ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

韓国TVドラマ『緑豆の花』と主流秩序 (その2)

『緑豆の花』――「意志を継ぐ」という感覚を持てる人とそうでない人の話

 

第2章 激動の時代に登場人物たちが選んだ様々な「生きる道」

 

  • この歴史の中で選択を迫られた各人

この歴史的流れの中で、物語『緑豆の花』として描かれるのは、各立場で生きていく登場人物たちの「生きる道の選択」である。私は、この登場人物たちの選択を見ながら、主流秩序の中で人は(自分は)どう生きるかを考えることができた。

以下、物語『緑豆の花』を視聴していない人にもある程度わかるように、各登場人物の生き方を主流秩序との絡みで紹介していきたい。

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  • 父が良かれと思って娘の生き方を否定してしまう誤り

人生で生き方を問われる瞬間というものがある。主流秩序に屈服してしまう選択もありえる。あるいはそれでいいのだと信じて疑問や躊躇なく主流秩序に沿った選択をするひとがいる。この物語では、例えばソン・ボンギルであったり、ペク・カであったりする。

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商団の家長ソン・ボンギル(商団・全州旅閣の元主人 現在「都接長」)は、娘ソン・ジャイン(ソン客主:商団・全州旅閣の跡取り娘)を助け自分たちの商団が生き残るために、娘の東学協力を阻止し日本軍に協力(軍需物質を提供)することにしてしまう。行商人たちは都接長の言うことを聞いたため、娘とドッキ(娘を助ける部下)は東学農民軍への協力ができず、逆に商団は日本軍に加担することになってしまう。父は娘に「大人になれ、機会が訪れたときにつかんで巨商になれ」といい、大事な娘の命を優先したからこの選択は正しかったと思っている。

だがそれはドッキや娘の人生を狂わせる。娘は自分が誇れる生き方を妨害され、侵略者の虐殺に加担することになったのだから。その娘の父への絶望と怒りは大きい。親子の関係は破綻する。何を大事にするかで父は命や金儲けを選んだ。ある意味、金もうけに生きてきた父であり娘を何より愛する父にとって当然の合理的な判断と思えるものだった。だがそれは娘の“自分が人間らしく生きるという選択をした生き方”を否定することとなった。ソン・ボンギルは、自分の命や娘の命への脅しという危険があっても、娘の意思を尊重する選択もできた。だが脅しに屈してしまったし、それが商団の儲けになるので「現実的には娘のために取った良い選択だ」と判断した。だがドッキやジャインが蜂起に対する裏切り者ではないことを説明するためドッキは農民軍に赴き、そこで義兵となって結局死んでしまう。娘は東学農民軍の義兵たちが虐殺される状況を見ることとなる。娘もドッキも父ボンギルの「選択」によって人としての道を誤まってしまうことになった。仲間が虐殺される中で自分だけが助かる、しかもその虐殺に自分たちが加担してしまうなどジャインには地獄である。

 

  • 父ボンギルに欠けていたもの、みえなかったもの

父は見誤った。その原因は3つの問題として整理できる。

それは第一に、シングル単位的に個人の自己決定を尊重できなかったという問題である。父は娘や大事な部下を「自分と一体の家族」のように思い、そのためには自分が判断してもいい――自分が正しい選択をしてやるーーと考えた。家族単位的な感覚である。それは娘やドッキ個人の判断を何よりも尊重し、境界線を越えないというシングル単位的な感覚の欠如という誤りである。父はよかれとおもって娘の判断を尊重せず、自分の価値観を押し付けた。境界線を越えて娘の人生をコントロールしてしまった。悪い方向に。それによって愛している娘との信頼関係を失った。

娘は病気で血を吐いた父に向って言う。「血を出すのは早いわ。朝鮮人の血の付いたお金で棺を満たすから、もう少し待って。まだ死なないで」

第二の問題は、父が主流秩序的な価値観にどっぷりつかって、それから離れるという道が見えなかったという問題である。この場面でのソン・ボンギルにとっては、強い日本軍、それに従う官軍側について東学の蜂起と敵対すること――主流秩序に沿って生き残る道――しか見えなかった。まして目の前で自分の命も含めて大事な娘とドッキの命を脅され、逆に協力すれば助かるし儲かるとなれば、その強者に従属する、言いなりになることは生き残るためには「それしかない」不可避の選択肢と父には思えた。だが、それは、主流秩序に対して、「従属する以外の道があるということを知らない生き方」といえる。

