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主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

「BBCが報じた日本の“恥”」

 

BBCが報じた日本の“恥”」

 

北原さんのエッセーがよかったので紹介しておきます。日本のメディアが山口のレイプもみ消し事件ー詩織さん被害問題を追及し続けられるかが問われています。

その前に私の見解も少し。

 

韓国ドラマ『僕は彼女に絶対服従――カッとナム・ジョンギ』でも、セクハラを扱っていました。韓国のドラマには、悔しさ、怒り、戦いが時々あるので、見ていられます。

このドラマ、良いです。時々泣けます。

 

 

日本でのひどさについて、私のメモの一部も以下に張っておきます。
そのあと北原さんのエッセイです。

 

 

●安倍政権の部下・杉田水脈(すぎたみお)衆院議員(安倍首相が自らスカウトし自民党から出馬、当選した「安倍首相の秘蔵っ子」極右議員)が、「貶められた冤罪だ」「セクハラと騒ぐのは魔女狩り」「セクハラ、セクハラと騒ぐ裏には思惑がある」「#MeToo運動はもう辞めよう」と言った趣旨の発言。水田や長尾に注意も処分もせず、野放し。これが安倍政権の本音。
麻生も、朝日テレビの抗議文に「もう少し大きな字で書いて」などと非本質的なところで対応。
担当記者との懇親会では、記者から「次官のセクハラ、さすがに辞職なんじゃないですかね」と尋ねられると、「だったらすぐに男の番(記者)に替えればいいだけじゃないか。なあそうだろ? だってさ、(週刊新潮に話した担当女性記者は)ネタをもらえるかもってそれでついていったんだろ。触られてもいないんじゃないの」(「週刊新潮」4月26日号/新潮社)
 
さらに、福田次官の辞任に伴い、事務次官代行も務めている矢野康治官房長は、
被害女性に名乗り出ろという対応を迫ったことに批判が集中したにもかかわらず、「(名乗り出ることは)そんなに苦痛なことなのか」「自分は(セクハラの認識について)私は相当高いと思いますよ」と発言。

 

●野田大臣も姿勢後退


野田氏は「罰則や罰金が必要であれば、検討していけばいい」と、セクハラが起きた場合の罰則法制化に言及していた。しかしその後、「法案ありきではない」と発言を修正。政府は、採用時及び各府省庁の課長級以上の幹部職員を対象に、セクハラに関する研修への参加を義務づけ、内閣人事局が実施状況を確認する(人事の判断材料にする)などとした緊急対策発表。しかしセクハラ防止法制定などの法整備も罰則も見送って生ぬるいものになった
周りから「道義や感情の判断を検察や警察に委ねる社会が良いのか」などと言われて後退。

 

 

●私のスタンス の一部

財務省の対応も麻生発言も全く問題だらけ


つまり、セクハラは、人権侵害の行為であり、積極的に発生も再発も防止しければならないものである。セクハラ行為が起これば事実関係を迅速かつ正確に確認し、加害者を処分し、被害者が働き続けられるように対処しなければならないとされている行為である。


だが財務省は今回、これを行わなかった。かなり時間がたってあいまいな処分をしただけ。相談者のプライバシーの保護などの雇用管理上必要な措置も行っていない。それなのに責任者である麻生大臣は何ら反省もせず、責任も取っておらず、のうのうと居座り続けている。安倍首相も何の対処もせず、そうした対応を容認している。まったくセクハラに甘い行動をとった。

 

そういう中で、セクハラ発言を続けてきた人物を問題とせずに出世させ続け、今回セクハラが明らかになった後も、有能な人物で任命は適切だったとし、処分をなかなか行わなかった。セクハラを糾弾せずに、「慎重さを欠いていた」という抽象的な言葉で評価した。そうした延長に、殺人罪のような罪ではないという主張をする必要は全くないのに、言ったのは、日本語のその文脈を正しくとらえるならば、セクハラ的な暴力、行為を軽視しているということでしかない。形式的な事実を述べただけというのは詭弁。いう必要のないこと、あるニュアンスを伝えるために使った言葉は、そのニュアンスの当否を考えねばならない。

セクハラ行為は社会的に規定されており、それは許されない行為とされているのである。それに対して、麻生大臣は、上記したように「女性記者に何度も「胸触っていい?」「予算が通ったら浮気するか」「抱きしめていい?」等ということは、それほどひどいことではなく、単に慎重さに欠けていただけで、相手が名前も顔も出して表に出て詳細に語らないなら、どうしようもない」として徹底した調査も加害者の迅速かつ重い処罰処も告訴も放棄したのである。

それを正当化するための言葉が「セクハラ罪という罪はない」である。

 


