共依存との関係で、この映画を見た。この映画を評価する立場で、共依存関係でもいいものもあるという意見があるので、そうは思えないという立場で、この映画の感想を書いたので載せておきます。
映画『リービング・ラスベガス』批判
弱きもの似た者同士が寄り添うという話はよくある。小西はこの映画のことを本書の各所で取り上げ、共依存関係の肯定性の一例としている。
この映画を見て、中島みゆきの歌「ふたりは」 を思い出した。私はこの歌が好きだが、共依存の美化としてこの歌や「リービング・ラスベガス」を見ることには反対。
「ふたりは」は、街のはみ出し者2人、ごろつきと遊び女のよりそいあいの歌
二人は凍えきって巡り会った/誰からも聞こえない胸の奥のため息が 互いには聞こえた
与えあう何物も二人には残ってないけれど/もう二度と傷つかないで
二人が出会ったこと他人は喜んでいた/「まとめて片付く 早く旅立つがいい」
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共依存と、映画「リービング・ラスベガス」について
ニコラス・ケイジの演技はうまいし、人生の悲哀、哀愁とか、吹き溜まり愛情を描くから映画としては成り立っている。サラは優しい人と思うし嫌いではない。
だが、映画として、大した内容はないと思う。恋愛とか関係性の在り方としてなんら評価できなかった。だましの構造があるから。
●もし余命1ヶ月のひとなら→何でもきいてあげたらいい。共依存ではない。
●もしとても孤独なひとがいたら→友人や恋人としてそばにいるのは悪くない
●もし目の前に病気で治療が必要な人がいれば→治療に持っていくべき。病気の悪化を促進しない
●出会う彼氏がもし健康で性格のいいひとなら→つきあったらいい。でも彼女はしばらくおちつかなかったり不安、過剰な気遣い、過剰な感謝、で、対等になりにくい。好きになってもらいにくい。自尊感情低いのでなんで私?と思いがち。だがいい人に出会うこともある。あんな男である必然はない。「弱いものどおし」が近づきやすいというのはあるが、そのほうがいい関係ということはない。
●もしDV男で元気なら→離れるべき。加害者プログラムにいかせる、いかないなら離れるべき。離れないという選択も本人の自由だが、それを美化する必要はない。必要なのは共依存の工程ではなく、相談体制の充実、加害者プログラムや実際的な被害者の居場所つくりなどだろう。
つまりこの映画では、ベンが彼女を傷つける問題やまわりに迷惑をかける犯罪性、加害者性DV性があるのに、また治療を要する病気であるのに、死ぬ間近で孤独という要素で問題を隠蔽。
彼女が幸せになるには、この道しかないのではなく、別の道もあるのに、ほかの要素があって仕方ないように思わせる構造。傷つけられる環境から離れて、支援してくれる人、適切に愛してくれる人、エンパワーメントしてくれるひととかかわるべき。それが現実的には難しいということと、ベンのような人でしか幸せになれない、ということは別。
真の対等性、非暴力(安全、自由、自信、成長)が無理という前提(条件設定)がおかしい。偶然性や不幸性、同情を入れ込ませてごまかし。むつかしいことと方向性として正しいことを区別すべき。
目の前にすこしの安心、必要とされること、求められる感覚があってそこに行く話。
総合プラスマイナスでは、大きくマイナス。それを美化する意義はない。
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だめな男 それに付き合う女の良くある話。傷ついている人だから、ダメなところがある人だから、気を許せた 正直になれたというよくある構図
よく似たもの通しというパターン
こういう天使が表れて、ベンにとっては都合がいい。理想を描いた勝手な男の物語
一人ぼっちの彼女。そりゃそばに誰かがいたらいいとおもうだろう。だが、このダメ男である必要はない。
最初に約束させる「酒はよせというな」の問題
彼女の家に来た時から酔払い。無責任。これも愛だが、そんなのはごろごろあって、美化できない。悲しい物語とはいえる。しかし称賛するな、共依存もいいというなと思う