平時に生きてるなかで、金もうけが大事、命は大事と思う人は多いであろう。だが命や金儲けより大切なものがある。娘は「愛する人(イガン)や仲間を裏切り、大義に背いてでも自分一人生き残りたい、できれば儲けたい」などとは思わない。むしろそれは身が引きちぎられる苦痛であろう。民の側に立ち、理想社会を目指して戦って愛する人や仲間とともに負けたかった、死にたかったであろう。つまり、そのように、「日本軍とそれに従属する王族・官軍に加担する主流秩序の道」以外の道――日本軍と戦う道――があるのだ。それが娘ソン・ジャインにとって「ちゃんと満足して生きる道」だった。

それが娘には見えていたが、父によって奪われた。父には、主流秩序に反してでも「人が生きる上で大切なものがある」ということを、自分の狭い価値観によってみることができなかった。東学の「人が平等な社会を」というような主張を、矮小化して「たんなるきれいごと」「無理な夢物語」「空論」としか理解できなかった。それゆえの悲劇であった。ソン・ボンギルが「現実的」と思って選んだ選択の代償は大きかった。

そして最後の第3の問題は、父に娘を深く信頼し誇りに思うという感覚が欠けていたことだ。娘とドッキが死ぬのを見たくなかったというボンギルの考えに欠けていたものは何か?それはペク・イガンの母ユ・ウォリが、息子を愛し信じるからこそ、息子が死ぬ可能性の高い戦いにいくことを止めないような思いだ。息子の戦いの道を深く尊敬するような思いだ。

イガンの母は、ナムさんが戦場に行くときに「イガンへの伝言はあるか」と聞かれて答える。「何もない。以心伝心でわかるから。私がどれだけ誇りにおもっているか。誇らしすぎてどれだけ幸せかわからない。」

 

  • ペク・カにわからなかった「人間らしく生きた人だけにわかること」

 ペク家の家長ペク・カ(イガンやイヒョンの父)も、根っからの「現実派・実利派、主流秩序どっぷり派」である。とにかく現実的に権力を握り、主流秩序を少しでも上昇したいというタイプである。身分制を内面化し、平気で身分の低いものを搾取し、本気で使用人を殴打できる。

ペク家長は、ペクの妻などがイガンの母ユ・ウォリを助けようとすることを阻止する。「トンビに協力したとみられていいのか」と怒り、ユ・ウォリを棒で殴打する。「いいかげんにしろ!やめろといったときに聞かなかったからだ。主人が言ったら従うべきだろ!(なぐり続ける)使用人が出しゃばるからこんなことになる!」 そして民保軍に媚びて、「こいつが悪質なトンビだ」といって差し出す。妻は「それてでも人の子か!」と泣き叫んで怒る。

またペク・カは息子イヒョンーー日本軍に加担してひどいことを繰り返して出世してきた状況――が悩んでいるときに、いう。「鬼になったと思ったのにまだ人間なのか?それで宰相になれるのか?」「上に昇っていくには踏みつけねばならん、ずっと踏み続けるんだ 階段でも人でも」。そしてイヒョンが「必要ならば父上も?」と聞いたことに対して、「昔のことなど気にするな。記憶は歳月には勝てない」という。そういう世界観なのだ。

その父ペク・カと庶子イガンが対話する場面で、主流秩序しか見えないペク・カと、理想をもって「主流秩序から離れる視点」を得たイガンの世界観の対比が明確になる場面があった。

(父に何を感じているかと聞かれたイガン)「吏房[1]にならず本当によかったと」、父「吏房にならず義兵になって何を得た?」、イガン「父さんに話しても理解できないはずです。人間らしく生きた人だけにわかることですから。」、父「人即天と騒いでいたやつらはみんな死んで、鬼と呼ばれたイヒョンは郡主になった。それをみたらどう生きるべきか答えがでないか?」、イガン「そこは獣の遊び場で 人の生きる世界じゃない」、父「“あれ”のまま生きるべきだった。この世は鬼や“あれ”で生きるしかない。名前では生きられないんだ」。

 つまり父ペク・カには本当に答えは明白で、それは「理想を言って主流秩序に反抗したものが死んで、主流秩序側に立ったものが出世したのだから、主流秩序に合わせるのがいいのは当然」ということなのだ。

