ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

〈国境〉を肯定するか否か

 

拙著「戦争に近づく時代の生き方について」の一部を紹介しておきます。

 

1-2 〈国境〉を肯定するか否か

 

  • 〈国境〉を越えて

 ここに対立軸は明確となる。「暴力の肯定、男らしさ」の肯定か、あるいは「非暴力主義、反マッチョ、つまり<女性的>」の肯定かが対立軸である。そして、さらに本質的には、あらゆる<国境>をなくしていこうと志向するのか否か、すなわちアイデンティティを徹底して個人に限定するシングル単位論者、ジェンダー解体論者[1]、国境・民族解体論者、つまり理性的なアナーキストになるか、そうでなく、アイデンティティを何らかの共同体幻想との同一化にもっていくかである。

アイデンティティを問うことと民族の文化の根源を問うことは同じではない。国民や民族というアイデンティティは近代に作られたものである[2]。自分個人のアイデンティティというなら、もっと具体的に、自分と社会の関係を深く見つめ、自分個人の独自的生き方(生きる質としてのシングル単位度とスピリチュアル度)を深めることだ。

だがそれには「社会学や哲学や歴史を学ぶなどの深い知性」が必要なので、安易さだけがはびこって、ナショナリズムがそこに付け込んでいる。「自己の寂しさ・孤独に耐えられずに自己を集団アイデンティティに溶け込ませる甘え・逃避」が、ナショナリストにはある(孤独論の第1段階、プレ自立段階の発想、拙著[2003b]参照)。その意味でも、あくまで多様性、独自性、そして孤独にこだわるシングル単位論の視点、〈国境〉を越えて共通する〈たましい〉を見つめるスピリチュアルな視点が必要だと思う[3]

 私は、あらゆる<国境>を必要としない。そういうスタンスで生きたいと考えている。すなわち、私には愛国心などない[4]。日の丸への愛着はない。天皇制反対論者である。マッチョ的・男性的であるべきと思っていない。非暴力主義、「弱き者」から学ぶものがあると思っている。父性と母性、男らしさと女らしさ、男性原理と女性原理の双方を残し肯定したまま尊重すればいいなどと思っているのでなく、男女二分法自体を批判する。

日本文化や東洋思想が優越しているとも思っていない。日本の自然が特に美しいとも思っていないし、日本人が特に自然愛好主義ともおもっていない。日本が特に自然との調和を重視してきた国とも思わない。そんな幻想は、ほんの少し世界の現実を見れば分かる。

つまり私は「〈国境〉妄想家」ではない。フロイトユングばりの心の「型」の確認、「物語」の消費で安心する精神でもない。愛校心も、愛社精神もない。私は大阪出身だが関西優越主義者でもない。両親や兄弟や祖母を愛しているが、血縁重視の家族主義者ではない。子どもを自分の分身とはおもわない。「伊田」という血縁や名字に愛着はない。愛する人を「特別な伴侶=妻」「永遠のパートナー」と呼ぶような精神構造を持っていない。「運命の出会い」とか「一生愛する」という言葉を信じ込むほど無知ではない。結婚制度に依存しない(結婚制度廃止論者)。

 つまりアイデンティティを、なんらかの集団や秩序や区分と結びつけて確認したいのではない。「集団に属する快感」という「直感」を単純に肯定するような思考をしない。多数派(マジョリティ)に属することを優位視するナショナリストレイシスト民族主義者)とことごとく異なる発想である。だからこそ、男/女らしさというジェンダー脱構築するフェミニズムに共感する。

そして孤独を前提とするニヒリズムや虚無的な感覚の上に、「主流秩序の上に立つ物語=常識」を超える連帯や「新しいつながり/愛」を模索したい(そのエネルギーがスピリチュアリティ)。国籍、民族、宗教、性、性的指向等、それら多様な属性を備えた「私」と「あなた」の違いは、尊重しあうべき個人間の差異である[5]。孤独を怖がって、強迫的に「どこに属するのか」と、自分が属せる「マジョリティ探し、共同体探し」に追い立てられる生き方はやめたい。それは、主流秩序の上位にいくことで幸せになれるという(近代主義的)発想を一歩も抜け出していない[6]

私ももちろん完璧に様々な囚われ・幻想から自由になっているのではないが、そこに居直るのでなく相対化し、自分の限界を解体していこうとしており、そうした様々な意味の総体として、主流秩序からの離脱、シングル単位を指向している。私は、「共同体や主流秩序が与えてくれる幸せ」を拒絶するアナーキストの道を〈スピ・シン主義〉として提唱しめざしている。日本の知識人のナショナリズム的傾向――古い秩序へ戻りたいという懐古趣味――と正反対である。

