ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

メディア、慰安婦問題

 

●今村復興相が暴言を吐いたときに、食い下がった記者(西中誠一郎氏)はマトモだったが、マスメディアではこのフリー記者に少し批判的な意見もあって、ほんとうに鈍感。日ごろなにも食い下がらない記者ばかりの状況こそ全体主義的で異様なのに。

 

西中誠一郎さんは、韓国の大統領選に関して、日本のマスメディアが野党で有力候補の文氏を「反日」と表現していることに対して、
西中さんは文氏は「反安倍政治、反自民党、反歴史修正主義」というべきとツイッターで発信しているという。


私がすでにブログで同じ問題(反日といういいかたのおかしさ)に言及していたのと同じ感覚。

元外務省の天木直人さんがブログで、フリー記者だからマスメディアの扱いが甘いといっている。
http://kenpo9.com/archives/1224

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慰安婦関係

第1回日本軍「慰安婦」博物館会議が開催されました。
そして、第2回目の会議も南京で実施するになったそうです。

日本軍「慰安婦」の歴史を伝える博物館の中には、その理念や思想においてはいろいろな違いがあるが、信頼の上に話し合っていく場。

 

第1回 日本軍「慰安婦」博物館会議  宣言文

世界で初めての日本軍「慰安婦」博物館会議が、韓国、フィリピン、中国、台湾、米国からの参加を得て、加害国の日本で開催されました。

1991年8月14日に韓国の金学順さんが「慰安婦」被害者として名乗り出て、日本政府の責任を問い、長い沈黙の歴史が破られました。その後、次々と名乗り出た被害者の証言と歴史研究の発展により、日本軍が侵略・支配したアジア太平洋のほぼ全域に性奴隷制度を実施していた事実が明らかになりました。

この運動の中心には、いつも勇気をもって声を上げてきた被害女性たちがいました。私たちは、言葉にできないほどの性暴力被害に苦しみながらも、あたたかく強いサバイバーの女性たちから、人間の尊厳と勇気とは何かを学びました。

私たちは、日本政府がこの重大な女性の人権侵害に対して責任を果たすよう活動を続けてきましたが、日本政府は過去の歴史を書き換え、忘却しようしています。
このようななか、「慰安婦」被害の実態とその歴史を伝える博物館の役割は、次世代への平和・人権教育という目的だけではなく、被害女性の被害回復のためにも極めて重要になってきました。

1990年代後半から設立されてきた日本軍「慰安婦」博物館は、運営主体や規模は様々ですが、日本軍「慰安婦」として被害を受けた女性たちの記憶を継承していきます。そして、日本軍「慰安婦」博物館会議は、戦争のない、女性の人権が守られる平和な世界をつくるために、これからも連携して活動することを宣言します。

2017年4月1日
第1回 日本軍「慰安婦」博物館会議 参加者一同
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報道

【日本】
●東京で「慰安婦」博物館会議 韓国や中国から関係者参加 朝日新聞
http://www.asahi.com/articles/ASK423T4GK42UTIL007.html


「第1回日本軍『慰安婦』博物館会議」が1日、東京都千代田区で開かれ、慰安婦問題の資料を展示するアジア各地の博物館や歴史館の関係者が集まった。
 韓国ソウル近郊の「ナヌムの家」や、中国・上海の「中国『慰安婦』歴史博物館」のほか、台湾、フィリピンで展示施設を運営する関係者が開館の経緯や目的、現状を報告した。


 参加者は「『慰安婦』被害の実態と歴史を伝える博物館は、平和・人権教育だけでなく被害回復のためにも重要。被害女性の記憶を継承し、戦争のない、女性の人権が守られる平和な世界のため連携します」と日韓中英の4カ国語で宣言文を読み上げた。
 ユネスコ国連教育科学文化機関)の世界記憶遺産(世界の記憶)に旧日本軍慰安婦資料の登録を申請した日中韓など8カ国・地域の団体でつくる「共同登録国際委員会」や、米国で慰安婦像・碑の建立を進める韓国系米国人らのグループも参加した。

 


●【歴史戦】韓国YMCAで「慰安婦」博物館会議 wamなどの施設が連携を宣言
「日本軍はアジアほぼ全域で性奴隷制度」 産経新聞
http://www.sankei.com/world/news/170401/wor1704010050-n1.html

【韓国】


●世界の慰安婦博物館が初会議「被害者の声、伝え続ける」 ハンギョレ
http://japan.hani.co.kr/arti/international/26946.html

英文:http://english.hani.co.kr/arti/english_edition/e_international/789137.html


●「二度と繰り返されてはならない」東京で慰安婦博物館会議 朝鮮日報
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/04/02/2017040200790.html

●「二度と繰り返されてはならない」 東京で慰安婦博物館会議   聯合ニュース
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2017/03/28/0200000000AJP20170328001000882.HTML

 