だが、それはソン・ボンギルと同じく「主流秩序に沿わない生き方」――民の側に立ち、理想社会を目指して戦って愛する人や仲間とともに負けることで満足して生きる道――が見えないということだ。イガンにはその「道」が見えていた。それを「人間らしく生きた人にだけ見える道」と呼んだのだ。そして父にはわからないということもわかっていた。かつての自分にもその道が見えなかったから。

ここに示されていることは、この「主流秩序という構造がわかったうえで、それに従属しない選択肢も見えてくる感覚」が、わかる人とわからない人がいるということだ。主流秩序どっぷりの人には見えない選択肢。それをこの物語は「緑豆の花」という景色・概念として示した。

ペク・カには主流秩序にそう道しか見えないことが分かる別のシーンもあった。

日本公使館配下の人間になって非道なことをし続けるイファン(日本名「鬼」)に対して父ペクが言う。「(今の朝鮮は)日本人の世界だからなんと言われようと まっすぐ日本の協力者の道を進め。それで“宰相の父になる”という私の願いをかなえてくれ。この国はとっくに滅びているから朝鮮という国など気にするな。お前のような賢い奴が他国の味方になった時点で滅びていたんだ。国なんてものは幻に過ぎない。国の前に人がいて、人は実利が大事だ。余計なことは考えずに今のように生きろ。」

つまり、強いものに従う道でいいのだ、人は実利で動くしそれでいいのだ、だから侵略国であろうと日本を利用して儲けたり出世していいのだ、という哲学だ。

だが、これは、それしか見えていない限界ある思想であり、それが真実だと決めつけている点で正しくない。ペクには人間とはそういうものとしか思えない、それしか生きる基準がないという告白をしているにすぎない。

現実は、人は実利だけで動くものではない。父は「人は忘れるから気にするな」というが、実利や人の目が第一の基準ではない人がいるのだ。世間が忘れようと自分が自分を裏切れば、自分を許せなくなるという人はいる。ばれなければいいという人もいるが、ばれなくとも自分の基準で恥ずかしくない生き方をしようと思う人はいる。このギャップは、自分が何を大事に生きてるかという問題のギャップだ。

 

  • 「負ける生き方」――主流秩序に沿わない幸せ

物語『緑豆の花』では、ギリギリにおいて「不利な選択」をした人たちが描かれた。それは「馬鹿な生き方をしたね、こうなったらだめだよ」というためではない。「不利な選択」をした人たちに対して、尊敬と感謝と「意志を継ぐ」という応答として記録されたのだ。私もその気持ちで本稿を記している。その「不利・損な選択」を「負ける生き方」と呼んでもいいだろう。「負ける生き方」の豊かさを見ていこう。

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イガンたち東学の義兵たちは、強力な日本軍と戦えば死ぬであろう選択肢を選んだ。それは悲しみでも絶望でも生きる気力の喪失の結果でもなぃ。それは誇りをもって生きる道だったから。

イガンはいう。

(牛禁峠の戦いの中で圧倒的に不利な状況になって撤退するかどうかにおいて)「戦い続けるか、選択は義兵にさせてください」とボンジュンに言う。そして接長たちの前でイガンは言う。

「解散して再起をはかるべきか、戦い続けるべきか、接長たちの考えは?」(別動隊長の考えは?の声に)「“犬の犬のフン”という名の接長は挙手を」(多くが手を挙げる)

「多いな。卑しいやつばかりだ」(皆の笑い)「俺は“あれ”だった。」(笑い)「今日死んだ隊員の名は“村の犬”だった。ひどい名だ。家畜だってそんな名で呼んだらだめだ。だがそれがこの世の現実だ。人の上に人がいて、下は家畜と同じ。だから戦った! 必死に戦ってついに、使用人も接長、両班も接長! 俺みたいな庶子も接長! 宮殿にいる王様も接長!! 解散して命は助かっても、接長ではなくなる。日本人が両班の代わりになり、また家畜のように生きる。だから俺は戦う!」「わずかだったが 人が平等に接する世界で生きてみたら、もう別の世界では生きられない! だから俺は戦う!たとえ一瞬でも人間らしく生きて、人間らしく死にたい!」 

つまり、イガンたちは、身分によって卑しめられる不平等社会(当時の主流秩序)に苦しんできた中で、はじめて人が平等に生きられる世界の空気を味わったのだ。戻れない。だから「負ける道」であっても突き進む。このことをボンジュン(緑豆将軍)は、身分社会を所与のものとして諦める世界から、別の世界への境界線を義兵たちは越えたと表現した。「境界は心の中にある。彼らはそれを超えたのだ」と。

