ソウルヨガ

主流秩序、DV,スピシン主義、フェミ、あれこれ

『緑豆の花』と主流秩序(その3)

『緑豆の花』――「意志を継ぐ」という感覚を持てる人とそうでない人の話(その3)

 

第3章 まとめ 「緑等の花」の魂を受け継いで

 

  • 「負ける側」と「グッド・ルーザー」

負けたいのではないが、負けるしかない。その負ける「側」に立った人にしかわからないものがある。主流秩序を前提(自然)としてしか考えられない人々にはわからない景色。「負ける側のその魂」のすばらしさを描いたのが物語『緑豆の花』」だということを書いてきた。

「グッド・ルーザー(goog loser)」という言葉がある。「潔く負けを認める人のこと」だが、もう少し深くは、負けた時にどういう態度をとるか、そこから何を学びその後どう生きるかで、何か大事なものを「敗北」から得る人こそ「勝者」という意味ととれるだろう。負けた時に人の本性が出る、そのときに素敵な人が「グッド・ルーザー」。

それを転じて考えれば、東学農民軍として蜂起した人々は、死んだ者も多くいるが、個人の人生時間・時代を超越しての『グッド・ルーザー』だったともいえるかもしれない。本稿の言葉でいえば、負ける側になることで見えた『緑豆の花』という景色の美しさと幸福感。緑豆将軍とともに理想の社会を目ざして、憎い奴らと戦う幸せ。負けるのに幸せ。あとのものたちに夢を託し、東学の戦いに参加したことを後悔しないでいさぎよく負けていった、負けっぷりのいい人たち。

 

  • 主流秩序に対して負ける側に行く道

子の物語『緑豆の花』が示し、観る者に問いかけるのは、人の生き方を分ける大事な分岐点をどう考え、どの道を選ぶかということだ。それは、東学農民の蜂起と敗北を受けてあなたは今を生きているのかという問いかけともいえる。商団の家長ソン・ボンギルが、娘ソン・ジャインの意志に反する選択をしたことをどうとらえるか。ペク・カが「人は実利で動く、人を踏みつけて上昇しろ」といったことをどう受け止めるか。命や金儲けよりも大切なものがあるということを分かるか、わからないか。この「理想を目指して戦い、負けつづけてきた側」の「希望」ってものがわかるか。

それは、今現代の社会において、私やあなたは主流秩序に従属しない、「抵抗・非協力・不服従」の道を見ようとしているか、していないかということにつながっている。そんなこと考えたことない、そんな道などみえない、負ける道など行きたくないという人は、今の日本では多いと思う。、それは、「体制、主流秩序、権力」と戦う運動や実践・生き方をしている人が少ないからだ。

だが世界を見てみれば、今日、この瞬間にも東学農民の蜂起、牛禁峠の虐殺と同じようなことは起こっている。負ける側に立って見えるものは、例えば、香港やミャンマーウイグル自治区チベットで、ベラルーシで、BLMのデモで、弾圧される側のひとは「緑豆の花」をみているのだ。そういうひとにしか見えないものがある。

  イガンの「あなたが死んでも安心してください。あなたの意思を引き継いで戦い続けます」という言葉が、2021年においても、ある人々にはひき継がれている。

その「目をとじれば見える景色」を、一度みたものは、もう「知らなかったとき」には戻れない。だから1894年以降、何度も世界各地で緑豆の花は咲き続けてきたし、今も、今日も、明日も咲くだろう。敗北の中で。

皆が、東学農民軍の蜂起・その顛末を知っているわけではない。牛禁峠の戦いを知っているわけではない。だが、そんな「知識」「情報」を知らなくても、面々と伝わってきたものについては知っている。それは言葉にしなくても伝わる関係であった、イガンとボンジュン、イガンとその母の関係のように。

私たちは、不利を承知で、死ぬことを承知で、サムレ(第2次蜂起のための集合場所)に参集した人々を知っている。無名の虐殺されたものたちの悲しみや怨念、戦って死んでいたものたちの「後に託す思い」を知っている。

