友人に「無為而無不為」という言葉が面白いと教えてもらった。
それで少し調べたら、以下の様な流れの中の話だった。なかなか深い話だと思った。
『老子』第48章
学を為せば日に益し
道を為せば日に損す
之を損して又損し
以って無為に至る
無為にして為さざる無し
天下を取るは常に無事を以ってす
その有事に及びては
以って天下を取るに足らず
∞∞∞∞∞∞∞∞∞
<解釈>
学びを為せば、日に日に(知識・作為技巧)は増加し、
道を為せば、日に日に(知識・作為技巧)は減少していく。
これを次第に減らしに減らして無為に至る。
無為に至れば、総てが自然に為されていく。
天下を取る(治める)には、常に無事(戦の無い)を以ってする。
有事(戦の有る)に及んでそれで以って天下を取ろう(治めよう)
としても、充分に果たせるものではない。
http://www.eonet.ne.jp/~chaos-noah/tao/tao_48.htm
より
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
「無為にして為さざる無し」ということは、無為こそできないことはない、何でもできるということだろう。何か技巧的なことをしないような極地こそ最も徳が高いということでもある。「道」を学べば、分かれば、身に着ければ、知識的なこと(作為技巧)からどんどん離れていく、ということにつながっている。
あえてここから僕の浅い理解を書いてみると・・、主流秩序を上昇(適応)するような力をつけるのでなく、逆に、名声とか目立つとか、口がうまいとか、目に見える知識とか成果とか、巧言令色とか、家などの所有物とか、攻撃的行動とか、そういうものから離れていくほど、「道」を進める。もっとも静かに、無名に、無為になるほど、主流秩序のなかの弱者になるほど、それは物が見えるということであり、何かスピリチュアルなことをなすことができるということ。周辺、端っこから見えるものを大切にできるかってこと。
それを応用して国の統治で言えば、力(軍事、謀略)でなすのではなく、もっとも静かに「戦の逆」で行くことで、まともな統治に至れるということ。
ぼくにとっては統治は遠い話なので、口角泡を飛ばしたり勢いよく話したりして相手を説き伏せるようなことではなく、論争的なことではなく、
ただ自分の道を静かに進むだけで、あるいは存在するだけで、何かを伝えられるようになることだろう。
だがそれには程遠い。
自分が非暴力の存在になること。これもむつかしい。
少しは近づいていると思うが道は遠い。
主流秩序に対して、無為とは、物質的なことをなすことから離れること、主流秩序から離れるということであると思う。だがその具体化と実践はむつかしい。
まずは小さな、できることから。