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「自分が死んでも、仲間たちが我々の遺志を受け継ぎまた戦い続け、いつかいい世の中になる」、その思いはともに戦う仲間にはわるものだった。共有されていた。

敗北後、皆がばらばらに逃げる中、将軍が捕まり囚人檻に入れられて移動させられているときに、健康診断と称して医者に扮したイガンが接近して将軍と次のような会話をする。

イガン「将軍」 将軍「生きていたのか」 イガン「かける言葉を考えていたのに 実際に会ったら頭の中が真っ白に… 情けない」 将軍「こいつ 言葉にしないと通じぬ関係か?これで十分だ」

イガン「将軍を救出すべきなのに 力がありません(泣)。緑豆の花が満開の世界をお見せしたいのに 正直 自信がありません。だけど 最善をつくして戦います」

将軍「緑豆の花は 既に何度も見た。」 イガン「はい?」 将軍「(蜂起のために集まった)参禮で、(決戦の)牛禁峠で、そして今、目の前にも」(イガン号泣)

イガン「たとえ見えなくても落胆しないでください。信じてください。いつでも、どこにいても、将軍の意志を継いだ緑豆の花が戦っていると」 

将軍「もちろんだ 信じておる だから喜んで逝く。」

そして一発の銃声がなる。遠くには別働隊のヘスンとポドゥリが「人即天」と書いた大幕をもって将軍を見送っている。それをみて緑豆将軍とともに連行されている側近のギョンソンがいう。「将軍、義兵たちが別れの挨拶をしています!」

 ヘスン絶叫「将軍 すみませぇぇーん!」

ポドゥリ 涙の絶叫「私たちが最後まで戦いまぁぁぁーす!」

側近ギョンソン「これで 安心して逝けます」 (囚人の隊列に頭を下げ見送るイガンやソン客主たち。)

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このボンジュンたちを見送る「ヘスンとポドゥリ」の涙の絶叫は、理想社会を求めて戦い死んでいった多くの者たちの声だった。それは悲しみではなく、生きるエネルーに満ちた声だった。自分もすぐに死んで将軍を追いかけるという思いだ。本作の脚本家・チョン・ヒョンミン氏の思いは、このヘスンたちの絶叫にあり、イガンの「たとえ一瞬でも人間らしく生きて、人間らしく死にたい!」という叫びにあった。

負けていくとしても、自分が不利になるとわかっていても、自分の選択への確信と仲間と未来を信じて選んでいく生き方。牛禁峠の戦いでの次々死んでいく者たちのうめき声と積み重なる死体の上に、次につながる希望を受け継ぎ生きていくという思いは、本作品に満ち溢れていた。

例えば上記以外にもチョン・ボンジュン(緑豆将軍)が次のようにいうシーンもあった。

(密告されて捕まり連行される時、嘆きうずくまる民衆の前に出たときに)「みんな 顔をあげよ 顔をあげて 我々を見るのだ。みんなの目に 涙のかわりに我々を焼き付けろ。 悲しまずに記憶するのだ。我々を覚えている限り 2度負けることはない。」( 民から「緑豆将軍万歳!」の声)

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私たちは、こうした各人たちの言葉のように、後に託して心置きなく死んでいけるという思い、そしてそれを受けて戦い続ける人々を知っている。「先に戦って死んでいったもの」に応答して生きていくという道を知っている。

 

  • 義兵となる道――獣にも劣る両班と戦うために義兵となる両班ファン・ッソクジュの生き方

インテリ両班であるファン・ッソクジュ(ファン進士(チンク))は、地元の名士であった。ボンジュンとは同門で親友だった。保守的な政治思想で開化(清の支配から離脱するために日本などに倣って文明化していく道)には否定的な考えだった。最初は階級意識が強く、両班以外を見下し、両班が社会を支配する身分制を正当化して傲慢な生き方をしていた。支配階級の思想に縛られた愚かな学者的エリートだった。そのため、妹の婚約者イヒョン(非両班)を妨害して策を練って戦場に行かせたりした。だが、日本の侵略を前にして、両班の誇りをもって「勤王兵(クナン)[2]」を結成して東学の第二次蜂起に合流する。自分がしてきたことの愚かさを悟っていく。

