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主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

ロシア侵攻に関するスタンスで、いくつかのまともな意見を知った

ロシア侵攻に関するスタンスで、いくつかのまともな意見を知った

 

3月21日段階で、遅まきながら、すでに「まともな意見」「ましな意見」がいくつかあることを知った。

私の「侵略されても武力で戦わないという非暴力主義」とは異なる点はあるものの、おおむね近い見解の人々がいる。れいわ新選組の国会決議への反対のことも最近知ったし、まともな対応と思う。長周新聞の各記事も知った。鮫島浩氏の一連のブログ記事もあると知った。これらが広がらないこと、マスメディアに広く載らないことが問題というべきであろう。当面、ウクライナ大統領に国会演説をさせて無批判にほめることを問題とすべきであろう。

 

以下一部紹介

長周新聞2022年3月17日

長周新聞2022年3月17日

日本はウクライナ危機にどう向き合うべきか 山本太郎×伊勢崎賢治(東京外大教授)緊急対談 緩衝国家における平和構築

長周新聞2022年3月3日

  • 鮫島

れいわ新選組が「ロシア非難決議」に反対した理由〜国会の既存政党すべてに挑む姿勢を鮮明に

2022年3月2日

  • ゼレンスキー大統領の国会演説に前のめりの与野党とマスコミの平和ボケ〜敵国よりも怖いのは暴走する自国の国家権力だ

2022年3月18日

 

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なお、橋下徹は、本当にひどいことを言い続けてきた人物であり、私と根本思想はまったく違うものの、ウクライナの「男性は外国に出てはならない」「徹底的に戦え」に異論を出している点で今回私と近いことを言っている。が、それに対してマスメディアでは批判が多い。安倍たちが喜ぶような、「日本が攻められたらどうするんだ」論が広がり、軍備増強、オペレーション拡大、憲法改悪方向の気運醸成に利用されている。「原発が攻撃されることに危機感を感じるか」というような調査までして、不安を煽り立てている。問いの立てかたが間違っている。危険な原発を作るのが間違いで、外国から攻撃・進撃されたらどうする、ではない。日本は、ウクライナと違ってまともに政治をすれば「ロシアや中国に軍事侵攻される確率はほとんどない」のが事実だ。まともな政治をしていればの話であるが。

台湾有事や尖閣列島を口実に勇んで戦争を仕掛ければどうなるかはわからない。憲法の精神をまともに学んでいない馬鹿者たちがおおすぎる。殺人はだめといいつつ、戦争になるととたんに思考停止する馬鹿者たち。世界の「戦争や暴力に対する反省・考察」を学んでいないひとたちが、またもや同じ過ちを繰り返終えそうとしている。

「街中でナイフや銃をちらつかせて金を要求されたらどうするか」

答えは、抵抗せずに金を出す、逃げられそうなら大声出してとにかく逃げる、だ。まして、老人、子供、女性などなら、抵抗するのは危険で、金を出すのがましな選択肢であろう。泥棒・カツアゲしようとする奴が100%悪いが、だからといってプライドをかけて「そんな不当な暴力に屈しない」と抵抗して殴りあいしようとするのでなく、そこは身の安全を第一に考えるしかないのだ。そこは多くの人の意見が一致するはずだ。だが国単位になると多くの国民の命を懸けて戦えという。愚かしい。原始時代に逆戻りだ。

学校内のいじめでも、本当に苦しいいじめをうけたら先ずは学校に行くのをやめたらいい。そのかわり、その後で戦う。いじめられた証拠を集め、いじめの支援を行うNPOに「対応の仕方」を教えてもらう。いじめの対応策を書いた本やネット情報も集める。弁護士にも一度相談しておく。警察にも一度話を聞きに行き、自分の被害を伝え、いざとなると被害届を出したいと言っておく。学校、教育委員会、にも、証拠を集めて、対策を具体的に求める。

そしてちゃんと調査をして、学校として明確にいじめを認定し、加害者への処分(教育的見地がありつつも、厳しく対応、例えばクラス替えや転校も含めて)、全体へのこの事件への周知徹底、再発防止のための研修などを求めていくような戦いである。もちろん当事者の意識も色々なので、当事者が闘うまでに意識を強く持てるようになる支援がいるが、基本は無理強いせず、当事者の希望を尊重しつつの話である。

