ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

小泉悠氏の意見を批判する

小泉悠氏の意見を批判する

2022年5月5日

前回は高橋氏を批判したが、よく似た論理の小泉氏を今回は取り上げる。小泉悠氏(以下、敬称略)はテレビや新聞によくでている人物であり、ネットでも以下のようなことを語っている。

小泉悠「ウクライナ戦争、終結のジレンマ」 https://youtu.be/Cn4c7X2w7Eg

小泉悠×池内恵×千々和泰明「戦争の終わらせ方」 #国際政治ch 119

https://www.youtube.com/watch?v=Nl8D8gsJ3nA

 

この種の意見が幅をきかせていると思うので、批判しておきたい。

私は彼の感覚、意見、考え方に反対だ。自分の意見だけが正しいという姿勢はおかしいと思うが、小泉は視野(思考の枠)が狭くなって自分の正しさに閉じこもっている。「ジレンマ」という言葉でごまかしている。そのことに自覚がない。自分と異なる意見を見くびっている、その意味で無知である。

以下、いかに視野が狭くなっているかを指摘しておきたい。

 

小泉だけでなく、ロシア侵攻問題での意見の違いで、相手を馬鹿にするような風潮が一層激化している。それ自体が問題と思う。

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小泉らの主張は単純で同じ視点で1つの主張を繰り返している。

それは「ウクライナは軍事的に、徹底抗戦し、一定勝たないと、ひどいことになる!ほかに選択肢はない。」という主旨である。

その主張だと、チキンレース状態になって戦争が拡大していくこと(大規模戦争、第3次世界大戦、核戦争)については、ジレンマといって、思考停止しているだけである。主観的な希望的観測でそうはならないだろうと思い込んで「徹底抗戦しかない」と主張している。

 

以下、それを、まず確認しておく。

小泉および千々和泰明等の主張

停戦はテーブルの上でおこなわれるのでなく、戦場の力関係で決まる。だからウクライナが抵抗し、一定の勝利を収めないと、まともな停戦にならない。

闘って交渉条件を有利にしないと、停戦にならない。戦うことが停戦には必須の条件。

ウクライナが「支配されていいですよ」というなら外野の我々が言うことはないが、一定のまともな停戦になるには闘いが絶対に必要。

占領された後、虐殺されているので、負けたら拷問、虐殺、レイプが行われる。領土が奪われ、祖国が亡くなる。その意味でウクライナはロシアに降伏できない。してはならない。ウクライナにしたら抗戦しかない。 

米国も支援しているし、一方的に負けるとは限らない。核戦争になるかもしれないのはジレンマ。でもロシアとしてもNATOが参戦するのは困る(から、ムチャをしないだろう)。

核を使っても、その後、ロシアは優勢でなくなるから(使わないだろう) 

核を使っても戦争は終わらないで、ロシアが終わる(だから使わないだろう)

政治的目的の達成にならない(だから核を使わないだろう)

(だからウクライナの徹底抗戦はしてもいいだろう) 

「戦争終結なら何でもいい」のでなく、どのような条件によってもたらされた終結かが大事だ。

「平和の回復にとって重要なのは それがどのような条件によってもたらされた戦争終結であり、それによって交戦勢力同士が、お互いに何が得られ、何が失われるかということである。ここに戦争終結のジレンマを問う意味がある。」千々和泰明著「戦争は以下に集結したか」p275

 

ウクライナが屈服すれば戦争は終わるが、それは本当の解決ではない。

すぐに終わらせたいのはやまやまだが、どういう形での終結かが、戦後の世界の政治、世界のあり方を決めるから、今、ウクライナが闘うことには意味がある。戦ってもらわないと困る。

