ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

ロシアのウクライナ侵攻の問題 追記

ロシアのウクライナ侵攻の問題 追記

 

いろいろ議論はありますが、私の基本的立場はこえまでも記述したので、追記として。

 

ウクライナも約束を守っていない、NATOに近づくなどロシア侵攻の口実を与えたから悪い」が間違いなのは、口実を与えられても、侵攻しなければいいのに、暴力的方法を選んだ点で100%ロシアが悪い。これはDVや児童虐待やいじめやパワハラのケースで考えると分かりやすい。(DV問題でなんでも考えるのは適さない場合もあるが、重なる点も多いので、考える価値はある)

パートナーがもし何か問題言動をしたとしても、だからと言ってDVをしていいわけではない。いじめでも同じ。

だからロシアが100%悪いというのは当然。

だが、それにたいしてナショナリスティックに、ウクライナの主流派が軍事的に戦う方針を選んで国民の犠牲が出ている現状を支持するということにはならない。私はどこの国でも、戦争・武力行使によって死ぬ人が出てくるので、マッチョに戦うことを肯定しない立場であるということです。『逃げる』「負ける」ということの大事さを考え、そのうえで、長らく主流秩序に対抗する非暴力的な戦い方をとる立場であるということ。

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次に、ロシア・ウクライナ問題にかこつけて、日本国内の右翼、防衛産業とつながっているナショナリストや軍事増強派が、火事場泥棒的に防衛費GDP2%化(倍増)や敵基地の先制攻撃可能化、核武装や核シェアリングをもくろみ、みんながそれにのせられている。

平気で、もし日本が「中国やロシアから攻めてこられたら」といっている。絶対におかしい。

ヨーロッパとは異なって、日本がまともな政治・外交をしていれば、中国やロシアが日本にウクライナのような、都市にミサイルがバンバン飛んできたり戦車が来て支配されるというような侵攻をうけるはずがない。

あるのは、尖閣や独島・竹島や保峰領土の争いだけである。そこは外交で交渉し続ければいいのであり、それをもって大事(軍事対立・戦争)にしないことが大切である。戦争をしないことが大事ということがわかっていない。

対立を激化させないためにも、軍事費等減らしていけばいいのである。集団的自衛権など持たないこと。それが憲法の精神である。軍事費を増やして、緊張激化させるなど愚の骨頂である。今の日本でさえ、軍事大国で自衛隊はかなり強い軍隊となっている。これ以上軍事化するのは不要である。

だがさらなる軍事大国化を狙う勢力は外国から責められるかもしれないと緊張激化を望み、慰安婦問題や拉致問題を悪用し、国民感情を外国憎しにもっていく。今まさにそれが今、行われている。専守防衛というのも憲法9条も危うくなるような状況である。戦争をしたがる勢力は、まるでウクライナのようなことが近々起こるかもしれないというような嘘を言って、国、領土、国民の命、民主主義と自由を守るためにも闘わないといけないかのような主張を言う。

架空の「侵略されるかもしれない」という幻想を煽り、そのうえで、小さな領土問題を過剰に扱い、それをもって国と国の戦争だと言って大きな戦争に拡大したがるのである。そして実際は戦争をしたいというより、右翼勢力や軍需産業と結びつき、自衛隊など軍隊勢力と結びつき、自分たちの利権、勢力を大きくしようとしているのである。軍拡して、ナショナリズムを煽り、軍事大国化したいと思っている人たちが、ロシア侵攻を好機ととらえて、自分たちの勢力を大きくしようとし、予算を大きく取ろうとしているのが現状である。

第二次世界大戦・太平洋戦争の直前の時代と同じく、異論を言いにくい空気が醸成されつつある。日本が攻められるはずがないということは全く考えに入れずに、「攻めてこられたきどうするか=軍事的な話」から始めるのが当然とされているのである。自衛隊幹部の発想が国民に広がっている。右翼勢力はほくそ笑んでいる。

おかしな状況である。

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次に、テレビなどのメディアに非常に多く登場している高橋杉雄(防衛省防衛研究所 防衛政策研究室長)氏のような考えが大手を振って歩いているが、私には、おかしいなと思えることが多くある。

それはいわゆる右翼系だけでなく、リベラル系でも、ウクライナの軍事抵抗を自己決定と民族解放の闘争として評価し、武力抵抗を全面応援すべきという人がいる。そういう発想の延長で、北朝鮮がミサイル実験をしたり、中国の船が尖閣周辺の領海に入ってきたら北朝鮮や中国を批判しないといけない、慰安婦問題でも日本の立場を言っていかねばならない、自衛隊を認めて攻めて来られたら軍事的に戦うのでいい、米国との軍事同盟で日本の防衛をするのがいいというような人が増えている。