ファン・ッソクジュは言う。「(なぜ義兵として戦いに行くか) 真の両班になりたいからだ。弟子を戦場に追いやり、ヌクホン(勒婚)[3]された妹の苦しみにも背を向けるーー獣にも劣る両班と戦うためだ。戦わなければ先祖に顔向けができない。生きて帰ってきたら いい兄として生きる」

そのファン・ッソクジュは日本軍に負けて捕まって、(日本軍の手先になった)イヒョンに殺されるのだが、その最後の会話で次のように言う。

ファン・ッソクジュ「私は両班である前に朝鮮人だ。売国奴の声を聴くとすら恥ゆえ早く殺せ。」 

イヒョン「あの世で見ていろ。私が朝鮮を立て直すさまを」

ファン「ははは(笑)、どうかしている。お前にはこの地が朝鮮にみえるのか。」

イファン「そうだ 両班が滅ぼし、生まれ変わろうともがく国、それが今の朝鮮だ」

ファン「とんでもない。国が亡ぶときは内から滅びるという。確かに両班が朝鮮を滅ぼした。そして日本人に魂を売った輩が滅ぼした。ゆえに朝鮮はすでに亡びていたのだ。まさにおまえと私が亡国の元凶なのだ。」 

イヒョン「黙れー!」 

ファン「お前への謝罪はあの世でしよう。殺せー!パク・イヒョン!」

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ファン・ッソクジュの生きざまは、主流秩序の上位にいてひどいこともしたが、人生の後半で真実に目を向け反省し、路線を変更し、自分のあるべき姿に向き合い勇気をもって、「不利になる道」つまり、日本という勝ち組に従属しない道を選ぶのだ。彼に続く両班は少なかった。多くは、自分の身が大事で、「勤王兵(クナン)」の大義を捨てて保身に走った。王も日本軍の言いなりになって、途中から「蜂起しろ」と自分が言った東学農民軍を逆賊と規定し裏切るのだが、それを口実に両班は日ごろ言っていた建前とは乖離した、朝鮮という自国を守ることを捨てる道を選んだのである。「負け組の道」が見えたときに人の本性は現れる。

蜂起に集った人々

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ファン・ソクジュの妹、ファン・ミョンシムも、激動の時代の中で成長し、負ける道を選んでいく人だ。もとは良家・両班の女性なので「お嬢様」と呼ばれている主流秩序の上位のひとだったが、のちに主流秩序に抗して東学農民軍の蜂起に協力していく。

(イヒョンとの会話)ミョンシム「ペク隊長をどうするのだ」 イヒョン「東匪(トンビ)の運命はよくご存じでしょう」 ミョンシム「東匪と呼ぶでない。国のために戦った義兵だ。そなたたちには足元にも及ばぬ」

また、兄が義兵になって死体となって帰ってきて対面したときに「この世での願いをすべてかなえましたね」といって兄の生き方を肯定する。そして数年後 ソン客主の資金をベースに、子どもに無料で色々教える居場所「書堂」を運営して社会の民主化に努力していくのである。

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物語『緑豆の花』では、ファンのような上位の身分の者だけでなく、官僚や官軍兵士や多くの農民が義兵となって蜂起に参集していった。ペク家に居候していた使用人的なナムさんや官軍のイ・ギュテ領官や下っ端役人・オクセなどは、自分の今の身分を捨てて、義兵となっていく。第一次蜂起に対しては、それに協力した観察使様(ファンチョルサ)や郡守などの官僚も一定いたが、そうした「東学=東匪(トンビ)」に協力的だった官吏は罷免・排除されていく。

物語では、オクセという刑房(ヒョンバン)という下級官吏は、東学に協力的な上司に言われて、自分も迷いながら義兵になっていく。その決断は命の危険がある中でも国と人々のために、安定した官吏身分を捨てて、王から逆賊と規定された側に身を投じることなので非常に勇気が要る選択だった。「損な道」とわかっているのに。行ったら死ぬとわかっているのに。ペク家のおじさん(ナムさん)も 特に戦うような武闘タイプではないが、オクセを見て自分も義兵になっていった。皆に死ぬからやめろと止められても従わなかった。

こうした義兵になっていった人々は、「損な道」の代わりに何を得ていたのだろうか。それは「人即天」という、人々が平等という、民主主義のような世の中を夢見ることを得たのだ。圧政に抵抗し怒りを表出できる自由と解放感。時代の先取りを体現する人々だった。ボンジュンが「緑豆の畑の肥料となりたい」と願ったように、両班や日本に差別され抑圧され搾取されている人々が、民主主義の発芽前の肥料となっていく道を選んだのだ。

