ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

遠藤周作『沈黙』の「信仰のあり方」は、主流秩序論の生き方とつながる

 

遠藤周作『沈黙』1966年作。


私は信仰者ではない。だからキリスト教信仰のあり方自体には、ぴったり問題意識や関心が重なるわけではない。

だが、主流秩序論としての生き方で、私が思うものと重なる部分があると思えるのでそこは興味がある。
浅くしか理解していないが、まあ、大筋同じ様なものを求めているのだろうと思う。

 

 

イエス像の踏み絵で、「踏まないで殉教が素晴らしく、踏んだら裏切り者だ、ユダだ」、とは思わないが、その象徴するものは、主流秩序にどう向かうかという問いである。

 

 

『沈黙』において、逃亡するロドリゴがキチジローの裏切りで密告され、捕らえられる。連行されるロドリゴの行列を、泣きながら必死で追いかけるキチジロー。少し脅され金をもらって裏切ったキチジロー。自分は弱いといって言いわけ。

 

これをどう見るかで、まず、キチジローは主流秩序に負けた弱い奴で裏切り者である。しかし、彼は悔いている。苦しんでいる。自分のしたことの罪深さを受け止めている。この時点で、彼は変化し始めており、次の行動では変わるかもしれない。
だが、嘆いたり、ただ謝ったりしつつも、結局何もそのあとしなかったら、やはりそれは其れだけの人間であり、裏切者であり、恥ずべき人生である。本当に反省したなら、たとえば死んでもいいし、誰かを助けてもいいし、できることはある。

 

 


キチジローは私である、と遠藤周作は考えた。そしてそんな弱者にも、その裏切りを通じて、その後に来るものがある、神の愛は降り注ぐ、弱きキチジローを通じて神の愛を知る、神はそのような弱いものに同伴する、キチジローを見捨てるような信仰であってはならないという希望と信仰理解を描いたのだろう。信仰を、このようなプロセスを通じて深めたと評価されているのだと思う。

 

 

で、私は、主流秩序に対して、いろいろ思い悩む、従属した自分を恥じたり悔やむというのは第一歩として評価するが、結局はその後の生き方に本質は出ると思う。日々、日常に、将棋の一手一手のように、「どのような態度をとるか」という選択肢が人生から投げかけられているのだ。フランクルはそこに「態度価値」を生み出す人間のすばらしさと生きる意味と自由を見出した。

 

「連行されるロドリゴの行列を、泣きながら必死で追いかけた」だけではダメである。だがキチジローは次に、牢につながれたロドリゴに会わせて欲しいと何度も何度も泣き叫んで頼んだ。5年後にも会いに行った。そこには変化の実践がある。其れを理解しないロドリゴは、浅い信仰者でしかない。

 

ロドリゴには、棄教せず殉教という崇高な目標があった(宗教内での形式上の裏切り者となりたくなかった)が、目の前には拷問されている信者を助けるために、棄教する(踏み絵を踏む)という道が突きつけられ、踏む決意に至る。


踏絵のなかのイエスが言う。「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」と。

 

 

ロドリゴは踏んだことで敗北に打ちひしがれるのだが、5年後、許しを求めて訪ねてきたキチジローは「自分は弱かもんだから」と泣きつく。
だがロドリゴにはその弱きキチジローの顔を通して、イエスが語りかけてきたとわかる。自分も踏み絵を踏んだ。あの日のキリストの顔と声を思い出した。

「その足の痛さだけで十分だ」「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」

 


ユダに去れと言ったのはユダを見捨てたことだと思っていたロドリゴに、「そうではない。踏むがいいといったように、ユダにも、なすことをなせばいいといったのだ。お前の足が痛んだように、ユダの心も痛んだのだから」と。

愛ゆえに、なせばいいといったのだ。それが許しの理解だと。だからロドリゴはキチジローにいう。「私たちの弱さを知っているのが神だ。弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?


