ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

辛淑玉さん、「ニュース女子」沖縄ヘイト番組批判

 

辛淑玉さんが、沖縄タイムスに寄せたもの、ネットでみたので、ここに紹介しておきます。私はもちろん彼女と立場、感覚を同じとするものですが、いまの私なら、
「いまこそ、マジョリティーが矢面に立って闘わなければ構造は変わらない。自分に火の粉が降りかからない限り動かない者が多数派の社会に、未来はないのだ。」
とはかかない。

そういう言葉は自分には出せない。

 

主流秩序論で社会を見ている私は、マジョリティーが矢面に立って闘うわけがないとおもっている。自分に火の粉が降りかからない限り動かない者が多数派だとしっているからだ。もちろん私はあきらめたり無気力になっているのではない。主流秩序の構造の中で、現実の大衆、多数派の現実の中で、私は一部でも一人一人が変わることに希望を持っている。


私の主流秩序論を知らない人がほとんどだからわからないだろうけれど、
もし知ってくれれば、一定の人は賛同してくれると思う。


以下一言だけ書いておくと、主流秩序が従来の論と違うのは、
「社会的弱者、マイノリティは社会構造の問題(社会的差別、排除)だから支援したり寄り添ったり包摂することが必要」ということを批判的に反省した論だからだ。
当事者が「包摂/支援してもらってありがとう」と思うか。頼んだか?そこに多数派、主流秩序上位者の傲慢さはないか。私は学生時代、障がい者問題でこのことを学んだ。


そこから、多数派こそ問題ではないのかという視点を得た。
社会的差別の問題、私自身の差別構造加担性と被害者性、自分の解放と幸福等を総合的にとらえる視点を獲得するには、主流秩序の観点が必要であった。

主流秩序のひどい構造の「上」に行きましょうとか、この構造に入れてあげるよというのでいいのか。違うだろ。包摂するといっている「社会、組織、多数派の自分」の方に問題があるじゃないか。ワークフェアといて働くのはいいことみたいなところの問題もここにかかわっている。

 

社会運動でも、この点で明確にわかっていないがゆえに、勝ち組・多数派を目指さすもの、能力主義的なものがあった。その活動家自体が、自分の加担性・欺瞞性に気づいていないような問題があった。(いいこと言って、自分は社会的地位が高く高収入で子供は高学歴の生活)。身近なところでの暴力・権力性に鈍感(偉そうな人)というのはその典型。


1人から、自分の主流秩序との関係を考えて、生き方を変えていくようなところに希望を私は持つ。個人加盟ユニオンで自分で戦う人の在り方、DV加害者の変化に希望を見ている私が、そこにつながっている。

 

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 東京MXテレビの番組「ニュース女子」に対する辛淑玉(シンスゴ)さんの見解

 

 1月2日に放送されたTOKYO MX「ニュース女子」は、とにかくひどかった。

 見ていて、こみ上げる怒りを抑えるのがこれほど難しかった経験はかつてなかった。胃液があがってきて、何度も吐いた。その後も、何げない会話の中で突然涙が出てきたり、幾日も眠れぬ夜を過ごし、やっと眠れたと思えば悪夢にうなされた。

 

 私が、この番組の放つ悪意に冷静に向き合えるようになるまでには、時間が必要だった。友人や報道陣からの問い合わせに簡単な返信すらできなかったことを、この場を借りておわびしたい。
 いま、可能な限り、私の思いを言葉にしてつづりたいと思う。

 「ニュース女子」の手口は、基地反対運動について、徹底的にニセの情報を流すというものだ。 現場にも行かず、当事者にも取材をしない一方で、反基地運動によって迷惑をこうむっているというニセの「被害者」を登場させる。そして、「沖縄の反基地運動はシンスゴという親北派の韓国人が操っている。参加者はカネで雇われたバイトで、その過激な行動で地元の沖縄人は迷惑している」というデマを流して視聴者の意識を操作する。

 

 これは、沖縄の人々の思いを無視し、踏みにじる差別であり、許しがたい歪曲(わいきょく)報道である。また、権力になびく一部のウチナンチュを差別扇動の道具に利用して恥じない「植民者の手法」でもある。

 多くの報道で、「ニュース女子」が取材もせずに番組を作ったことが指摘されていたが、彼らは取材能力がないためにネトウヨ情報を検証もせずに垂れ流してしまったのではない。この番組は、「まつろわぬ者ども」を社会から抹殺するために、悪意をもって作られ、確信犯的に放送されたのだ。

 

 だから、間違いを指摘されても制作会社はコメントを拒否し、MXテレビは「議論の一環として」放送したと開き直っただけだった。公共の電波を使った放送を担う企業としての体をなしていない。