 

高橋などの主張は、各国には主権がある。国際社会の最高の権力と権威は主権国家だ。だから各国に選択の権利がある。自国の軍事力を大きくするとか、どんな兵器を持つとか、軍事同盟に入るとか、長いものに巻かれるとか、どの道を選ぶかはその国が決めればいい。他国が口出しすべきでない、というようなことを言う。力による差があると主権は守られないので、小さな国などはNATOなど軍事同盟に入るなどしなくてはならない。ことを決めるのは軍事力だというのが前提として強くある人だ。

また、世界観として、力と力で現実の政治は動いている、軍隊の戦略として勝たねばならない、日本が攻めてこられることや台湾有事なども考え、日米軍事同盟と集団的自衛権でかかわらなければならない。日本だけ守ってね、でもほかのところは助けないではだめという。

この発想だと道はただ一つ、今後台湾有事や領土問題やどこかで争いがあると日本は自衛隊を出して一緒に戦うことになる。敵基地攻撃も絡まって、攻められるかもしれないから先制攻撃的にどんどん相手国を攻撃するということも行うことととなる。軍事費は当然もっと大きくしていこうとなる。2%化というのは米国と中国に次ぐ、世界第3位の軍事大国にしようというのである。

 

こうした高橋氏のような主張の「前提、間違い、見えていないもの」を確認しておきたい。

各国が安全保障を自分で決めて好きにすればいいというが、国連改革を含め、世界的地域的に各国が連携して平和をめざそう、そのために何をするかという世界全体での平和追求の発想がない。高橋には、そのようなことは無理だ、国連や国際法には限界がある、国と国はパワーゲームで戦うしかない、大事なのは軍事力だと思い込んでいる。

また高橋には、1国のなかの国民の間に意見の違いがあることが尊重されていない。国の中は一色のおなじ考えではない。一国内に複数の民族がいるかもしれない。野党も左翼も民族主義者もいる。議論しても意見の一致を見ないことがある。選挙で勝った方が何でもしていいとはならない。だが高橋は、議論が必要と言いつつ、そのうえで、軍事的に強化する道を選ぶべきだという立場である。だがこの発想だと、強い者たちが多数となって、少数の弱者の命を軽視するということがあるので、障がい者や高齢者や体力的にたくましくない者たち、所数は民族、また非暴力主義者たちが、国の方針に反対することがあってもいいのだが、高橋にはそうした異端者、少数派の意見の尊重とか、弱者が戦争を嫌がることなどへの配慮がない。弱者は戦争で死ぬのである。だが高橋たちの発想では、そうした犠牲は仕方ないとなる。「国全体で議論して民主主義手続きで決めたことでしょ」となる。まさにウクライナで今、民間人が多く死んでいるのも、自由主義体制、ウクライナという国を守るために必要な犠牲とみられている。それは、主流の支配者の視点でのものの見方なのである。

 

また上記とも絡むが、高橋にはそもそも、非暴力主義の思想の歴史を受けての深みがない。軍事増強化が相手との緊張を高めるので、その逆に武器を持たないことが緊張をやわらげ、日本と軍事的に対立しないように仲良くしようという空気を作っていく、それが日本の安全を高めるという視点がない。「強さを示さねばならない」という発想は、チキンゲームの発想である。それはどちらかが引かねば最終的な地点、つまり、核保有国間のより広い世界戦争に突入する可能性を高める。高橋の発想は、戦争拡大への道を止められない。チキンゲームから先に降りて、「自分(日本)は戦おうとは思わない、武器も持たない」というのが、日本がとるべき国際社会への貢献の道であろう。

最後に、高橋のようなものの見方は、軍事中心で、その他のことを含めた総合的視点で考えるという点が弱い。歴史も、地政学的なことも、民族のことも、国内の政治的な勢力の多様性も、福祉国家としての道のあり方も、予算の制約も、累積赤字の拡大も、様々なことを含めて、国防費をどうするか、憲法をどうするか、政治・外交交渉をどうするかが決まる。高橋は、軍事力を高め、日米軍事同盟をさらに強化し、力を見せつけて、近隣国と対立してでも日本の主張を通すというスタイルである。軍事発想に偏りすぎている。

私はまさに、憲法の精神を生かすような、私たち国民のひとりひとりが非暴力主義を身に着け、主流秩序に従属しないような存在になる方向を目指すようなことが大事と思っている。もちろんそれは安易ではない道だ。だがそういう人がいてもいい。