歴史は基本、民衆が抑圧され続ける歴史である。権力側には組織された武力があるので被支配階級、民衆側は基本負ける。負ける運命なのだ。それが続いての歴史だ。実際、この物語の舞台となった1894年から95年においても、「悪い」のは日本軍だけではない。「清」も、強国に従属して保身を図る王族も日本軍に媚びていく両班たちも反吐が出るほど愚かしい。そしてそんな支配層の言うがままに動き、民を虐殺する官軍・討伐隊も民保軍も、恥ずべき人々だ。命令だからと思考停止し、ひどいことに加担する一人一人に責任がある。命令に従った下級の兵士たちも日本に協力した両班たちも地獄で炎に焼かれるべき罪びと(売国奴)だ。だが実際に死ぬのは蜂起した側であり、主流秩序にすがった者たちはそれなりに生き残ったり利益を享受する

 歴史は基本、民衆が抑圧され続ける歴史だが、その腐敗ゆえに永続はできない。時々、その体制が制度疲労にいたり矛盾が拡大し、内部から崩壊し、別のものになっていく。それが繰り返されてきた。その過程では常に、累々と無名の人々死体が積み重ねられていくのだが。義兵や緑豆将軍が目指した「身分制のない平等な社会、つまり民主主義のような世の中」を夢見た人たちは、勝つまでは負ける。だがそれは時代の先取りであり、民主主義が発芽する前の肥料となっていく生き方だ。

しかも、それは単に「後に発芽するのであって、その時は後悔や苦しみだけ」ということではない。その負ける時点においても、「緑豆の花」を見ているものは、身近なところでその「未来社会の芳醇な香り」を嗅いで生きているのだ。例えば「蜂起の場所に集まる人や蜂起を応援する人々を見るときに、そこでの人間の勇気や仲間意識や信頼関係を見るときに、「戦い続けます!」という後に続く者たちの決意を聞くときに、目指している未来社会は常にもうすでに「いま、そこ」にあるのだ。どんな社会にも不平等や差別はあるが、逆にどんな時代にも、生き方によって「理想社会」は今の生活に顔を出す。

 

  • 記録に残っていない名もなき人々

 この「緑豆の花」の作家(脚本家)チョン・ヒョンミン氏[1]はいう。私たちはこの無名の、まともな名前さえ持たず、武器といえば竹やりだけの民衆の「個別性をもったひとりひとり」「個々人というもの(個別の名のようなもの)」を知っていると。

記録として残ってはいないが、そこには顔を持ち、笑顔を持ち、呼称を持ち、人間関係を持った人生を生きていた個々の人がいたことを知っている。それを描いたのが物語『緑豆の花』なのだ。牛禁峠の戦いで死んでいった約2万名の人、ひとりひとりに、人生があり、理想に準じる気概があり、愛する人がいたことを描いたのだ。

だからこの物語『緑豆の花』の最後は言う。

これは忘れられた誰かの話だ。

あの熱かった甲午年(こうごのとし1894年)

人が天になる世を目指し

突っ走った偉大なる民たち

歴史は“無名の戦士”と呼ぶが

私たちは名を知っている

緑豆の花

彼らのおかげで私たちがいる

「人は天!」(人即天)

 

東学農民軍・義兵たちに対して弾圧・虐殺しまくった官軍・討伐隊や日本軍。同じことが今ミャンマーでも中国のウイグル自治区デモチベットでも、香港でも起こっている。日本でも難民や亡命したい人を受け入れず、非人間的に収容し本国に追い返す入管制度がまかり通っていたりする。

 短期的全体的には「勝利」はない。しかし、そこで戦っている一人一人は「すでに勝っている」ともいえる。それは≪やつら≫には見えない「緑豆の花という景色」が見えているから。「それ」を見ながら生きる喜びと誇りを知っているから。もう、「その生きる基準」がない生き方はできない。

「人は実利で動く(主流秩序に従って生きる)」というのだけではないと思って生きる人がいるということ、「勝てない」(主流秩序の上位に行けない、主流秩序の呪縛から離脱した人)側にしか見えない「緑豆という景色」を見た人たちの壮絶に幸福な人生の話であった。

 