 

[1] フェミニズムとは、「家族とジェンダー」という〈国境〉を越えようとする志向である。

[2] 領土、主権、国民的アイデンティティを有する国民国家ができたのは15世紀以降に過ぎず、特に今日のような国民意識が広まったのは大方の国で19世紀から20世紀である。国語の確立、普通教育、参政権、国家規模の徴兵・徴税、インフラ整備(郵便制度、水、電気など)、国旗・国歌制定、社会保障的制度等によって多くの人が「自分は・・国の国民だ」というようなナショナルな感覚をもつようになったのはつい最近のことなのである。つまり、伝統は創造されたのである。

[3] 日本人は単一・均質の民族というのは間違いである。遺伝子レベルでみても多様な種族・民族のまざったものということがわかっている。沖縄もアイヌも、均質に含みこめない。そしてもちろん個人差があり、かつ世界のどの種族・民族も少しの遺伝子の差異に過ぎない(ほとんど共通)。当然、日本人(自分たち)だけが特別・優秀というのでなく、他民族とちょぼちょぼだということである。根源的にいって、日本人という概念は抽象的な幻想(社会的構築物)であって、実態的・絶対的には「存在」しない。

 

[4]『闇の左手』の「惑星<冬>」のエストラーベンの言葉は豊かである。「国家を憎んだり愛したりすることができますか? …私はその国の人間を知っている、その国の町や農場や畑や丘や川や岩を知っている。…しかしそうしたものに境をつけ、名前をつけ、名前をつけられないところは愛してはならないというのはどういうことだろうか? 国を愛するとはいったいどういうことだろうか? 国でないものを憎むということだろうか。そうだとしたら、いいことではない。…私は人生を愛する限りエストレの山々を愛するが、この愛には憎悪の境界線はない。その先は憎悪でなく、無知なのだと思う。…・悪い政府を憎まないのは愚か者です。そしてもし地上によい政府というものがあるなら、それに奉仕するのは大きな愉びになるでしょう」ル=グウィン[1978]226-7ページ。

 

[5]もちろん、私はあらゆる<国境>を超えたいと志向するものであるが、同時に現実的には私はあらゆる属性に規定されて自己アイデンティティを形作ってきたし、今もそれを残していることを認める。例えば私は自分を男性と自覚している。過去、侵略戦争をしてきた日本国の一員でもある。大学教員という肩書きを背負っている。その属性を引き受けて、それにどのようにたち向かうかが私の個性であり、その時私は近代的<国境>を超える方向を志向するといいたいのである。

 

[6] 「多発する外国人犯罪」といった非常に非科学的な扇動が連日メディアを通じてなされている。「備えあれば愁いなし」という単純な理由で敵国からの防衛をすべきだ、自衛戦争準備だと軍備増強派が声を荒げる。大学入学資格を与える外国人学校の対象を、米国と英国の学校評価機関の認証を受けたところにのみ認めると文部科学省は決め、朝鮮学校などアジア系卒業生への差別が公然とまかり通る。2003年4月に内閣府が発表した「人権擁護に関する世論調査」によると、在日外国人について、日本国籍をもたなくても日本人と同じように人権を守るべきだと考える人は54%で、6年前の65.5%から大幅に低下していた。外国人が不利益な扱いを受けることについては、「差別だ」が30.4%で前回比で9.5ポイント低下し、「風習・習慣や経済状態が違うのでやむをえない」が28.3%(同2ポイント増)であった。

あれだけ「拉致は 人権侵害だ」といいながら、「脱北者」や難民や外国人をうけいれようとしない政府・外務省、そして多数派国民とは、なんなのか。人権侵害を自国民の一部にだけ限定し、自分たちの加害者性に目をつむる者たちの愚かさ。拉致問題を叫ぶナショナリストも、安易に移民をうけいれるなという。条約難民・政治難民ではないが、人道的見地から、ひどい自国を出て他国に移りたい、逃げたいという人を、国籍に関係なく保護すべきと考えるのが、人道主義ではないのか。国際的に大量の難民を受け入れる義務があるのに、日本は全く排外的なままで、入管管理体制もひどいままである。2003年に議論されている入管難民改正法案もひどいものでこれまでの消極性を維持したままである。日本はなんという狭量、身勝手な国であろうか。