第二次世界大戦でも、ドイツが勝った後の世界をどうするのか、ということで、第二次大戦は、下手に集結させずにドイツと徹底的に戦った。今回、ロシアが勝ったら、たいへんなことになる。だから世界(日本や西側諸国など)は、とにかく戦争を終わらせるためにウクライナに降伏しろとは言うべきでなく、徹底抗戦させて、ロシアをやっつけないといけない。(戦後のよき世界のためにも、ロシアを勝たして、自由にさせてはいけない)

小泉らの主張、終わり

注:「( )」の中は、明確には言わないが文脈上、それを言っているという内容

 

「小泉悠×池内恵×千々和泰明」の3人は、こうしたことを繰り返して言うだけ。

この程度の話で、「なるほどそうだ」と思う人がいるのが現実だ。

私とは大きく、「今まで何を考えて生きてきたか」が違うと感じる。

これは、私(伊田)から見れば、同意できない意見だ。どっちが正しいではなく、少なくともいえることは、意見の違いがあり、どちらかだけが正しいと言えるものではないということだと思う。私を含め、非暴力主義の側の意見を理解していないという意味で、視野が狭い意見をいっているが、エラそうに自分が一番わかっているというように論じ、「降伏すべき」「停戦すべき」というような傾向の意見を、よく知らないで、浅い意見と見下して批判している。

小泉らの思想、政治路線があることは私は当然、承知するし、それもあるということは分かる。リアリズムということで、多くの人がそれに囚われている。歴史はほとんどパワー・暴力武力・陰謀・買収で動いてきた。私の言葉でいうと、主流秩序に沿った思考の人が多いことは分かる。だがそれは、正しいということではないし、私もその意見に同意しないといけないということにもならない。伊田の考え方が間違っているといわれるものでもない。

小泉らの思想・路線は、「力で正義を実現させようという思想」であり、それがリアリズムだということで、そうでないものを「お花畑」「空論」とレッテルを張って馬鹿にするスタンスだ。

私は、それも一つの現実主義と認識するが、しかしそうでない道が見えているので、見えていない人のくちぶりには困ったものだと思う。ウクライナの政治家や軍人や一般庶民も、多くは、「戦争を経験して、非戦・非暴力のような思想と格闘して到達した」というのでなく、いまだ素朴に、武力には武力で、そしてナショナリズム的なものに引っ張られているなと思う。

小泉や高橋、それと類似のインテリやメディアたちの発想は、単純だなと思う。そこに悩みや迷いや複雑さがない。政治だけでなく、一人の命の重みの前で悩む姿勢、過去にいかに暴力と非暴力で悩んだのかの深みが感じられない。

言っているのは

「今回は、プーチンは、ウクライナを屈服させて支配するまで戦争を辞めないだろう、そういう場合、話し合いでは落としどころは見えないから、プーチンは話し合いに応じない、パワーで抑えないといけない、それしかない」

ということだけだ。

しかし、矛盾がある。もし「プーチンウクライナを屈服させて支配するまで戦争を辞めない」としたら、ロシアが勝つまでは終わらないということにもなる。それに対して、そういう「暴漢」「悪魔」を力で抑える以外に、そういうものから逃げるというのが現実的な選択肢としてある。小泉たちはそこの選択肢を考えず、チキンゲームに応じて相手を屈服させるしかないという。馬鹿相手に、こっちの強さを見せつけてやるというチキンゲームで勝とうとしているのだ。相手に勝てるのか。チキンゲームの結果はどうなるのか、ということを考えないといけない。以下そのあたりを、伝えていきたい。

 

小泉的な人たちは、リアリストだということで「リアルなパワーが必要」といっているだけ。単純な頭の持ち主の考え方である。そういうひとは、理想主義、ユートピア主義は空論で意味がないというし、そうとしか思えない。其れは視野が狭く、軍事的にしか世界を見ておらず、知性の欠如だと思う。

