ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

韓国TVドラマ『緑豆の花』と主流秩序

韓国TVドラマ『緑豆の花』の感想を主流秩序との関係でかなり長くまとめました。

3回に分けて紹介しておきます。本に入れるときには図表なども入ります。

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『緑豆の花』――「意志を継ぐ」という感覚を持てる人とそうでない人の話――「負ける戦いはしない」「結果がすべて」「保身が大事」ではなく、「勝てない側(敗ける側)にしか見えない景色」を人生に見るという話

  • はじめに

韓国のTVドラマ『緑豆の花』(2020年04月から放送、全24話)はすばらしかった。脚本はチョン・ヒョンミンで、現実政治や労働運動を体験した経歴の持ち主ゆえの世界観がちゃんと出ている。身分制や侵略などの現実への言及をちゃんと入れながら、人の生き方を深く問うた政治的社会的な「物語」で、なかなか日本の作品ではお目にかかれない骨太の作品となっている。私は主流秩序への多様なスタンスを浮き彫りにした作品と思ったので詳しく私の作品評価・感想を書いてみた。

これは忘れられた誰かの話だ。

あの熱かった甲午年(こうごのとし1894年)

人が天になる世を目指し

突っ走った偉大なる民たち

歴史は“無名の戦士”と呼ぶが

私たちは名を知っている

緑豆の花

彼らのおかげで私たちがいる

 

「人は天!」

(物語『緑豆の花』最終話より)

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第1章  物語『緑豆の花』のあらすじ、およびこの物語を考える「歴史の中での生き方」という枠組み

 

  • 私の人生の見方とこの作品の関係――無名で死んでいったものの意志(遺志)を継ぐということ

 

500年前、1000年前のひとのことなど 今はほとんど誰も知らないのと同じように、そしてミミズやセミや牛がどういう思いで生きて死んでいったかも知らないように、私の人生も、1000年後には消えている。TVドラマ『ゴッドファーザー オブ ハーレム』にみられるように、多くの「普通の人」は簡単に殺されたりあっさり人生が終わったりしていて、犯罪者も捜査されず捕まらず、闇にその真実、被害者の苦しみや悔しさ、理不尽さは吸い込まれていく。それくらい人の人生ははかない。生の輝きは線香花火のように一瞬だ。

だからこそ、この今日の一日を「無事に」、つまり大きな苦しみや痛みがないようにすごしていければいい、できれば少し輝かせて生きていければ御の字だ。ある日突然、人生が「終わる」ことを恐れずに。何か意味があるとか充実しなきゃ、活躍して金を儲けて皆に承認されなくっちゃなんて思わずに。そんなこと大したもんじゃない、生きているだけでいい、名声とか学問とか哲学とか意味など求めなくて、生きているだけでいい。そういう意見はある。半分は真実といえる。だが、足りない面、見えていない面がある。

それは「意志(遺志)のつながり」の中で“無名的に”生きて死んでいく喜びの感覚という面だ。こんな社会で、物語『緑豆の花』で描かれた人々のように、「人が平等になる社会=光」を夢みて闘いの中で生きて死んでいった人たちがいる。歴史の記録としては誰も名前も知らない。具体的に個々人のことは知らない。多くの人は「その人」のことを知らない。東学農民軍として蜂起に加わり、突撃して最初に撃たれたり切られて死んでいった多くの「反乱の農民」達。その思いを引き継いで次の時代、次の時代、そしてまた今の時代で戦い続ける人がいる。それを信じて死んでいったものたちがいる。そのつながりが見えるかどうか。それ はある個人の生き方を大きく左右する。

歴史に名が刻まれなくても、記録に残らなくても、個々人の人生において、どう生きるかは、自分の充足感、誇りある生き方・恥じない生き方、そして平等で平和な社会を夢見て意志を継いできたひとへの責任の点で重要だ。理想の社会を夢見ることの幸福感や充足感を知らない人には、その「意志を継ぐ光」は見えない。それが見えた時、人生は“たいしたもん”になる。主流秩序の上位に行くということではない、「たいしたもん」になる。「意志を継ぐ」という感覚を持てる人とそうでない人の人生の差を描いたのが、この『緑豆の花』だ。

保身・実利が大事、主流秩序にそっているしかないとおもう人は、それに従属する「恥」がわからない。そこから離れる自由の味、自由の解放感、がわからない。

このように、人生ははかなく好きに生きればいいという面と、不平等社会で悔しい思いをしてきた者たちの平等を求める意志(遺志)を継いでいくという両方を踏まえて、自分は、「緑豆の花」の後に続きたいと思う。それは、敗北と無名を引き受けて生きていくということだ。王族、両班、官軍、商人、日本軍への加担のような生き方をしないということだ。根源的に考えて、こうした「どう生きるかという選択」をしない人は、知らぬ間に主流秩序に加担しているということを理解していないと思う。私はいろいろ考えて生きてきて、最低そこは大事だなと思うようになったので、今後も根元的に考えて、大枠、大事なところを外れない生き方を選択していきたいなと思っている。

