ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

『緑はよみがえる』

 

エルマンノ・オルミ監督の最新作『緑はよみがえる』という映画を見た。(5月中旬から公開予定)

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第一次世界大戦下でイタリア軍オーストリア軍と雪深い山奥で塹壕を掘ってにらみ合っている状況を描いた映画だ。場所は塹壕のなかだけ。外に攻撃するとか移動するかといった戦争映画ではなく、ただただ派手なこともない、静かな塹壕の悲惨な生活が描かれる。私も最初、退屈そうな映画だなあと感じた。


だが後でじわっと伝わってきた。
現場を知らない上部の命令で、反対があるにもかかわらず、命令だといって作戦が実行されるが、若い兵士が簡単に無駄死にする現実。


空腹で寒くてただ耐えるしかない状況で戦意は失せ、ただ降り注ぐ砲弾に逃げるしかなく、無駄に若い兵士が死んでいく。撤退命令で塹壕を後にする兵士には満足感はなく、仲間の死を胸に若者は老いてしまう。戦争の現実は愚かしい。

 

だがこんな愚かしい戦争にも徴兵されて参加する兵士たちを見て、人間とは悲しいものだとも思った。戦争に反対したり徴兵を拒否するのでもなく、ただ唯々諾々と徴兵に従って前線に送られ命令の下で無駄に死んでいく。

 

唯一、希望もあった。大尉が、上層部のひどい命令に抗議して、この任務は犯罪である、私は尊厳を取り戻すといって軍位を返上するのだ。これは主流秩序に抵抗する選択をしたということだ。

 

今の日本でも、今後のひどい戦争体制時でも、この大尉のような選択をする自由は誰にでもある。そこに態度価値が生まれる。


メルトダウン文書を5年隠すとか特定秘密保護法の不適切な秘密指定をチェックすることなど何もできていないなど現実はひどいことだらけだが、だからこそ私たちがどういう基準で生きるかが問われる。

非暴力は暴力におおむね負ける。その中でどう生きるのか。

 

映画は最後に「人が人を赦せなければ人間とは何なのでしょうか」という問いで終わっている。

許せないで勇んで北朝鮮、中国、韓国と軍事的に対抗するのだ、ヘイスピーチだという単純な暴力主義の輩が増える日本社会で、「人を赦す」とは何なのか。暴力に対抗するとは何なのか。

 

私はそれに対して、「逃げる」ということを対置した。見ていただければ、幸いです。


参考:『戦争に近づく時代の生き方について―――戦争/ナショナリズム/暴力に対する、非暴力/主流秩序の観点』
(主流秩序論NO5、2016年3月、電子書籍Kindle版、アマゾンで購入可能、114円)