ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

根の深い木

 


「宮廷女官~チャングムの誓い」「朱蒙(チュモン)」「善徳女王」「ソドンヨ」「馬医」「トンイ」などの韓国歴史ドラマでは、改めて権力者の在り方を考えることができた。いちばん記憶に強く残っているのが、ミシルだ。敵ながらあっぱれの深さがあった。
その他のドラマでも、「悪役」とされる側の、権力に執着する者にある、その深い覚悟や哲学には一理あるな、それが現実だろうなと思えるものがいくつもあった。権力とは握れば、離してはいけないものであり、離せないものであり、そのために多くを犠牲にするものであり、悪でも悪でなくなるものなのだ。権力を失った時、悪になる。


韓国ドラマ『根の深い木』で、王と対抗勢力「密本」の指導者が意見を闘わせるシーンがある。

王が民に字を与えることで貴族や官僚の特権を掘り崩していけるというと、密本指導者は、政治的リーダーには「民」(庶民)のために決断してよい結果を残す責任があるのであって、民に決める権利を与えていくのは、政治リーダーが自分の責任から逃れようとしているだけだ、卑怯で腰抜けだと批判する。


王がおまえたちは既存の支配階級の利権を維持しようとしているたけだというと、密本指導者は、「民」(庶民)は愚かで欲望に負けていくだけで、儒教にのっとった道徳的な決断などしない。きれいごとをいうな。科挙という試験を通ったエリートが支配することが結局民のためになるのだという。

 

この論争は、いまの社会の政治を、エリートが指導していくべきか、民衆が主体的に政治を行う道を追求するべきかという話につながる。

簡単に後者がいいといえないのは、大衆は時には欲望のためにひどいことをするし、ネットにあふれる悪意のように他者を攻撃する現実があるからだ。左翼だって前衛党による指導・誘導が現実的と考える長い歴史があった。

インテリや教師というものには、「教育=答えを教える、啓蒙」のように考える傾向があり、その背景には、エリートが指導すべきという意識が隠れている。そもそも勉強ができるほうがいい、頭が賢いほうがいいというのだって、危険な「同種のにおい」があるではないか。

今の政治家や官僚、経営者の多くは、意識するかしないかにかかわらず基本はパターナリズムだし、エリート主義だ。だからこそその裏返しで、口先で大衆をだますようなことを平気で言える。大衆など操作する対象と思うからこそ、選挙の時に、程度の低い言葉で操るし、メディア操作やCMで宣伝するのも大衆操作に過ぎない。


で、実際、そのような政治家やCM、メディアに操作される大衆がいるから困るのだ。
いちばんダメなのは、自分の中に、そうした主流秩序に基づくエリート主義がありながら、自分はそういう考えでなく、庶民と同じレベルの人間で、国民は偉い、民主主義はよい、エリートでなく国民がいいバランスで政治家を選んでいるし、消費者は賢いし、だから世の中はうまく回っていると思っている人だ。


大衆を馬鹿にし操作しながら「バカにしていない」と思える能天気な人が多い。今の日本は民主主義でいい社会だと思える人たち。
まあそれが、主流秩序に無批判的であるという状態なのだけど…。

 

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話を「根の深い木」に戻そう。
王が、庶民に字を与えることで自分で決めていける社会の主人公になれるという、今の民主主義をにおわす方向で発言すると、視聴者は一見、王が正論を言っているように思う。


だがドラマを見ていくと、実は王は、字を作るという自分の興味、歴史に名を残す名誉というようなものを求めていたのではないか、王は本当は庶民など信じておらず、愛してもいないのではないかと自問しないといけなくなる。
民のために本当に良い結果を残すのか。偽善者だという批判が当たっていないと言い切れるか。

少なくとも王という特権階級のものが言うことにどれだけのリアリティ、民主主義性があるというのか。効果がどうなるかわからないがやってみるというのでいいのか。

ドラマを見ていて、本当に考え出すと、悪役の側の意見にも耳を傾けるべき側面があると思えてくる。
結局庶民が苦しむことになる、というのは、本当によくあることではないか。