その意味では生きているだけでいいのではない。それは無責任であり、ひどいことへの加担者だ。歴史に、次の世代に、あとの世界に汚物を投げることだ。少なくとも自分のできる範囲で汚物をかたづけてそこを去れと思う。

以下の時代背景にあるような中で、そういう時代にどう生きるか、物語『緑豆の花』が考える材料を提供してくれるので、主流秩序とからめて具体的に考えたい

 

  • 時代背景と物語の展開の絡み(あらすじ・概論)

物語『緑豆の花』自体は想像的に創作されたものである。しかし大きな時代の流れや事件・歴史的人物など、一部は史実にもとづいて展開されている。その、物語の展開と歴史との絡みを少し整理しながら、登場人物たちの選択の、主流秩序へのスタンスを記しておきたい。以下、この作品を観ていることが前提だが、観ていない人にもある程度わかるように配慮して書いていきたい。

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19世紀末の朝鮮。古阜郡[1]において、汚職役人ペク・カの長男ペク・イガンは庶子として蔑まれーー使用人である女性(イガンの母)が家長であるペク・カにレイプされて生まれた子――、弱者を殴って「民から搾り取る」ような父の汚れ仕事を手伝う最低の人間として生きていた。“あれ”という蔑称でみなに恐れられ、同時に見下されていた。自己肯定感の低い、自暴自棄的な生き方をしている。

一方、イガンの「腹違い」の弟で嫡子のイヒョンは、父親の期待を一身に背負い、日本留学を終えて科挙受験の準備中の優等生で、一家で使用人扱いされる「兄」のイガンにも優しい、思いやりと才能ある人間として生きていた。

またのちにイガンの人生に絡む、商団・全州旅閣の跡取り娘、ソン・ジャイン(ソン客主)たち(行商人)が行っている商売は、武力的自衛も含めて独特の世界を持っていた。

時代は、王室制度が19世紀時点でも続いており、貴族的な支配階級である「両班」(やんばん)はそうした身分体制を信じて、人間の上下を前提として生きていた。そして当時の社会にはあらゆるところに腐敗した政治や商売があった。

そんな中、将軍チョン・ボンジュンーー愛称は「緑豆将軍」――ら東学教徒が結成した反乱農民たちにより、民乱が勃発する。

イヒョンは尊敬する師匠・両班のファン・ソクジュ(ファン進士(チンク))の妹ファン・ミンヒョンとの結婚を予定していたが、彼女の兄ファン・ソクジュに妨害されて、過酷な討伐隊の兵士にされ、そこで地獄を見て人格が変わっていく。逆に、最低人間だったイガンはボンジュン・東学義兵の活動との出会いを通じて東学農民軍の義兵となり徐々に“あれ”の人生からまともに生きる道に入っていく。

イヒョンとイガン、“いい人”と“悪い人”が入れ替わっていく。だが、ことは単純ではない。背景には、清に支配されつつの封建的で腐敗した王室体制を変革すべき必要性、先進的な文明開化に進んで近代化していた日本に追いつく必要という側面もあった。同時に、日本の侵略――植民地的支配への野望――もあった。したがって身分制社会の改革を現実的に進めるには、侵略者である日本という強いものに従って生き延びつつ進めるという現実路線という選択肢(開化派)もあった(イヒャンはこの路線ということで自分を正当化)。商売人は利益を目指すなら勝ち馬に乗っていく(それでいいという居直りと思考停止)。様々な人の思惑が絡み事態は複雑に進んでいく。

その中で、両班でも、外国の侵略と戦うために農民蜂起と連帯するものも出てくる(後期のファン進士(チンク)の路線)。イヒョンは両班への復讐の気持ちや朝鮮の近代化を重ねて日本軍支配に加担していく。商人は、儲けるのが仕事だと思考停止して日本軍に協力していく。

ペク家は両班にはなれない劣等感と上昇志向の家であった。衰退する王室政治の下、愚かな朝鮮官軍は、義兵となった農民たちには残虐を尽くすが、侵略支配してくる外国勢力(清と日本)とは戦わず、いいなりになる。日本は、日清戦争で勝って朝鮮を植民地にしていく過程に入っていく。それでも内部争いをしている朝鮮。御多分に漏れず、近代化という美名で劣等民とみて馬鹿にする侵略国に、加担(勝ち馬に乗る)する朝鮮人も多い。商団・全州旅閣は、日本との交易で急成長していく。