 

  • 日本に加担する道に進む人々

一方、その逆に、変化する主流秩序に合わせてどんどん日本軍に加担して自分の身を守ろう、出世しようと思うものーー王族、官軍、討伐隊、民保軍、両班等――も多くいた。

官軍のドゥファン領官は、戦闘で倒れている兵士たちが本当に死んでいるか、とどめを刺していくという、日本軍がしていた「確認刺殺」を、自分もしていって日本軍に媚びて出世していく人物だ。ホン・元使用人も、イファンに拾われて日本軍の手先となって逃亡している義兵を見つけては殺していく。東学農民軍で別動隊メンバーだったのに、危なくなると逃亡して仲間を裏切ったキム接長(キム・ギョンチョン)は、その後も裏切り続け、最後は潜伏していたボンジュン(将軍)の居場所を日本軍に密告したような歌切り者の道を選んだ。

その他、自分の身を守るために、義兵を密告した人々が多くいた。両班の一部は、日本軍が朝鮮を支配していく中で、それに抵抗するどころかその言いなりになりつつ、東学の義兵を討伐する民保軍をつくって義兵を虐殺していった。

古臭い身分制にしがみつき愚かにも差別抑圧に安住する支配層は、恥を忘れて、強い日本に媚びていくのである。

このように激動の時代、主流秩序に対してどの道を選ぶのか、その分岐点での選択が、その人の生きる質を表す。史実に基づきながらのフィクションにおいて、そうした人間群像を描いたのが物語『緑豆の花』であった。

 

  • おろおろと日本に従属する朝鮮支配層

1894年の時点でも朝鮮は、昔ながらの王政、そのもとでの両班がいる停滞・腐敗した階級社会であった。その時点での王と朝鮮政府を掌握していた閔妃(びんひ)は、日本軍が勢力を延ばして朝鮮に進出しそうな時、密使を東学勢力に送り、挙兵することを求めた。それもあって両班の一部も 国と王を守るために挙兵。挙兵の名目は「斥倭」(日本を排斥すること)。だが脆弱な支配階級は、民の蜂起を当初は喜んでいたにもかかわらず、 日本に支配されると一転、東学農民軍を東匪(トンビ)=暴徒と規定し、討伐軍を作り、日本軍とともに日本のいうままに弾圧に走る。日本(井上薫)は王に圧力をかけて、東学農民軍の蜂起に対して暴徒と規定するように迫り、それを皆に伝える布告文「暁諭文(ヒョユムン)」を書かせた。義兵たちを暴徒・逆賊と規定し、解散を命じ、生業に戻れ、そうでないと殺すという内容。それを出さないなら王室を東学農民軍の背後勢力と見なすと脅されて言いなりになる。自分の命大事さに、国、民族、愛国の民を売る裏切り。

日本に腰砕けで言いなりになる中、暁諭文をベースに、官軍も日本軍の言いなりになっていく。朝鮮兵による討伐軍がつくられ、朝鮮兵士は日本軍の虐殺に加担していく。日本の手先となって義兵を殺戮していく両班の組織=民保軍もひどかった。

暴徒と規定して民を裏切る王も、それにしたがって義兵を虐殺していく両班や官軍兵士たちもまさに主流秩序に簡単に従属していったのである。

王はもともとは日本の支配を嫌って、日本に対して蜂起せよと密書を送っていたので、その思いをくみ取った者たちは 暁諭文を見ても、これは日本に書かされただけで王の真意ではないとみた。したがって国を思うものは「暁諭文」がでても、義兵になっていった。

だが、時流を見るような両班は、暁諭文が出たことでもはや「勤王兵(クナン)」ではなくなったと言って義兵となる道から逃げた。これも主流秩序に乗った態度である。危機で不利な道も見えて立場が問われる瞬間に人の深い正体は出る。

だがそうなっても、物語『緑豆の花』において上記したファン・ッソクジュたちは10人以下という少数になっても、そしてもはや「勤王兵(クナン)」とも呼べなくとも、蜂起の集合場所サムレにいく。死ぬ覚悟で。損な道を選ぶ人間。負ける道を選ぶ瞬間。