それを大雑把な話で「議論の上で選挙して選ばれた国会議員が決めたのであるから従うべきだ」というのは、私は認めない。民主主義だから多数決と選挙を認めて従えというのは全体主義国家の発想である。そんな国は、「愛国を煽るロシアの現状」と同じではないか。国旗国歌を押し付け、従わない教員を処分し、一人一人が従順に従っているかチェックし、文句があるなら公務員をやめろ、日本を出て行けというのはファシズムの国である。愛する国のために若者よ命をかけて戦えというような国はおぞましい。各国の徴兵義務化の中で、兵役拒否を選ぶ人々の運動を私は支持する。

高橋にはそういう感覚が感じられない。

テレビなどのメディアと政治分野で、高橋的なものが跋扈していることは異常である。せめて賛否両論の論者が出るべきであろう。偏った情報しか流さないのは、ロシアと近いということである。

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ゼレンスキー大統領は、「ほしいのはフルーツでなく武器だ、最後まで戦う」と言って尋常ではない精神状態になって来ている。「私たちは、領土、こども、家族を守っているので、武器を置くつもりはない。勝利するまで!」といっている。今後、妥協的な交渉をする可能性もあるが、本当に犠牲者を減らすための本気さが感じられない。チキンゲーム化している。

ロシア・モスクワ経由で日本に来ているウクライナからの避難者がいる。ロシアに逃げた人が皆「奴隷」「虐殺」になっているわけではない事実も見るべきである。

ロシアがしていることはひどいが、国際的な監視を含めてうまく対処すれば、病人や子供や高齢者などが『攻撃されている戦争の街』から逃げるということはできる。ロシア経由でも命大事にすべきではないか。だが西側は武器をドンドン送って「ロシア対ウクライナ」の戦争という武装対立を援助している。

ウクライナの中にも反戦活動家、左翼、非暴力主義、親ロシア、などの人もいる。ウクライナを一色とみるべきでない。

国という抽象的なものや領土へのこだわりは 多くの犠牲を伴う。いま、ウクライナとロシアはチキンゲームで「勇気を示す強気戦略」をとってしまっている。それは正しいのか。

それは政治的な戦いになっている。犠牲者がいることの評価・重みが私と好戦論者で違う。

 

今、どんどん、ウクライナの民間人や軍人の犠牲者が出ている。こういうひどいことがあるから狂気の相手に戦争を続けること自体が間違いではないのか。

先ず戦争回避の外交がいるし、戦争が始まっても何とかして外交、妥協してでも停戦、そして皆をとにかく逃がすことが大事であろう。「逃げるな!闘え!」という号令ではなく、命を助けるため逃げる道、最悪ロシア側にでも逃げることを推奨すべき。

もちろん、そのかわり安全を確保するための保証がいる。レイプや虐虐殺、へき地送りなどがないような交渉とあわせて。

政治家は短期的な自分の人気取りのために、むつかしい課題から逃げるべきでない。国民に非暴力思想を啓発すべき役割もあるだろう。国民の側から、自らの生き方の延長として、非暴力を提起していくことこそ、憲法の精神だろう。

共産党立憲民主党も選挙目当てで、はっきりものが言えなくなっていて、現実の政党はむつかしいものだと思う。

非暴力主義に対して、「占領されることの意味を知らないのか」と馬鹿にして切り捨てる発想がはびこってきている。しかもその時、論者は、日本がソビエト・シベリアでされたことを言うが、日本がアジアで行った占領の残酷さ・非人道的なことは言わない。天皇ヒトラーと並んでファシズムリーダーであったという世界の認識にも、パールハーバーの話にも怒る。日本がファシズムでアジア侵略国で、南京などの虐殺をした国であったことさえ認めない空気だ。

 

「国を愛する」というのが、今のロシアを見ていてもグロテクスだ。

「あなたにならいえる秘密のこと」のような感性を理解できないひとには、私の言葉も届かないだろう。戦争に対して、私が支持するフェミニズムは、「女性も軍隊に入って昇進すればいい」ということではなく、それも一つではあるが、戦争で多くの女性が被害者になり、またこどもたちが死んで悲しいという親の視点を思い出して反戦争になるような感性である。高齢者や障碍者がじゃま者扱いされる社会を忌避するのが私のフェミである。国という旗のもとに命を懸ける、ぎらぎらしたマッチョへの嫌悪感側のフェミ的感覚である。軍隊の指揮命令の強権性が嫌いである。「命令は絶対だ」は嫌いである。軍隊を使っての政治は嫌いである。

今、テレビには男性だけでなく女性もこのことを訳知りに「国を守るためには‥・・・」と語るような人が多く出ているが、そうしたひとの感性を私は信じない。第二次大戦を思い出す。戦争体制への大衆の加担は主流秩序への加担の典型である。