ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

メディアの問題に向かうドラマ『ピノキオ』

 

 

韓国ドラマ「ピノキオ」ではメディアのダメさの問題(主流秩序性)を正面から扱っている。

 

ひとつの事件が起こる。興味本位で寄ってたかって犯人探しや犯人批判を行う。国民を煽り、怒りを一定方向へ誘導する。

しかし時間がたつとすぐに次の問題に向かう。少し事件から時間がたって真実が明らかになっても、その時にはもう皆の関心はそこにはないので、真実は印象に残らない。初期の報道が間違いでも問題にならない。

 

とくにオリンピックの時期になると人々の関心はそこに向く。メディアは『国民が見たいものを提供する』という大義名分でそればかりを扱う。結果的にほかのニュースは後景に退く。

「皆が見たいニュース」が「見せたいニュース」「見せるべきニュース」「報道すべきこと」よりも優先される。

時には権力者が意図的にメディアを使って真実を隠すためにオリンピックなどを扱う。

 

「ピノキオ」はこの問題を真正面から扱う。13年前に自分に起こって、家族が崩壊した偽装報道問題と、現在においての同類の隠蔽・謀略的な動きを重ね、そこに恋愛関係・家族の愛情問題を絡めて構成される物語だ。

 

つまりこのドラマでは、メディア問題が正面から扱われている。

まさにメディアの主流秩序問題、スペクタクル社会の問題だ。人々を興味を引く「見せもの」でコントロールする。そして報道に責任を取らない。時には権力に利用される。

 

それでいいのかと問うドラマ。そこに絡んで愛の在り方が深い。恋人との関係でも、友情でも、片思いでも、親子/家族愛でも。簡単に引っ付けばいいのではない。深い深い、長くつながる、愛だ。簡単に引っ付かない、相手のための愛。

 

日本のテレビドラマがあまりに社会性がなく、愛も底が浅くて恥ずかしくなる。

 

「オトナ女子」の女性は全然大人になっていない、ジェンダー従属のダメ丸出しのこども人間だし、「5→9」の恋愛は、山下君=お坊さんはストーカーだし、石原さとみは好きな人の前ではだめだめ女子だし、はっきり意見は言わないし、強く言い寄られるとなびく古い女性。やはり主体性も自立もない。現代の「101回目のプロポーズ」でストーカー的な恋愛を肯定するレベルのものだ。