ・ワインスタインによる性暴力告発に端を発した「MeToo(私も)」の動きが、ようやく日本でも活発化してきた。

 ワインスタイン問題以前に日本では、伊藤詩織さんによる元TBS記者・山口敬之氏からのレイプ被害告発が起こっていたが、最近では人気ブロガーの「はあちゅう」こと伊藤春香氏の電通在籍時の先輩で有名クリエイター・岸勇希氏に対するセクハラ・パワハラや、演出家・市原幹也氏による立場を利用した性的関係の強要の事実があきらかになり、SNS上では自分が受けた性被害の実態を告白する女性の投稿が相次いでいる。

 しかし、その一方で目立つのは、告発する女性たちに対する誹謗中傷や、セクハラを矮小化しようとする卑劣なバッシングの数々だ。

 伊藤詩織さんに向けられた「そもそも一緒に酒を飲んだのが悪い」という信じがたい暴言に、はあちゅうへの「売名行為だ」という糾弾に、「お前も童貞差別をしていたくせに」という“どっちもどっち”を振りかざした攻撃。

性的関係の強要を強いられた女性の告白に「ただの枕営業」「自分が得をしたかっただけなのにいまさらすぎる」という非難……。

 一体、この国はいつまでこんなことをつづけるのだろう。いまから約20年前の1999年、大阪府知事選において横山ノック氏がはたらいた強制わいせつとセクハラ行為に対して女子大生が民事訴訟を起こした際、ノック氏ではなく女子大生への攻撃と誹謗中傷が溢れかえった。

女子大生は自殺を考え、入院しなければならないほどに追い込まれたことを自著で明らかにしているが、20年経ってもこの国は、このように加害者ではなく被害者を叩きのめそうとするのである。

 性暴力やセクハラ事件の発覚で繰り返される、「派手な服を着ていたのではないか」「女の言動が誤解を招くものだったのでは」「隙を与えた女が悪い」「夜にひとりで歩いていたのが悪い」「車に同乗したのが悪い」という被害者に対する批判。なぜ、被害者にばかり非難の声があがり、加害者の非道は指摘されないのか──。  そうした問題について、「これは男性の問題だ」という声が上がっている。女性たちからだけではない、当の男性たちからも、だ。

 そう指摘したのは、2006年に出版された『壊れる男たち─セクハラはなぜ繰り返されるのか─』(岩波新書)。著者は、東京都の労働相談に携わり、その過程でセクハラ被害者の相談を受け、加害者とも面談を重ねてきた金子雅臣氏だ。

 同書のなかで金子氏は、「加害者であるのに自覚がない男たち」に何人も出会ってきた、という。たとえば、氏が携わったセクハラ事件のひとつは、こんなものだった。  広告会社に勤める女性が、上司の男性から「社員のことで相談がある」と言われて社外の店に行くと、リストラ候補の女性がいること、その女性はそのリストから外していることを告げられる。その後、「恋人はいないのか」などのプライベートの話におよぶが、女性が「遅いので帰ります」と言うと、帰りの車はなぜか山の中に向かった。そこで上司は脇道に車を止めると「いい年をしてわからないことはないだろう」と言い関係を迫ってきた。彼女は必死で拒否をして、上司もしぶしぶ車を発進させた──。

   そして、「セクハラじゃないですよ。絶対にそんなことはありえませんよ」と胸を張り、その理由として、部下の女性が「終始明るかった」こと、さらには「あそこまでいったのに、何もしなかったんですよ」という自分の“誠実さ”をアピールしたのだ。

「明るかった」というのは加害者からよく聞かれる声だ。しかしそれは今後も上司と部下という関係をつづけていかなければならないことが念頭にあってのことだ。あるいは、激昂させて行為をエスカレートさせたくないという防衛反応もある。しかし、そうしたことを、加害者男性はまったく想像できない/しようとしないのだ。金子氏はこう指摘する。

 さらに金子氏は、このような加害者男性が異口同音に口にする言葉がある、という。「オンナとは気まぐれで、嘘つきで、男によって変わる」「彼女だって、そうなることを望んでいた」といった類いのレッテル貼りだ。だが、金子氏はあることに気づく。

 同じように、性犯罪の加害者に対して再犯防止プログラムを実践してきた精神保健福祉士社会福祉士の斉藤章佳氏も、『男が痴漢になる理由』(イースト・プレス)のなかで、男性の身勝手な女性に対する認識について指摘をおこなっている。

 斎藤氏によれば、〈常習化した痴漢のあいだではある程度の普遍性があると思われるもの〉に、「多くの女性は痴漢されているうちに気持ちよくなる」「女性は無意識のうちに痴漢されたいという願望を持っている」「肌の露出が多い女性は、性欲が強い」「ちょっとぐらい触られたからといって、女性も何かが減るわけじゃない」といった捉え方があるという。

   実際、痴漢冤罪の問題ばかりを強調する男性たちが糾弾しているのは、現に冤罪を生み出している警察や検察の問題でなく、なぜか被害を訴えた女性だ。   いま、声をあげる女性たちは、いままで語ることができなかった性暴力を公にし、その暴力に反対している。そしてこれは、金子氏や斎藤氏といった男性たちが指摘するように、「女性の問題」ではなく「男性の問題」なのである。性暴力の被害者をバッシングする人たちは、いま一度、「被害女性の落ち度がことさら気になるのはなぜなのか」について、男女問わず考えてみてほしい。

 これは、他の問題にも通底する。LGBT障がい者、貧困者といった人びとが差別の実態を訴えたり政策の不備を指摘するとき、やはり同じように弱者バッシングが繰り広げられるからだ。だが、バッシングをする前に、「非難したい自分」について考える必要がある。社会的優位の立場から強者の物言いになっていないか。社会の構造を無視したり一方的な価値観に基づいてはいないか──。  想像力が、みんなにとって生きやすい社会をつくり出す。「MeToo」という運動の根本には、そうした問いかけが含まれているのではないだろうか。 (田岡 尼)