金を預けられて喜ぶ彼女。今まで搾取されてきたから。信頼されてなかったから。でもそれも普通のこと。これまでのひどさとのギャップ。彼女は客観的には そういう普通の人ならだれでもよかった。共依存になる必要はない。
死ぬということを背景にしての特別な時間。普通の恋愛でも1,2か月など楽しくいられる安易な時期。だれでも盛り上がる。
最初の楽しいカジノでのデートで、また酒を飲んであばれてしまう。彼女を大切にできてない。これで離れないのは弱い愛。離れないことを美化しても何ら積極的なものは出てこないのになぜ擁護するか。最初にカジノで暴れたときに、ここで離れるべきなのだ。どちらからも。
その後、つらい状況が続く。ひどいアルコール依存の状況のそばにいるしんどさ。
こういうのは施設に行くしかない。なのにそばにいる彼女は不安不幸になるだけ。彼が彼女を大切にと思うなら離れるべき。愛に飢えた彼女を利用し迷惑をかけている暴力
その暴力に耐えて「愛にしがみついてしまう優しい彼女」
映画だからアルコール依存の苦しみの状況描写を30秒ほどにまとめるが現実は長く厳しい 何時間も異常な緊張にさらされる 離れるしかない。
カジノで暴れたことを覚えていない彼 彼女は、ここへは二度とこない、私が連れて帰るということでその場をしのぐ。
感謝する彼、彼を支える彼女 間違った道に入っていき始める
「貴方が必要であなたを利用している」という彼女 こういう人を世話するという道にはまっていく
その心理はわかるが、それは美化できない
彼は、こんな彼女をやさしいと思う 天使という 手放さない、愛してるという、感謝する でも酒をやめない
客観的には都合よく甘えている
サラの傷つけられた体を見て、いとおしくなるベン。この不幸な彼女を幸せにしたい よくある感情
売春という仕事に行く彼女を認める彼 切なさの利用
ベンは、酒を全く辞めず、バーに寄り道してそこの客とケンカ。彼女を心配させるが反省なし
ピアスのプレゼント 嫉妬の気持ちを伝える それで内心感動する彼女
せっかくの旅行でも酒浸りでセックスしかけてもガラスをわってそのうえに倒れこんで怪我して台無し。ホテルからみじめに追い出される。傷つき続ける彼女。
だめな奴のそばにいる彼女 まともな男なら彼女を手放す。 だが彼は手放さない。それは暴力。
食欲もなくなって病人になっていくベン。びくびくして世話するサラ。
ついにサラは「医者に行って」という。 最初に結ばされた「酒はやめろを言わない約束」がある中でびくびくして。
でも彼は「医者は嫌だ、ホテルに帰る」という。
ここでも離れればいいのに、彼が離れるのが嫌なサラは彼をそのまま認める。脱出できない袋小路。
「たったひとつぐらい私の望みを聞いて、ここにいて 一人で死なないで」
彼をかわいそうと思って離れられなくなっている。彼を愛している優しいサラ。
その後も破綻へ向けてまっしぐらの生活。酒を飲んでその時だけは生き生きとしてギャンブルをしてキスをして生きているベン。 それに同行する彼女。
ある時、酒に酔ってほかの女性と部屋で寝ているところにサラが帰ってそれを目撃する。傷つくサラ。
そのあとサラは仕事中に3人組にレイプされる。住んでいた家からも追い出される。 ボロボロになるサラ。自暴自棄になり、もうろうとして ベンを探すサラ。
ついにベンから電話がかかってきて、飛んでいくサラ。
優しい音楽が流れている。 美化される再会。 カーテンを閉めた暗い部屋、そこには死ぬ直前のやつれた男。もう起き上がる力もない。終末の症状。
そんな彼に「愛している」というサラ
このシーン、人が孤独に死にそうな最期の時、誰かがそばにいて安心させるという普遍性はあるが、それはまた別の話。
最期、エレクとした彼の上にまたがって最初で最後のセックス 男の幸せな最期の願望のシーン。
いい感じの音楽でごまかす場面が多い映画。
「フェミを意識しない」古臭い、男のロマンを描くような作品
伊田の映画評としては評価は低い。
愛の現実は多様。それと、それが素晴らしいとか肯定性があるということは別。主観的瞬間的に思っていることですべてがOkではない。
以上