そのためにも日ごろから学校はいじめについて、道徳論的空論的な話でなく、具体的に戦い方、証拠をとることの重要性、自分が悪いのでなく加害者が悪いのであり闘っていいのだという意識改革、やってしまう加害者の責任の重さ・重い処分(犯罪であること)などを教育することである。それは社会に出てからも応用できる、「暴力への非暴力的な闘い方」の教育となるであろう。

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かつあげやいじめなどは、国に攻めてこられる戦争とは違うというのが定番の反応だろう。でもその人はでは戦争にどう考えているかというと、深くは考えていない。これが国際政治の現実だ、程度に、「そういう軍事力ある国があって侵攻するかもしれないのだからこっちも軍事力を備えて、日米軍事同盟とかNOATOに入り、核兵器も持って、相手が怖がって攻撃しないようにするしかない」というのだ。単純論である。

それは、街中でいつへんな奴が襲ってくるかもしれないから、いつもナイフやスタンガンを持ち歩くのが現実的にはよいという発想と同じだ。祖rが「現実的」という単純思考。

私は、危ない街を歩かないといけないなら、それも一つの対処だと思っている。だが、そこから本気で考える。高齢者や子供や女性の多くは武闘にたけていない。男性の中高年でも、相手がけんかになれているならほぼ勝ち目がないだろう。ナイフを持ち歩いて本当に解決するだろうか。学校で生徒も先生も全員がナイフを持てばいじめも不当な暴力もなくなるだろうか。

なくならないのが現実だ。むしろ危険が増す。米国の現実はそれを示している。

皆が銃を持つ権利を保障しろというのも一つの考えであるとは認める。でもあなたは、米国の保守派のように、学校や街中で、普通の市民が銃を持つのがいいとおもうのか。

すると多くの人はそれはよくないという。

なら、国際関係でも、日本の句憲法があり、原爆被害の歴史も、馬鹿な戦争をして侵略した経験もある日本は、軍備を持たずに、どこの軍事同盟にも所属せず、非武装中立の路線で政治的に生き延びるのが、命を重視するならば一つの道であることを認めるべきだ。

つまり考え方にはいろいろあり、非暴力主義もあれば、暴力には暴力で対抗するという考えもあると認めるべきなのだ。どちらかだけが正しいというはなしではない。どちらもありうるが、あなたは何に重点を置く思想的立場をとるかという話なのだ。

民族主義者やナショナリストのように、「命をかけてでも国・国土・日本人の誇り・名誉を守るべきだ。降伏・被占領という屈従には甘んじられない」というひともいるだろう。

一方、高齢者や子供だけでなく誰もの命も重視して、「徹底的に政治的に、攻撃されない環境をつくる。万が一、おかしな国が攻めてきた場合は無抵抗で占領される」「だがそのあと、市民・国民は皆で主流秩序に抵抗する不服従の非暴力的な戦いをしていく」というみちもあるのだ。非暴力的レジスタンスである。それも一つの「生き延びながらの闘い方」である。日本国憲法はそうした思想で作られた。

その覚悟で、国民が非暴力の思想や方法を選び、政治家がまともに動けば、99.9%、日本は占領などされない。

そうした国際平和の路線を日本社会・人々が進めようとするのか。

どこの国でも右翼・ナショナリスト的な考えで、武装路線をとり、角突き合わせていがみ合うのがいいという人がいるが、それに与するのか。

闘いたいものたちは常に、緊張を作り出し、謀略的な事件をおこし、戦うしかないと国民を戦争しようとする。それに騙されるのか、否か、が試されている。いま、ウクライナが「絶対に屈服しないといって、市民が次々に死んでいっても戦い続けると、それ自体が問題だし、さらに遠方からの無差別的破壊するミサイルなどの攻撃、爆撃、生物化学兵器大量破壊兵器――核兵器までも――使われるかもしれない。NOTOや米国が静観でなく参戦すると第3次世界大戦になるかもしれない。多くの人が死ぬ。それに対しては、皆思考停止して、ウクライナに戦い続けるように言う。おかしな状況だ。多くの戦争映画や記録があり、多くの人が戦争を反省したはずであるのに。少し複雑なことだが、非暴力の思想も蓄積されてきたのに。