 為政者にとって、自分になびかない者の存在は、自らの優越性を否定されるため最も憎い存在であり、だから国家体制を批判する者には「非国民」のレッテルを貼り、他の国民が寄ってたかって攻撃するよう仕向ける。その手先としてメディアを使う。そこにあるのは「愚かな国民など、この程度のことを吹聴しておけば簡単にだませる」という国民蔑視だ。

 

 国家権力の素顔を見抜き、闘いを挑んでくる「生意気な非国民ども」に対しては、ただつぶすだけでは飽き足らず、嘲笑して力の差を見せつけた上で、屈辱感を味わわせようとする。「ニュース女子」が、年始特番の、しかも冒頭で私を名指しして嘲笑したのは、私が怒って抗議してくると想定した上でのことだろう。感情的になって抗議してくればそれを笑い飛ばす、抗議してこなければ、「抗議してこないのは、報道内容が正しかったからだ」と宣伝材料に利用できる。どっちにころんでもおいしいというわけだ。

 私も、沖縄の人々も、平和を希求する者は、一方的に攻撃されているのに、それが被害であること、ヘイト・スピーチであることを、被害者の側が実証しなければならないという理不尽な立場に立たされる。


私は、毎日仕事をしながら、家族の介護をしながら、シェルターを運営しながら、怒りを抑えて問題を冷静に見つめ、膨大な時間を費やしてBPOに提出する文書を書かねばならない。


 その必要がなければできたはずの、睡眠時間や、家族・友人との大切な時間、幸せ、楽しみといった人生本来の意味をも、一方的に奪われている。相手を嫌でも闘わざるを得ない立場に追い込み、休息する権利、声を上げる権利を奪うのは、それ自体が人権侵害なのだ。そしてこれは私だけのことではなく、沖縄の人々が置かれている状況も同じだ。

 

 私はなぜ、在日への差別だけでなく、さまざまな差別に声を上げるのだろうか…。
 時に、自分でも不思議に感じる時がある。お金も、時間も、体力も、あらゆるものを犠牲にして、どうしてここまでやるのかと。もっと楽な生き方ができたはずなのにと言われたことも、一度や二度ではない。

 確かなのは、被差別の歴史に共感する胸の痛みがあるということだ。
 歴史や文化は異なっているが、ウチナンチュも在日朝鮮人も、日本の国家体制によって植民地支配を受け、人間としての権利を保障されず、排除・差別されてきた。

 

 ウチナンチュは日本国籍を付与された一方で島ごと奪われ、沖縄戦では「国体」や本土の日本人を守るための捨て石にされた。敗戦後は膨大な米軍基地を押し付けられ、いまも命・生活・人間の尊厳など多くを奪われ、抑圧されている。

 朝鮮人は、頼んでもいないのに帝国臣民にされ、日本兵の下請け・弾よけとして最も危険できつい労役につかされた揚げ句、敗戦後は日本国籍を一方的に剥奪され、国籍がないことを理由に戦後補償の対象から外され、「外国人」として排除、差別を受けてきた。

 

 経緯に違いはあっても、植民地支配の対象とされてきた点では同じ位置に立たされている。
 そして、私は「殺せ」と言われ、沖縄の友人たちは「ゴキブリ」「ドブネズミ」「売国奴」「土人」と言われ、まとめて「反日・非国民」とくくられている。沖縄で起きていることは、私にとって他人事ではないのだ。

 彼らの痛みは私の痛みでもある。在日としてこの国に生を受けた以上、見て見ぬふりは許されないと私は思っている。

 

 「どんな発言にも表現の自由はある」と「中立公平」を装い、サイレント・マジョリティーの位置を確保して高みの見物(これこそが特権である)をする人々の沈黙によって、「在日」も「オキナワ」も、孤立無援の状態で表現の自由を奪われている。

 差別と闘う責任は、被差別の側ではなく、差別構造を作り出し温存する側にこそある。この国の主権者は、自らの社会から差別をなくすために払う努力を、主権を奪われたままの在日に押し付けてはならない。同様に、沖縄に押し付けてもいけない。

 

 新しい基地をつくらせないという闘いは、ヤマトンチュ自らが政治の中枢部でなすべきであり、そうしなければ根本的な解決には至らない。

 いまこそ、マジョリティーが矢面に立って闘わなければ構造は変わらない。自分に火の粉が降りかからない限り動かない者が多数派の社会に、未来はないのだ。

 

 デマを流し、政権の先兵として憎悪扇動を行うこの番組を、決して許してはならない。あらためて、それだけは言っておきたい。


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