こうして、キチジローに出会い踏絵を踏むことで神の教えの意味をロドリゴは深く理解していく。キチジローを許していく。ロドリゴはこれまで自分を縛っていた信仰の形から自分を解き放った。

 

***

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で、無神論者の私には、神・イエスという象徴は必要はないが、そこで到達した感覚には、共感を持つ。「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?」
そりゃそうだろうと思う。苦しむという中でこそ、次に至るのだ。だが多くの人は主流秩序に従属しても、誰かを犠牲にしても苦しまない。

 

苦しむというのは、主流秩序が見えて自分の関わりも見えて考えているということだ。
そしてそういう人が次に至るならば、それは評価しうる。しかし、先に述べたように、「苦しむ」というだけで終われば、其れは「そこどまり」というしかない。

 

ロドリゴが「踏む」のはむしろ、考えれば至る当然の「態度価値」を生み出す実践だ。だから「踏むがいい」なのだ。

 

「許す」というのが弱さをもっている人が主流秩序の前で格闘し小さな一歩からでも自分を変えていく、そのように時間軸もひろげて、「完璧に最初からちゃんと主流秩序から離れている人」のようにできない、でも主流秩序に居直らず、小さな一歩を歩む人を認めるという、広く人を見るという意味でなら大事な視点と思う。

 

 

一方、「許す」ということが主流秩序に従属するだけの人間をそのまま認めるというように理解するなら私は賛成できないし、その場合はダメな宗教と思う。


「許す」「許しを請う」というのは、私はあまり好きではない。口先で謝るだけ、につながりかねないからだ。「深く許しを請う」ということができるならば、実践につながるからいいと思うが。

 

教会の告解(罪の赦しを得るために教会の小さな部屋で罪を告白する)、懺悔、というようなものが、主流秩序に従属する自分をいいわけにするだけのものになっている場合があるように見受けられる。宗教教団に献金する/所属して形式的行事をこなすということで自分を許す、自分の幸福や成功を保証してもらう(主流秩序に従属している自分を見つめない)のも同じような欺瞞だとおもう。


そのような「宗教的行為」を組み込んで批判的になっていないならば、実は、信仰の腐敗であり、体制化であり、主流秩序化であると思う。

 

 

もっと俗っぽく言えば、他の宗教・宗派を含め、「商売繁盛・金もうけ・入試突破・良縁・子どもの授かりなどを祈る宗教」「中絶したうしろめたさを水子供養などといって金もうけに利用する宗教」「金を吐き出させるカルト的宗教」は、総じて、主流秩序に加担していると思う。そんな宗教が、「そのままでいいよ」というようなのはくそだと思う。そしてそんなようにして金儲けしている宗教者がいかに多いか。

 

 

「沈黙」は、ここにかかわる。
この『沈黙』が、古臭い「キリスト教の信仰のあり方」とされてきたものを批判するということで物議をかもしたことがあったという。


「宗教教団・制度としての教会」の腐敗や無力にたいして、『沈黙』は、形式上だめとされてきた「踏み絵を踏む」ことで真のイエスに会う物語でもある。それは、映画『ブラザーサン・シスタームーン』で言っていたこと。


私は、若い時に『ブラザーサン・シスタームーン』をとても好んで受け入れた。無神論者だが、「教会の外の神のようなもの」に感受/感応する点でスピリチュアリティを大事にしたいと思って生きてきた。それが多分、左翼的、フェミ的な私の原点だろう。

 

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そんなことを『沈黙』が再評価されていると聞いて、考えた。

生き延びて真の目的達成のために「棄教する」という作戦をとるのもありと私は思うが、
まあ、それにしても火あぶりとか引き潮で杭につながれて海に沈められる拷問で殉教するというのもすごいことだ。其れは歴史の実際である。


金もうけばかりに奔走し、主流秩序に従属する人ばかりの社会で、たとえば会社の偽装や戦争に加担しないかどうか問われるときに、「殉教に至った多くの人」ということを忘れないでしたいとおもう。

 

その千分の一にも満たないくそのような人々が、森友学園問題で、資料を廃棄したと言い、嘘を平気で言う官僚たちの生き方である。と同時に、森友学園に群がり加担した政治家や土建業者たちである。

 

かれらの中で一人でも、「ロドリゴの行列を、泣きながら必死で追いかけるキチジロー」「踏み絵を踏もうとして足に激痛を感じているロドリゴ」はいるのだろうか。

いたとしても心の中で懺悔しているだけなら意味はない。

 

私は、「踏み絵で苦しんでいない」人がいることを知っているが、主流秩序論という眼鏡をかけて、「苦しんでもいいのだ」と思う人がいることを知っているし、そこに希望を持っている。


きれいな心を持ちながら、こんな社会に生まれ育ったために、「考えちゃだめだ/苦しんではダメだ」と思っている若者がいるから。

 

参考:ネットの『沈黙』情報とNHK「こころの時代:母なる神への旅――遠藤周作『沈黙』から50年」