【中国】
●第1回「慰安婦」博物館会議、東京で開催=日・韓・中・米など200人出席、共
同声明採択―中国メディア
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20170402/Recordchina_20170402010.html

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李順徳(イ・スンドク)ハルモニがなくなる

2017年4月4日午前7時30分、日本軍「慰安婦」被害者の中で最も高齢だった李順徳(イ・スンドク)ハルモニが永眠されました。
享年100歳でした。

1918年に全羅北道金堤(キムジェ)で生まれたハルモニは、1934年17歳の時に就労詐欺によって慰安所に連れていかれて以降、満州や上海を転々としました。


日本軍による暴力で頭や胸、臀部などを靴や足で蹴られたり、刀による傷を受け、後遺症で目がよく見えないなど、体と心に負った深い傷は生涯ハルモニを苦しめました。

1945年、解放後に韓国に帰ってきましたが、両親は病で亡くなっており、以降、家政婦などをしながら生きてきました。


1990年以降、「慰安婦」被害者の名のり出によって「慰安婦」問題が社会に提起されると、自らも太平洋戦争犠牲者遺族会を通じて申告、1998年には関釜裁判の原告として日本政府を相手に訴訟を起こし、法廷で証言するなど、解決のために行動されました。

李順徳ハルモニのイメージフラワーは寒い冬にも枯れない椿で、「椿ハルモニ」とも呼ばれました。


ハルモニは麻浦区にある「慰安婦」被害者の共同施設である「平和のウリチプ」で暮らしていましたが、2014年6月からは高齢のために近くの療養病院に入院されていました。
ソウル西大門区(ソデムング)の延世大学セブランス病院葬儀場に置かれた焼香場には市民や学生、与野党議員、ソウル市長など多くの人々が訪れ、お見送りをしました。
6日午前に出棺予定です。
韓国の生存被害者は38名となりました。

2017年4月6日

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以下は、韓国挺身隊問題対策協議会が公開したイさんの略歴です。(ハンギョレ新聞より)

 

1918年、全羅北道金堤で生まれた。1男1女の長女だった。イ・スンドクさんは出稼ぎのため留守をしていた両親に代わって家事をしていました。
1937年、夕食を作るために畑の畦でヨモギを採っていたとき、見ず知らずの韓国人の男が話しかけてきました。
「そんな仕事をするより、私について来れば靴も着物もあげるし、お腹いっぱい食べられるところに連れていってやる」。
イ・スンドクさんは、家が貧しく、辛い生活をやりくりしていたため、男の提案を受け入れました。

 

最後に両親にあいさつをして行かなければと懇願しましたが、男は時間がないと言ってイ・スンドクさんを強圧的に連れていきました。イ・スンドクさんは恐ろしさに泣きながら連れていかれました。「慰安婦」の徴集のための就業詐欺でした。裡里邑(イリウプ)の旅館に到着した時、そこには各地域から集められた15~19歳くらいの幼い娘たち15人がいました。イ・スンドクさんは少女たちと列車に乗り、中国上海に向かいましたた。おぞましい「慰安婦」生活のはじまりでした。

 

当時、イ・スンドクさんの両親は行方不明になった娘を探すうちに病気になって亡くなりました。一人残された弟は、叔母さんの家に居候したそうです。
イ・スンドクさんの「慰安婦」生活はつらいものでした。


頭、胸、臀部などを靴や足で蹴られ、刀による傷痕もできました。その後遺症で目がよく見えなくなり、精神は朦朧とし不自由な体になりました。

慰安所での蛮行はイ・スンドクさんの体と魂までぼろぼろにしました。


1945年終戦後、日本軍はいなくなり、イ・スンドクさんは朝鮮の人々に交じって帰還することができました。
ぼろぼろになった体を引きずって故郷に帰ってきたイ・スンドクさんは、近所の住民の女中奉公として働きました。

あるとき、太平洋戦争の犠牲者遺族会の会員を通じて被害者申告の受け付けがされていることを知り、遺族会を通じて悪夢のような過去を申告しました。


その後、水曜集会や人権キャンプなどに活発に参加しながら自身の恨を晴らし、再び戦争が起きて同じ被害者が生じないよう尽力しました。
いまだ解決されない歴史の恥部を抱え、痛みをこらえきれずイ・スンドクさんはこのように叫びました。

「植民地下の生活苦で負った苦痛で、何の罪もないのに罪人として生きてきた私たちに、日本国は事実を認めて謝罪し、精神的肉体的に苦しめられた後遺症を補償せよ」

どうか、平和で暖かいところで、あなたの傷ついた魂が慰められることを希願します。
数えきれない不眠の夜と残酷な悪夢に苦しまない、広々とした安息の日を心から願います。
故人の魂はこのように安らぎを求めるが、生き残った私たちは故人の名前を記憶し、故人の願いどおり問題が解決される日まで覚醒した目でこの歴史を守るでしょう。

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