 

庶民の道徳レベルがあがるのではなく、欲望のふたを取り払って欲望の暴走をもたらすというのは、特にむつかしい問題だ。正しいリーダーが導いてこそ良い世の中になるというのは、今でも主流の考え方ではないか。そして今は欲望のふたが開いてむちゃくちゃな面があり、またそれが商業化され、人々は操作されている。Iphonの新製品やポケモンGOに群がる人々。米国大統領選トランプ候補に熱狂する人々。

 

だからドラマの中のこの論争には迫力があった。どちらも当時の現実のなかでの、真実の一面をついていた。だからこそ、自説を主張したほうも、相手方の主張に正しい面があるとおもい、悩み、動揺する。本気で考えようとする。
今の安倍首相(自民党)には全くない、真摯な政治家の姿勢である。


ドラマでも、「蜜本」指導者が、犬が言葉を理解すると、かえって犬を支配しやすくできるといっていた。字の普及はそのようなものになるだけだと王を批判する。犬に言葉を教えると、かえって支配しやすくなるというのは、今のメディア支配状況・ネット情報状況によく適合する。情報がいっぱいあって賢く選択しているようで、実は、支配層の考えを吹き込まれて信じ込んだ大衆が保守化し、集団的自衛権という名での戦争体制化や企業減税正当化のトリクルダウン論など支配層の考えを、自分の考えのように述べて、支配秩序を支持している。


今、メディア操作で簡単に大衆は、トランプや安倍や橋下などに喝さいを送るという状況があるので、「大事なのは民主主義だ!」というだけではことは解決しない。ヒラリークリントンをよく知りもしないで、人気がないといってけなす。昔は中国に親近感を持つ人が多かったが、今や中国が嫌いという人が8割を超す状況。大衆は簡単に操作される。

 

この「エリートが指導していくべきか、民衆主体でいくべきか」という問題は、長期的には王の言う路線が必然であった。しかしそれは長期的な話で、しかもそれは楽観的可能性である。繰り返すように、大衆が愚かな選択をする可能性はつねにある。


にもかかわらず、私が確立した自分の生き方のスタンスの観点から述べるならば、「大衆に権利、権力を渡したらろくなことにならないからエリートが統治すべき、という論」は、正しくない。なぜならエリートの支配階級は必ず腐敗するからであり、たとえタテマエでも理念、目標として社会の下層の人の権利を守るような社会ということを中心軸におかねばその腐敗をチェックできないからである。

マルクスはルンペン層はあまりに貧困であるがゆえに簡単に悪(支配層)に買収され操作されるとして批判したし、社会変革の主体として期待しなかった。
ただ、これはじつは労働者階級にもあてはまる。


しかしどの階級の人であろうと、悪に買収されない人もいる。高貴な生き方をするひとはいる。主流秩序に抵抗する人はいる。環境や立場や過去のせいにするのは逃げであり必然ではない。フランクルが言ったように、収容所でも人間らしい態度価値を生み出した人はいたし、ガス室でも祈る人がいたし、収容所のガス室に、代わりに入る人がいたのが人間だ。虐待する側に回ったユダヤ人がいた事実もあるけれど。


ガス室を作る人間と、ガス室で祈る人間がいる。支配側のドイツ人の中にも両方の人間がいる。被支配側のユダヤ人の中にも、両方の人間がいる。

そこから希望を見出すのが、私たちの立場だ。民はおろかで操作され、欲望の渦に巻き込まれもするけれど、それでも、素晴らしい人もいるし、それが増えることもある。
王でもなく、蜜本側でもない、次の時代の立場というものがまた出てくる希望がある。