暁諭文をみてもイガンは将軍にいう。「王様のために戦うんじゃない。自分にとって大切なものを守るためにです。自分、自分の家族、自分の村、新しい世界を見せてくれた執綱所などを守るために戦う。王様が何と言おうと、サムレ(蜂起の集合場所)に集まった人たちこそが、将軍の言っていた本物の義兵です。」

 

  • 再び希望を持ち直すソン・ジェイン   

東学党の乱の中で、生き方、そして負け方・死に方を見出した人たちの生きざま、それは一度は諦めたソン・ジャイン(ソン客主:商団・全州旅閣の跡取り娘)にも、もういちど理想に向かって生きる覚悟をもたらす。

ソン・ジャインは金持ちの商売人の父のもとで育ち、金もうけを悪いこととも思わず、今の言葉でいえば、封建社会に対して資本主義的な社会に変革していくスタンスの持ち主だった。それは時代の要請を受けていた上昇期ブルジョワジーの側面を持っていた。だが、現実には、軍商として侵略する日本軍に結果的に加担し、武器・弾薬・食料など日本との交易で急成長していった。徐々に東学農民の戦いに共感していくものの、敗北の中で絶望してしまったこともあった。

そのジャインはイガンの言葉と生き方を見て再び希望を持っていく。

決戦で負けた後の逃亡中に出会ったジャインとイガンの会話

ジャイン「もう終わったのよ」 

イガン「一度負けただけで終わるのか。俺たちは日本と戦う義兵だぞ。一回負けてもまた戦えばいい。終わりじゃない。これが始まりだ。」

イガン(敗戦後 散り散りなって逃げる中、将軍とも生き別れのなか)「将軍の代わりに望みを叶える。義兵を一人でも助けて 売国奴を一人でも殺して 将軍に知らせる。将軍がいなくても戦い続けることを。将軍が死んでも志は死なないことを。将軍は遠くに逝くんだ(まもなく死ぬ)、餞別は渡せなくても 希望はあげたい。」

***

ジャイン「絶望していたの。牛禁峠(ウグムとうげ)の死体を思い出すと 生きる自信がなかった。でもこの敗北が終わりでないのなら また始めればいいのなら そうする(また戦う)。私もまた始めるわ。もう行って 思い切り戦って」

そうしてジェインはイガンの母に言う。「私もやってみようかと。新しい仕事を。義兵を。正確には義兵の資金源に」

 

  • 緑豆の畑の、一握りの肥やしになって死んでいく

物語『緑豆の花』はこのような「負けるものたちの幸せな生き方」を描いたものだ。

この物語のベースとなった史実・東学党の乱を率いたリーダー、ボンジュン(緑豆将軍)自身がもっていた世界観こそ、ここまで述べてきた「負ける生き方」そのものだ。

死刑が執行される最後のやり取りで、側近が「兄貴、お供できて光栄でした。一緒に死ねてさらに光栄です。ただひとつだけ“人即天”の世をみずに逝くのが心残りです」といったことに対して将軍は言う。「我々は甲午年(1894年)にすでに見た。目を閉じてみろ。そうすればみえる」「はい」(過去の民衆の立ち上がる数々のシーン、チョン・ボンジュン万歳という人々)

 また、イガンが将軍の骨を緑豆の畑に撒きながら将軍の言葉を思い出しているシーンでの将軍の言葉。

将軍「ムジョンで布告文宣布するとき、緑豆の種を撒いた。その種が芽を出し花を咲かせ 種が風に乗って飛んでいく。この村からあの山へ あの谷間から子の小川に…そうしてこの地が緑豆の花で埋め尽くされる日に 一握りの肥やしになって死にたかった」

***

蜂起・反乱・一揆などほとんどは敗北で終わる。かかわったものたちは殺される。にもかかんらず立ち上がる選択をする人々という生き方を、理解できないひとたちがいる。だが確実に理解できる人たちもいる。

それを信じているからこそ、そしてそのように戦ってきた先人たちが実際にいると知っているからこそ、この物語『緑豆の花』は作成された。そして視聴された。そして実際の自分の生き方に反映させて、今日、そのように生きている人たちがいる。将軍やイガンたちにはそれがみえていることだろう。

 

 

 

 

[1] イバン:下っ端役人

[2] 国王と王宮を守る軍隊

[3] 好きでもない人と強制的に結婚させられるもの。物語『緑豆の花』ではミョンシムは死んだ若い義兵と結婚ということにされた。