ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

•夏目三久アナと有吉弘行さんの結婚におけるジェンダー平等・シングル単位欠如の問題

夏目三久アナと有吉弘行さんの結婚で、夏目さんが今秋で引退、全ての仕事を辞めると宣言。伊田が少し見た「サンデージャポン」とか他のTVでは、有吉がそこまでの覚悟して彼女を守る決断したので責任を持つ感じがしてすごい、かっこいい、評価が上がる、夏目さんも派手な仕事を辞めて彼を支えるなんてすごい愛情だというような文脈で二人に肯定的な声ばかりだった。 

 

有吉さんの説明は、夏目アナが仕事を辞めて専業主婦になるときめたのは「みんなの話を聞いていると、離婚の理由ってすれ違いか価値観じゃない? 価値観の方は無理だとしても、すれ違いだけつぶしておくか、みたいな」「(夏目さんが)今まで頑張ってきましたし、これからはゆっくりと」(したらいい)ということだった。そして夏目さんもマツコから「ええ~!? 大丈夫? 我慢できるタイプ?」と念を押されると、「はい」と答えたり、「表に出る仕事の緊張感や重責は少しは分かっているつもりなので微力ながら安らげる場所を作れればいいのかなと思ってます」といったりしている。

 

つまり女性の側が夫を支える側になり仕事を辞めるということになっている。これは実は明治、大正、昭和と続いたかなり昔からの性別役割の発想であり、山口百恵さんの選択と類似のものだ。40年ほど前の時点でも私は山口百恵の選択を古臭いしもったいないなあと思った。時代は徐々に変化してきた面もあるが、まだこのメディア・芸能界の反応をみていると同じことがまた起こっているといえる。

 

シングル単位とジェンダー平等(フェミニズム)がまだまだ浸透していないということだ。

もう言い飽きているが、簡単にだがフェミ的なシングル単位の基礎的整理を示しておく。 

  有吉が言う「価値観の違いとすれ違い」を避けたいというなら、有吉が引退して夏目が働くということがあってもいいがそれは検討されていない。それは有吉が家庭の中で家事や育児だけをして夏目を支えるということは毛頭考えていないからだ。人生としてやりがいある仕事、収入の高い仕事をやめて日陰の家事育児だけをひっそりとするなど男性である有吉にはありえない。だとすれば才能があり、仕事もあり、高い収入もある夏目が自分の人生から仕事を排除するのは、あまりに非合理な選択だ。

 

こうなっているのは、カップル単位で考えて、誰かが働いて一家で収入あれば後は分業でいい、外で働かないのは楽なことだから妻を楽にさせてやりたい、妻子を守ってがんばって働き稼いで裕福な生活をさせるのが男としていい、妻を夫の高収入で養うのはいいことで妻も喜ぶ(セレブ妻!)、夫を支えるのが女性として美徳、といった意識が絡まっているからだ。

 

そこに欠けているのが、シングル単位だ。収入を持つという個人の自由の基盤、やりがい、などを考えれば、ジェンダーによってすごくワークライフバランスが偏るのではなく、個人単位で仕事・収入も、余裕も、家事や育児の時間も、ふたりの時間も持てるようにすればいい。だから個人単位で働く時間を減らして、各人がアンペイドワークもする。具体的には「すれ違い」にならないためには有吉も仕事を減らし夏目も仕事を減らし、家庭と仕事を両立させる人間らしい働き方をする、一人の収入は少し減らしてでも金第一ではない考えで生きていけばいい。二人の時間を作ればいいのだ。

 

そういう主流秩序から離脱したゆとりある生活をすればいいのだ。そう言うこと全部を含めてシングル単位の生き方という。それがないと、家族で分業して性別役割意識も絡まって非常に「男女」が偏った生活スタイルになる。夏目と有吉は、仕事ばかりの有吉と、ずっと家にいる夏目になる。仕事の特性上、短時間労働は無理だというのは、本気で主流秩序からの離脱、低収入もOkという視点も入れて考えていないからだ。有吉に犠牲が大きいというなら、まさにその言葉は夏目にも向くだろう。安らげる場所をつくるのは女性だけの役割ではない。各人が自分の仕事を減らすことを考えないのは自分に対しても相手に対しても不誠実だ。

 

誤解内容に言っておくが、輪は自由が大事と思っているので、各人の生き方はその人が決めればいい。夏目さんの生き方は夏目さんが決めればいい。仕事をやめて無収入になる選択もありだ。

だが社会構造としてジェンダー格差や差別がある中で、この家族単位による性別分業をなぞる行動は、女性の低賃金や非正規化、助成の出生・管理職が少ないなどの問題も温存する。個人としての自由、ワークライフバランス、社会への責任を考えるなら人は原則、働き税金を払うのが大事であり、今の日本社会ですぐにその指摘がないなかで、繰り返し「有吉さんの発想にはシングル単位、ジェンダー平等感覚がない」と指摘することは重要だ。

働くことに疲れたとか病気になったからしばらく仕事を休むというのは「男女」関係なく誰にでももちろんあってもいい。短期的には人に依存したり養ってもらうこともあっていい。しかし、基本は人に寄生したり養ってもらうのは不自由であったり危険だったり無責任だということは忘れないほうがいい。それがシングル単位だ。

 

夏目・有吉さんの問題は、日本社会で未だ古臭い発想にとらわれている人が多いことを如実に示した。男女共同参画、フェミやジェンダー平等が、主流視点や店やシングル単位も入れて深く理解されていない結果が、いまだ古臭いジェンダー不平等社会を温存し、有吉さんの発想、それを美化する人々、問題とおもえない人をもたらしている。

 

ず―と前の100年前、1918年に、もうこんなことと近いことは主婦論争として論じられていた。働く女性子育てについて、そして女性の社会的、経済的地位の向上の方法論をめぐって与謝野晶子平塚らいてう山川菊栄、など議論した。家族単位的な土俵で性別分業擁護の議論もあったが、すでに社会全体で女性の家事育児を担っていく方向、それによ手女性が自立する道の方向も指摘されていた。

 

山川菊枝は、男性が作り運用する法や制度【伊田が言う家族単位の諸制度】を疑うことなく受け入れてきた女性自身にも意識変革を求めた。「男が決める女の問題」(『女の立場から』所収)で、菊栄は鋭く問いかける。

 

 「私たちはいつ私たち自身の魂を形成する権利を彼らの手に委ねたか。そして私たちはいかなる理由によって、私たち自身の意思を無視して審議し決定せられた彼らのいわゆる教育方針なるものに従って、生ける傀儡(かいらい)となって果つべき義務を認めねばならぬか」

 

 そして現状を懐疑し、批判精神を持とうと訴える。

 「かく疑うことは私たちの自由でなければならない。私たちの若き姉妹よ、まずかく疑うことを習え。かく疑うことを知ったとき、そしてこの疑いをあくまで熱心に、あくまで執拗に追求することを学んだ時、そこには私たち婦人の救いの道が開けてくることを、ただそこにのみ開けてくることを覚らるるであろう」