創作としての物語では、商団の若き責任者ソン・ジャイとイガンの恋や、宿敵となった兄弟の血ゆえの絆と哀しい運命をからませて、激動の時代の中での“敗北の生き方”が描かれる。

当時の情勢を描いた風刺画(日本と清が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている)

 

  • 東学党の乱」というものを朝鮮の民衆側から知る

私は受験的な日本史の勉強で「東学党の乱」というものを知ったが、すぐに内容を忘れ、言葉だけが記憶に残る程度だった。それが今回、物語『緑豆の花』を見て、物語に出てくる事件についてすこし調べて、その後の日本の朝鮮侵略韓国併合、という日本の黒歴史に続いていく1890年代の朝鮮の動きを学んだ[2]

以下、物語『緑豆の花』の展開の中心の「東学党の乱」とは何であったのかを記していく。だがこれは歴史のお勉強ということでなく、物語『緑豆の花』に絡めて、私が主流秩序との関係で生き方を考えていくという作業の一部である。だから私には退屈なものではなかった。侵略国・日本側の認識で書かれた「歴史」が、いかに偏ったものであったかを学ぶことでもあった。これは現代においての「慰安婦問題」への認識のゆがみに通じる問題である。

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朝鮮政府内部の腐敗による農民軍の大規模反乱暴動・内乱である「東学党の乱」は、「東学農民運動」「東学農民革命」「甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)[3]」などよも呼ばれている。東学党の乱は1894年1月11日に発生、1895年3月29日に終焉。

閔氏政権の重税政策、両班たちの間での賄賂と不正収奪の横行、そして1876年日朝修好条規江華島条約)をはじめとした閔氏政権の開国政策により外国資本が進出してくる等がある中で、当時の朝鮮の民衆の生活は苦しい状況であった。

東学党は困窮する朝鮮農民を主体とする一派で、政府に対する経済改革要求から政治運動に発展し、暴動は全土に波及した。当時の朝鮮政府を掌握していた閔妃(びんひ)政権(李氏朝鮮)の腐敗に対する不満は、「東学党の乱」以前から噴出しており、1883年頃から各地で農民反乱が起こっていた。

このような中、1894年全羅道古阜郡で、役人の税金横領が発覚し、横領に異を唱えた農民が逮捕される事件が起きた。この事件により、同年春に、崔済愚の高弟で東学党の二代目教祖となった崔時亨が武力蜂起し、甲午農民戦争に発展した。反乱軍はチョン・ボンジュン(全琫準)という知将を得て1894年5月には全州一帯を支配下に置いた。

この民乱の指導者に成長したチョン・ボンジュンを含め、農民の多くが東学に帰依していたことから、この東学の信者を中心とした民乱が全国的な内乱に発展していった。

東学党の乱の始まりとともに広まったチョン・ボンジュンの檄文

チョン・ボンジュンは下層の役人であった。しかし、17世紀から普及し始めた平民教育で、チョン・ボンジュンのような非両班知識人が形成されていた。このボンジュンが発した呼びかけ文(檄文)が東学信者の手で全道に撒かれ、呼びかけに応じた農民で、数万の軍勢が形成された。彼らは全羅道に配備されていた地方軍や中央から派遣された政府軍を各地で破り、5月末には道都全州を占領するまでに至った。

これに驚いた閔氏政権は、5月30日に清国に援軍を要請。これに反応した日本は1894年6月2日に朝鮮出兵を決定し、同月4日に清国に対し即時撤兵を要求した。だが拒否され、天津条約にもとづき、日清互いに朝鮮出兵を通告。その後、日本と清は双方、派兵を正当化し、戦争状態に突入していく。

この状況に慌てた閔氏政権は、東学農民軍の提案を基に全州和約を作成し締結した。この和約で従来の地方政府が復活したが、同時に東学農民側のスタンスでの役所的な「執綱所」が設けられ、全羅道に事実上、農民権力による自治が確立した。つまりこの時点で一旦、農民の反乱は成功のうちに終結した。

しかし上記したように、この騒動の中で日清が覇権争いをすすめ、日清戦争に発展し、結局日本が朝鮮を支配していくこととなってきた1894年7月23日、日本軍が郊外の駐屯地龍山から漢城(ソウル)に向かい、朝鮮王宮を攻撃し占領した。日本は国王・高宗を手中にし、大院君を再び担ぎだして傀儡(かいらい)の新政権を樹立させた。そして新政権に牙山の清軍掃討を日本に依頼させた。そして25日に豊島沖海戦、29日に成歓の戦いが行われ日清は交戦状態となる。31日に清国政府が駐北京日本公使小村寿太郎に国交断絶を通告、8月1日に日清両国が宣戦布告をし、日清戦争が勃発した。

