ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

フランクルのことばを全く理解していない萱野氏

 

 

NHK・「SWITCH インタビュー」で、ボクサーの村田諒太と哲学者の萱野稔人が話しているのだが、村田の話が面白いところがあるのに対して、萱野は全くだめで聴いていられなかった。

 

「生きる意味」について、「人生から問われているのだ」というフランクルの言葉についてのところ。

 

フランクルのことば「人生から何をまだ期待できるかが問題なのではなく、むしろ人生が何を我々から期待しているかが問題なのである」

をうけて、哲学者のかやの氏が言ったことは、フランクルのことばの意味を分かっていない応答だと私は思った。

 

萱野は「でも人間ってはじめから意味を求めたがるんですよね。でもほんとに強い人というのは、意味なんか求めずまず行動している、と思うんですよ。そして結果が出た後で意味がついてくるというようなかたち(だと思う)。村田選手もそういう方なんだろうなと思う」といった。

 

これは私の理解するフランクルのことばと大きく違う。フランクルが言っているのは、人生とは、人生が課する使命をはたす責任を担うことだ。全体のつながりの中で、自分がどう生きるかを人生から問われているという、スピリチュアリティ感覚抜きにはフランクルのいう言葉は理解できない。

だが萱野の応答のことばにはそれが全くなく、意味論一般に話を変えて、よくある「意味など考えなくてただ行動してればいい」という話にしている。あまりにフランクルに無理解だ。

 

「私が生きる意味は何か」という問いの立て方ではなく、「人生が私たちに何を期待しているか」という「問いの観点の変更」を提起したフランクル

自分一人独自で考えるのではなく、人生は毎日毎時、問いを提出している、というのであるから、これはつながり感覚で自己拡張的に自分をとらえるスピリチュアルなものといえる。また、人間を超えたものからの声に応答するという意味で、スピリチュアルなものである。 

 

いかに生きるか、何が生きる意味かというとき、何をするか、どこでするか、職業は何か、社会的な意義が大きいかどうかと考えるのが通常だが、上記の態度価値の観点を持てば、活動範囲の大きさや社会的意義の程度は大事ではない。先にどんなことが待ち受けているかもわからない中、常に自分が置かれた活動領域で、目の前にある具体的な問い(問題)に、その都度の「いま」と「ここ」で具体的に応答するしかないし、またそれで必要十分なのだということになる。

 

しかも、Aさんに出される問いとBさんに出される問いも違う。大事なことは、出された問いに対し、最善を尽くしているかどうかである。生きる意味やどう生きるかという問題は、こうして具体的な問題が今、ここで、私に突きつけられている問題としてとらえなおすことができるというのがフランクルの考えの基軸にある。

 

 その時に、人はどういう判断基準で態度をえらぶか、対応するかというと、それは単に合理性や知識だけではない。人生から出された問いに対し、口先ではなく、正しい行為によって応答するという時、その人が持っている「良心」によって実は態度は選ばれているのであり、その「良心」とは、フランクルによれば、具体的な状況においてもっているところの、その都度一回きりの、唯一無二の可能性を直観的に把握しうる能力である。

 

また社会で受け入れられている価値と矛盾する独自の意味を発見する力である。この「良心」の感覚もまた、人間を超えたものの声を聞き取ることであり、精神的な高みに至るものなので、スピリチュアルなものといえる。

 

 すなわち、私の言葉でいえば、主流秩序に流されずに、自分の〈たましい〉によって判断される直観的なものによって態度は決められるのである。

 

「態度価値」や「良心」の理解とともにフランクルの「問いの観点の変更」を理解しないといけないし、其れはとても深い、微妙・微細な感覚を伴うものである。

なのに萱野は全くその匂いも感じさせずに、頓珍漢なことを言った。

 萱野のことばをまるでいいことを言っているかのように番組では字幕にしていたが、萱野の言っていることは主流秩序に従属している者でもよく言うようなことで、「人生からの問い」とは何かを考えようとする姿勢が全くないものだった。

 

生きる意味は人生から問われているといっても、個人を消しての禁欲主義的な義務論ではもちろんない。そのようにしか捉えられない人は、主流秩序に沿った欲望だけが本音であり、人間が精神の根底から自発的に〈たましい〉や「良心」にそって、責任感を持って善く生きようとする存在でもあるということを知らないのである。

 

フランクルは言う。

 

「そのときそのときに、どういうやりかたであっても、人生を、瞬間を意味のあるものにするかしないかという二者択一しかありません。ですからそのときそのとき、どのように答えるか決断するしかありません。けれども、そのたびに、まったく具体的な問いが人生から私たちに出されています。

この事実から、こうしたすべてのことから次のことがわかります。人生は絶えず、意味を実現する何らかの可能性を提供しています。

ですからどんな時でも、生きる意味があるかどうかは、その人の自由選択にゆだねられています。人生は『最後の息を引き取るときまで』意味のあるものに形づくることができるといってもいいでしょう。人間は息をしているうちは、そもそもまだ意識があるうちは、人生が出す問いに、そのつどそのつど答えていくという責任を担っているのです。」(『それでも人生にイエスという』p43-44)

 

 

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