  • “たましい”を受け継いで生きていく

私は、生き方の道は人によって異なると考えるが、ちゃんと生きている人は自分の“たましい”に向き合っていると考えている。私の言う“たましい”とは、「その自分にとって大事な生きる基準のようなサムシング、実利だけではないもの」のことであり、それは地球上のほかの命・自然全体とのつながりの感覚にかかわる、微細なものである(スピリチュアル・シングル主義)。

それは主流秩序どっぷりの人には感じられない。たが歴史においてどの民族、どの社会においても、そうした“たましい”的なものは概念化されている。呼び方は様々だがその「なにか」に触れてひとは繊細に豊かに、深く生きてきた。それは愛と呼ばれることもあれば誠実さ、勇気、誠意、神秘、共同体意識。信仰といった言葉で捕まえられることもあった。世界的にその共通性をいうならスピリチュアリティであろう。

その微細で崇高な精神・つながり感覚は、自己をどこまで拡張できるかということで、他者、多民族、過去や未来の人々、そして命あるもの・動植物や空気や水といった地球環境全体との交感と責任意識の装置の名称として表現されてきた。この感覚が分かる者たちは、自己を拡張して、過去の人々の戦いの苦闘の営みを尊重していこうとする意志、スタンスをもつのだ。

だがこの“たましい”感覚がないものは、過去の(広義の)先人・先祖たちの闘いを忘れて、いま自分さえ実利的によければいいとしか思えない。、「勝てば官軍」的な感覚を持ち、目の前の主流秩序に無批判にのってただ即物的快楽や利益に耽溺する。流行に乗って受けることをいうような「リベラル」や「人権尊重系」や「反体制的」なものも、そこに“たましい”的な微細な感覚がない場合、力による戦いになったり、「ミイラ取りがミイラになる」ように、またまた自分も主流秩序の上位者(利益享受者)になってしまう。

だからこそ、主流秩序の上位的な生存スタイル、つまり物質的に高度な消費をすること、勝つこと、強いこと、調子に乗ること、自己責任的であること、には警戒的にならねばならないのだ。

主流秩序(の上昇志向)に批判的になり、“たましい”的なものを大事にできないなら、いったいどこに自分の言動を「恥ずべきものにしない」とする倫理観がもてるだろう。その時代時代の主流秩序への従属を拒否し、「損な道」「負ける道」を選び、理想をもって格闘した死者たちの思いを継ぐ感覚は、自分の生き方をつながりにおいて責任をもって生きていくことになる。

こうしたスピリチュアルな感覚を示した作品が、私にとっての物語『緑豆の花』であった。

 

  • 連なっているものーー暴力に負ける側にとっての「非暴力」

権力者による支配・差別・弾圧に対して、「負ける側」にとってのグッド・ルーザーとなって“別水準の勝利”を得るには、自分が非暴力の存在になり、非暴力の思想・空気・関係・社会を広げていくことである。非暴力とは、「暴力を使わない」とか暴力に対して傍観していることではない。暴力の社会・暴力的人物と戦うことを非暴力というのだ。

たとえばキング牧師の非暴力直接行動は激烈なものであった。弾圧や逮捕、暴力被害(時には殺害されること)を覚悟でのデモや座り込みや不服従闘争であった。それは真摯な話し合いを拒んできたものに対して、交渉のテーブルにつかせるための環境づくりの、ある種“力づくでの”運動であった。キング牧師はそうした状況に至らしめるための直接行動を「建設的な非暴力的緊張感」を作るものと表現している[2]

こうした直接行動を担う人々がいて歴史は動いてきた。れはマルクス階級闘争で歴史が動いてきたと表すことと近い。緑豆将軍たちの戦いもこうした系譜の一つである。蜂起・一揆・民乱・革命的武力闘争・ゲリラ闘争と非暴力直接行動は連なっている。さらにその先に、主流秩序を解体していく多様な戦いが連なっている。DVやパワハラ・セクハラをなくすための活動、非正規差別をなくすなどの労働運動、LGBTQや少数派民族などへの差別を是正する戦い、フェミニズムナショナリズムヘイトクライムに対抗する運動等はその一部だ。