残念ながら、ロシアだけでなく、米でも日本でも、トランプや安倍たちにあおられて、単純に「国が攻撃されたらこちらも軍事力区で対抗すべき」と思う人が増えている。20世紀、19世紀と同じレベルだ。ウクライナと類似だ。その結果が、今のウクライナである。多くの人が死んでいっている。「戦争辞めろ」といいながらそれをロシアにだけ言っているのはおかしい。ロシアが国際法を破りおかしいので降伏すべきでないと今日もテレビやネットメディアで出演者がほえている。

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i以上のようなことを詳しく考えた拙著『戦争に近づく時代の生き方について―――戦争/ナショナリズム/暴力に対する、非暴力/主流秩序の観点』(電子書籍 2016年3月、増補版・オンデマンド印刷書籍2020年9月)の一部をしょうかいしていこうとおもう。まずは「はじめに」から

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はじめに

 

本書は、私が過去に書いた、戦争、暴力、ナショナリズム、責任の取り方、その一例としての慰安婦問題などにかかわる文章を2016年に集めてまとめたものである。そして2020年にPOD印刷書籍にするにあたって「慰安婦問題」などについて加筆を行った書籍である。視点は、非暴力主義、〈スピリチュアル・シングル主義〉、「主流秩序」の観点、未来の平和に向けて過去に対しちゃんと謝罪する責任、などである。

第1部は基本の考え方を3章にわけてまとめているが、少し長いので、第2部以下の方が短くて読みやすいと思う。どこから読んでもらってもかまわない。

改めて読み直すと、主流秩序という言葉は使っていなくとも、主流秩序論で言っていることと近いことをすでに述べていると思った。昔からこだわってきたことは、変わっていないなと思う。

安倍政権の下、集団的自衛権を認める解釈改憲特定秘密保護法・安保法制の強行採決などをして、事実上、憲法をないがしろにして戦争ができる国に突き進んでいる中、どのような意見を持ち、どのように生きるかが各人に問われている。本書は私なりの「反戦の論理と思想」である。

戦前、知識人の多くは、「戦争反対、平和支持」から戦争支持へ転向した。知識人とはそんなものだ。労働組合も政治家も人権系活動家もメディアも芸術家も多くは戦争に加担していった。理屈はどっちにでもつく。“勢い”に流されるものは多い。

「戦前は十分な情報をもとに合理的判断をしなかったから負けた」というような、一見リベラルな「戦争批判的」な物言いも、では合理的判断で勝てると予想できるなら戦争をしてもいいのかという問いを抱えていない。「今の平和は多くの日本兵の犠牲の上に築かれている」というような美化は、多くの兵隊が愚かにも犬死させられた(餓死や病死も含めて)という事実や戦争に加担し残虐を極めて侵略した加害者責任を隠蔽/忘却している。

日本国家のために死んだものだけを弔うのはおかしい。過ちを繰り返さないために国境を越えて戦争で死んだものを弔おうとおもう。いっけんバラバラなものや異なる意見などの共存・相互の尊敬・多様性が大事である。その意味で、いまこそ戦争肯定論とともに、反戦論があること(平気で戦争反対、戦争に負けてよかったなどを言える雰囲気)が大事であり、多数派でない声などさまざまな声をあげられること、個人がそれを選ぶ勇気が大事である。とともに、特に「朝まで生テレビ」や各種報道番組や国会のように声を荒げたり、したり顔で評論するのでなく、“沈黙”的な姿勢(その意味は本書で触れるが、それは主流秩序に従属することではない)を大切にしたいとおもう。

安倍首相と近い考えの人は、「戦争反対・憲法擁護・非武装平和主義」を唱える人たちのことを「現実的でなく単純で古臭い観念の持ち主だ」と馬鹿にしているところがあると思う。私は、戦争に反対するとか憲法を守れという意見がそう馬鹿で単純な意見でないということをわかってほしいと思っている。本書で、たとえ意見が違っても、こうした戦争反対の意見があるということを知って、否定ではなく異なる意見の者たちの共存の道をともに歩けるようになってほしいと願っている。  

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