こうした大問題だらけの発言と対応の連続であったのに、周りの記者の追及は非常に甘く、その後のメディアの追及も甘かった。野党が頑張ろうとしても、メディアはいつも軽く報道するだけで、そのため世間もあきれつつ、安倍政権を支持し続ける。


つまり、日本社会で、メディアを典型として、まわりがそれにちゃんと対応できていないという問題。メディアは、権力チェックできない「ちょうちん持ち」、「マスごみ」、主流秩序に従属。勉強不足。

 

いう必要のないことを言う意味を追求しなければならない。
たとえば、A男のDVが問題となっているときに、「DV罪という罪はない」という必要はない。「A男は東大出身で、年収が1500万円だ」という必要はない。

男が妻の携帯を水没させたときに、「携帯水没罪という罪はない」という必要はない。器物損壊という罪はあるが、「携帯水没罪」は確かにない。


言う必要ないのに言うのは、何かを伝えようとしているのである。そこを問題としなければならない。「言っていることは事実だ」、ではすまない。「だから何なのだ」と追及し、その発言で言おうとしたことを批判せねばならない。いう必要のないことを言ったことを謝罪させ、撤回させなければならない。だが麻生大臣は、「俺は事実を言っただけ」と居直り続けた。それに黙ったまわりの責任は大きい。

 

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北原みのり 「BBCが報じた日本の“恥”」


2018/07/14 16:00

© Asahi Shimbun Publications Inc. 提供 北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。作家、女性のためのセックスグッズショップ「ラブピースクラブ」代表
 作家・北原みのり氏の週刊朝日連載「ニッポンスッポンポンNEO」。今回は、「日本の性差別」について。

*  *  *


 英BBCが「日本の隠された恥」というタイトルで、性暴力被害を実名で告発した伊藤詩織さんのドキュメンタリーを放映した。日本社会がいかに女性を差別し、いかに女性に沈黙を強いているか。詩織さんの事件に焦点を置くことで、この国の「恥」が次々と暴かれていく内容だった。
 冒頭、二次元エロに溢れている街が映し出された。コンビニのポルノをはじめ、ありとあらゆる性的サービスの情報が簡単に手に入る私たちの日常の景色は、「外国」のカメラを通せば相当に「異常」なことが伝わってくる。女がモノ化され、幼い頃から痴漢被害にあう性差別社会。この国に生きる女が、性暴力と無関係であり続けることは、ほぼ不可能であることを、「外国」の目、そして詩織さんの言葉は、私たちに伝える。


 自民党杉田水脈議員がインタビューに応じ、「差別やセクハラの体験ありますか?」との質問に、「社会に生きてれば、山ほどありますよ」「それはそういうものかな~と思って」「きっちり断るのも(社会で生きる女の)スキルのうち」と声をあげ笑っていた。自民党の議員自ら、この社会に性差別が山ほどあると認めた上で「そういうものかな~」と微笑む無能さは、かなりインパクトのある映像だった。


 また杉田氏は「(詩織さんには)女性としての落ち度がある」と明言した。この発言にはじわじわと批判が集まりつつあるが、「(セクハラ告発された)福田に人権はないのか!」と叫んだ麻生氏と全く同じ思考だ。それでも同じことを女が言うと、何故だろう、直視できないほど哀れに見える。杉田氏が座っているのは、性差別に無痛になり、男社会に過剰に媚びることで得られた地位だ。そのような席で輝く女を男社会が求める限り、杉田的女の生き方は過去にはならないだろう。


この国の司法は、山口氏を不起訴にした。刑事司法で彼が裁かれることはない。杉田氏も「日本の司法が下した判断に疑いを持つことは司法への侮辱」と言っていたが、「司法が不起訴にしたのだから加害男性には触れない」という態度を取るメディア関係者も少なくない。だけれどそもそも、性暴力を裁く司法そのものが、女性の人権とかけ離れた古く硬直した制度と化していることが問題なのだと、BBCの番組は私たちに突きつけた。


 タイトルの「恥」という言葉は、とても強い。だけれど一番の「恥」は、私たちが決してこの「恥」を隠してなどこなかったことだろう。そう、私たちは隠してなど、こなかった。「恥」であるとも認識していなかった。
「恥」を与えられるのは常に女性だ。性暴力を受けた女性、性産業にいる女性、声をあげた女性。女たちに恥を強いる一方、加害者や買春者は性欲に突き動かされる自然現象のように描かれてきた。そのことを恥とも思わずに。
 詩織さんがあげた声に、日本社会は真摯に応答できずにいる。恥ではなく、それはもう既に罪なのだと思う。


週刊朝日  2018年7月20日

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