この戦い、こうした人々の営み。過去この系譜で戦いを積み上げてきた人々、その中での多くの敗北や死を忘れないならば、私たちは、イガンが言う「人間らしく生きた人」に名を連ねることができるだろう。

これをまとめている現在も、牛禁峠の戦いにおける虐殺のようなことが起こっている。ミャンマーのクーデターを起こした国軍は、市民を弾圧し多くのものを不当に逮捕し700人以上虐殺しているが、軍の報道官は「木が成長するためには雑草は根絶やしにしなければならない」と言って市民の抵抗を雑草に例えて虐殺弾圧を正当化している。デモに賛同した俳優や歌手など120人以上を指名手配し逮捕している。メディア人もネット民も逮捕されている。死刑判決も出されている。市民はそれでもSNSなどで情報を発信しデモを行って抵抗。軍はインターネットの接続遮断などもしている。

ミャンマーの人民に対して虐殺する軍隊・軍事政権は、経済的実利とも大きくつながってもいる。ミャンマー軍は実は経済的社会的利権を大きく持っている勢力であり、だからこそ、利権を奪われそうになることに抵抗してクーデターを起こした。外国企業はミャンマーで商売をするとなると軍と仲良くしないといけない構造となっている。日本企業・日本政府はそことつながっている。これはまさに物語『緑豆の花』の中の、日本軍や朝鮮官軍、商売人・軍商たちの生きざまと重なる。

では、こんな時代において、私たちひとりひとりは、現代においてどう生きるのか。物語『緑豆の花』が提起していることは何なのか。

もちろん現実は複雑で、空論、理想論を口にしているだけではだめだろう。渋沢栄一論語(道徳、理想)もいるが「そろばん」(実利で動くという経済面)も大事で、そのバランスで現実的な社会の前進、問題の解決を図ることを説いた。TVドラマ『ゴッドファーザー オブ ハーレム』でボンピー(黒人のギャングボス)に対してマルコムXは「目覚めよ」という。それは黒人がまともに生きていけるようにするためには、社会的政治的な意識を高めて黒人解放運動に協力連帯しろという意味だ。一方、孤立するマルコムは 本当に自分の政治的な目標を達成するためには、現実的にはギャングの力を使わないといけないと判断していく。

これはかなり普遍的な話で、実際の政治的成果を上げるには、おおむね「そろばん」的な面も入れた様々な妥協も必要、主流秩序にのりながらの『力を持つこと』が大事ということはある。だがそう言いながら自分が主流秩序の上位に行ったり、主流秩序の維持強化に加担する人が多い事を問題としたいというのが私の問題意識であった。そろばん大事という話の人は「負けていては実現出来ないでしょ」という方に目が向きがちだ。

それにたいして、私は、そのような現実的な形で社会問題を解決していく人は、それはそれで必要だが、一方で、負ける側から見えるものも大事ではないかということを今一度重視したいと思って、主流秩序論の切り口から問題提起している。『論語』的な面が非常に弱くなって主流秩序に囚われている人が多い中で、主流秩序を揺るがしたり解体していくための実践は、今ここで、未来社会を先取りしていくことなのではないか。その文脈で、DVを学び非暴力な存在になっていくというようなことを大事にしたいと思っている。

そんな私にとって、物語『緑豆の花』は私たちの通常の認識が届きにくい、つかみにくいものを、忘れてしまっているものを、目の前に展開してくれた。私にとっては、大切なものだったので、時間をかけて、ここに感想を記した。そしてこの作品を作り上げた人たちに感謝する。ぜひ視聴されることをお勧めする。

以上

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[1] 東亜大新聞放送学科を卒業した後、労働運動をしていたチョン・ヒョンミンは、民主党パク・インサン議員とハンナラ党イ・ギョンジェ議員の補佐官として働いていた経歴がある。約10年の間、国会議員補佐官で現実政治に足を踏み入れておいたチョン・ヒョンミン作家は、KBS脚本公募展に当選して、専業作家に転向した。(ネット記事「政治ドラマを専門とする作家 チョン・ヒョンミン『緑豆の花』 「鄭道傳を越えるか」2019-04-26 より)

[2] マーチン・ルーサー・キング『黒人はなぜ待てないか』(みすず書房、原著1965年)