こうして外国勢力によって国が亡んでいく、という事態を前に、チョン・ボンジュンらは、2度目の蜂起を行っていくことになる。1度目は腐敗した閔妃政権の打倒を目指したものであったが、今度は日本軍が標的であった(排倭)。この第二次蜂起は、王からの隠れた要請の面もあった。大院君は名士豪族に密使を送って東学の扇動を命じたり、東学幹部に会って東学徒の召集を促したりした。大院君は、東学には数十万で大挙して漢城に来るように命じ、平壌の清軍と共に南北から挟み撃ちにして日本人を駆逐する策を実行するように指示したということである。

チョン・ボンジュンは日清両国が軍を派遣して間もない7月には既に第二次蜂起を起こそうとしていた。しかし、農民の収穫期ということや平和的な解決を望む東学の上層部の説得に時間が掛かり、第二次の蜂起をしたのは10月に入ってからであった。王室は、日本に支配されて言いなりになってしまっていたので、今度は日本に屈服した李氏朝鮮の傀儡政権と日本軍を相手にする反乱となった。

つまり第二次蜂起は、貧しい農民の、民主主義的な改革を求める乱の面、かつ侵略者から国を守る愛国主義的な面(斥倭)と、日本を放逐せんとする王政・大院君側の思惑が重なった面があるものだった。

第二次蜂起を起こしたときには、日清戦争は既に大勢を決していた。勢いを増した日本は障害物となった東学農民軍の討伐に乗り出す。蜂起した東学農民は権力側からは王室体制への反乱分子=逆賊=東匪(トンビ)と規定され攻撃される。1894年11月末に忠清道公州で農民軍と大日本帝国軍が衝突するが、近代的な訓練を受けた兵器のある日本軍と、武器もない農民の竹やり集団の戦いは日本軍の圧勝で終わる(多くの農民が虐殺される「牛禁峙(ぎゅうきんじ/ウグムとうげ)の戦い」)。この時、日本軍に支配されている王政側は民乱側を裏切り、日本軍とともに、農民義兵を攻撃した。牛禁峠の戦いの後、東学義兵の残党刈り(東匪トンビ狩り)を官軍が日本軍とともに行った。

その後、残兵も一掃されて、1895年に東学の民乱は鎮圧された。牛禁峙の戦いに敗れ捕縛されたチョン・ボンジュンは1895年初頭に漢城(現在のソウル)で処刑された。

逮捕された後のチョン・ボンジュン(1894年12月)

 

 

[1] 古阜郡は実際に甲午農民戦争が起こった場所。この物語は、架空の人物たちをこの場所の人物として設定して展開した。

[2] 朝鮮には、支配する国からの独立の戦いの歴史がある。朝鮮王国時代のを中心とした冊封体制からの離脱の運動、清に代わって支配を強めた日本にたいする独立の諸運動などがあるが、南北分断独立に至るまで、思想によるもの、民族主義社会主義的なものやその他など、複雑なものが多々あった。本稿では、それらには触れないが、東学党の乱の後、東学党の乱の歴史的な位置がわかるよう、以下、すこしだけさまざまなものがあったことを想起させる名称とメモを記しておく。

。日本は、日清・日露戦争を通じて朝鮮支配に近づき、日韓協約など様々な不平等条約を旧韓国と結んで朝鮮における影響力を強めた末、最終的に日韓併合条約締結に至って朝鮮を日本の一部に併合した(韓国併合)。1919年の三・一運動、「大韓民国臨時政府」発足、抗日運動で民族の代表機関だった臨時政府は一弱小団体に転落するがその後、金九などの活動により復権、暴力的ゲリラ抗日活動、間島事件、国外での独立組織結成、国内外で日本の要人への襲撃や破壊活動、社会主義思想団体、光州学生事件、金九による1932年1月8日天皇の暗殺を試みる桜田門事件上海天長節爆弾事件、中国による臨時政府支援、満州を中心とした多くの地域での遊撃隊による抗日闘争、光復軍、日本と交戦することの無いままの日本の第二次大戦降伏、戦後、米国とソ連によって朝鮮人民共和国の政府承認が拒絶され各占領地で軍政を布いて朝鮮が南北に分割統治される、各地での反対派による武装闘争、それにたいする弾圧(済州島四・三事件)、最終的に南北それぞれの選挙によって南北分断の独立達成。

[3] 甲午年(こうごのとし)とは1894年のこと。