労働運動の崇高な精神と悲哀を描いた「錐(きり)」
韓国テレビドラマ『錐(きり)』をみた。ウェブマンガを原作とした韓国Ttvドラマで、2015年制作で、素晴らしい作品だ。
る大型スーパーマーケット”プルミ・イルドン”で、経営側は、リストラのために、中間管理職たちに、労働者いじめめをさせる。
抵抗する者たちは労働組合を作り戦うが、事は簡単ではない。それは人間的な崇高な精神の面もあるが現実の前で立ちすくむ場面がたくさんある。
中間管理職のスインは、労働者いじめ、リストラに加担することを拒む。主流秩序への抵抗のスタンスだ。
彼は素人ながら労働組合を組織し、労働相談所長ク・コシンと共に、不当なリストラ攻撃に戦いを挑んでいくが。
けっして弱者が勝つ、分かりやすくスカッとする話ではない。現実をベースにしているので、むしろ、こんなに苦しいなら労働組合などで戦わずに、逃げたり、積極的に従属したり、あきらめたほうがいいとおもえるような状況だ。負けの連続。
きれいごとが通じない世界。
主流秩序に抵抗するより従属したほうがいい、それが弱者のリアルだという側面もあるという話。
それでも・・・、という、この暗黒社会での人の在り方を見つめた作品だ。
先端となって戦うもの。それは”錐”のようにとんがった部分だ。それは社会に風穴を開けることができるのだろうか。むしろたたかれて折れる部分なのか。
戦う労働者に過度に清廉潔白を求めるな
情けない弱者が情けない強者と闘うのだ。
完ぺきな弱者を助けるんじゃない
エリートでない人々をみくびるな。
エリートが手助けしなくても戦える。
信じろ
負けたとき、怖いのは誰もいないこと
そのときそばにいてやれ
人は裏切る。逃げる。
いや、「いいところに行けばいい人になれる」
それは本当か?
みな、必死で生きている。会社、主流秩序に加担するひどい中間管理職の人たちも。
それは拷問に加担した末端役人と似ている。
過去に自分を拷問した人を許せるか。どう接すればいいか。
加害者行為をしたものを許せるか。
韓国の、マルクス主義的左翼的な「古い」労働運動の側面と、素晴らしい精神の側面の両方がないまぜになっての、過渡期の苦悩の中での闘いの記録。
こんな作品がつくられる社会と、まったく見えない日本社会との差が浮き彫りになる。
もちろん、日本でも、個人加盟ユニオンなどは同じようなことをしているが、テレビドラマには絶対にならない。
この作品を見て、感じるところがある人がどれだけ日本にいるだろうか。
彼らにはみえない。