今の時代からいえば、時代の制約がある中で、王の言い分には、正しい面があった。反対側の言い分にも正しい面があった。双方、足りない面があり、一面的であつた。権力が腐敗することを意識し、エリート主義を脱していこうとするなら、人民主権を中心理念に置きつつ、不断にその理想状態をめざして、教育―――自分の頭で考える人々を増やす教育、リテラシー教育、権利が侵害されたときに適切な対応ができる力を養う教育、ナショナリズムにならないような教育、闘う力をつける教育、エンパワメント教育、メディアによる権力チェックを支えるような人を増やす教育、一言でいえば主流秩序に巻き込まれない主体を作る教育―――を続けていかねばならない。それは学校だけでなく社会運動やメディアを通じてなされなくてはならないだろう。そして、様々な人によるメディア自体のチェック、多元的な相互チェック、それをくみこんたシステムにすることが必要だろう。

 

国民主権、人民の主権といっても、実際はエリートが支配しているようなことはいくらてもある。また、昨今の情報社会においての大衆の暴言、ヘイトスピーチ、俗物化、低俗化という現実もある。選挙のスペクタクル化、ポピュリズムの蔓延、ナチスをはじめとして歴史的に極右やナショナリズムが大衆を巻き込んだ事実はたくさんある。

「善人とは、悪人になる状況になっていない者のことである」「智慧を付けた民は、いいように、たやすく支配される。人の言葉を理解する犬のように。」
そうかもしれぬ。だがそうはならないという方向で闘い続ける人々も不断に生まれてくるであろう。そうして社会は変化していく。ある時は勝ち、ある時は負ける。それが歴史である。
そして、民衆側、民主主義側、反主流秩序の側は、また戦えば良いのだ。

 

蜜本リーダーは死ぬ前に言う。「今は王の主張が正しいと願うしかない」
彼が民によい世の中を願ったことに疑いはない。
で、今の政治家、学者、経営者。エリートたちに、蜜本リーダーの気概はあるだろうか。

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「根の深い木」で、主人公の男(カン・チュユン=トルボク、復讐だけを考えてきた下層階級奴婢の武士)は、もはや復讐ではないと分かった時点で、幼馴染(ソイ)と結婚し畑を耕し子供を育てる穏やかでささやかな生活を夢見る。だが、その幼馴染の彼女は、自分の苦難の半生を無駄にしないためにも、自分のトラウマに対処するためにも、死んだ親のためにも、庶民が幸せになる社会を願い、王の文字創設計画に自分の人生をかける。

 

愛が相手(彼女)の夢の実現を応援するものなら、彼女の願いの実現を支えようとして、その男(カン・チュユン)は「自分たちのささやかな生活」に直ちに入ることをあきらめ、権力闘争の駒となる。

 

そしてその彼女も、男も、その夢の途中で力尽き折れていく。
その人生は、その最期は、幸せだったのだろうか。
夢の達成が幸せなのか、夢を見て走っていくプロセスが幸せなのか。

革命などそもそもないかもしれぬが、革命が達成されることを目指すのか、永久に達成は来ないがそれでいいのか。永久革命・・・。アナーキズム。現実の生活。

 

そのことを合わせて、私なりの「答え」を書いたのが、主流秩序論。

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「善徳(そんどく)女王」とでも政敵ミシルは、尊敬すべき凄く深い思想を一部持っていた。「根の深い木」でも、善人とは悪人になる状況になっていないものだとか、権力とはそれ自体が目的だなどと、権力というものを考えさせる発言があった。
チッソを批判していた被害者・患者側の人が「もし自分がチッソ社員だったら」という問いを立てた。金もうけというものに取りつかれた悪夢を描く「マイダス」は、裏側から自分の生き方と主流秩序を考えさせる。人々がいかにおろかであるかをおもろおかしく描く韓国昼ドラ系「いとしのクムサウォル」の引っ張る強さ。

 

「根の深い木」で、ソイが死ぬシーンでは泣けた。
韓国ドラマは日本の浅薄なドラマよりずっと面白い。