愚かである。それならば、戦国時代と同じである。

小泉の言うようにロシアが絶対にひかないなら、ゲーム理論が示すように、妥協したほうが自分の利益になる。だが小泉たちは、そんな事をしたら世界(の勢力関係)がひどくなるので、ならず者の横暴を許さないようにしないといけないという。だが、ロシアは屈服しないので、小泉たちの議論は矛盾にぶち当たる。ウクライナがロシアに戦争で勝利するのはなかなかむつかしいので、実は小泉の路線に展望はない。非合理的かつ主観的に、何とか、ロシアが戦争で不利になる中で停戦に応じてほしいと思っている。願望的には軍事的に勝ちたいと思っている。とにかく力でロシアを抑えるしかないという発想だ。つまり、結局は「パワー、それしかない」という昔ながらの暴力主義のままで、しかし、ロシアには勝てないし、プーチンは妥協しないので、小泉たちは展望を示せない。米国の武器でロシアに勝ちたいという方向ばかりに目を向けている。とにかく軍事的にしか考えない。

それなのに、何か真実を言っているような口ぶりで、結局、「抗戦しかない」と繰り返すだけだ。あとはウクライナの抵抗する人への共感の気持ちという精神主義での、「戦い・戦争の美化」だ。戦争映画を見て感動するあれだ【それは右翼も、左翼も、ヒトラーも好きなもの。戦意高揚はいつも為政者が考えるもの】。それがリアリズムだと言っているだけ。

この理屈だと、相手が絶対的な武力主義者だと、こっちも力で抑えるしかないということになり、戦争はエスカレートするしかない。核戦争の危機も出る。プーチンが絶対にひかないおかしな奴というのが小泉の主張の出発点だから、デッドエンドまでいくしかない。小泉のプーチン観だと、小泉に答えは出ない。

***

それに対し、いくら相手がプーチン(暴力主義・ひどい奴)であろうと、何とか「話し合い」をしていこうとするのが、交渉による政治なのではないか。 

それでもうまくいかないかもしれない。しかし、交渉しかない。 そしてその中では、妥協、敗北、がある。 敗北しても、無限の戦争のエスカレートよりもマシということを選択肢に入れる必要があるのは当然である。ゼリンスキーの言うように「最後まで戦う」というのは、まさに日本が言っていた精神主義であり、命の軽視である。ゼリンスキーは「とにかく武器をくれ」と言っている。ウクライナの中で、どの路線で行くかの話し合いを重ねようとしていない。戦うみちしかないということを国民に押し付けている。

「逃げる、負ける」という選択肢を理解する人が少なすぎる。それは、世界中で積み重ねられてきた、非戦の努力、紛争解決の努力、和平プロセス、そして日本国憲法の精神が忘れられている。知らない無知。

それは「戦争はもうこりごりだ」というところから生み出された多くの経験値が、忘れられているということ。「国が亡くなる、郷土が奪われる、こんなひどいことをしたやつらが憎い、ゆるせない、死んでもいいから相手と戦いたい」などという、過去にあった感情の動員によるナショナリズム的な戦争の思想でとどまっている。

 

だが、その結果はいつも悲惨である。ひとりの人間にとって人生は一回きりであり、愛する家族や知人を失ったり大けが・障害に至らせる戦争は、とにかくしないこと、減らすこと、早く止めることである。

暴漢にナイフや銃をちらつかせられて「金出せ」と言われたら金を出すのも生き残りの方法である。レイプされそうになったら、「命を懸けて貞操を守れ」ではなく、レイプされても生き延びる道もあるという選択肢を残すのは当然である。もちろんレイプなど許せない、ひどいことである。加害者は許せない、殺したいほど憎い。でも、現実的には、悪いのは加害者であり被害者は抵抗しない選択で生き延びてもいいのである。

そんな中で死刑制度も論じられ、徐々に死刑制度は廃止されてきている。個人の復讐・リンチも禁止されている。「目には目を」ではない、修復的司法の視点での刑法の改革も、囚人への教育的かかわりも進みつつある。

そんな時代にそういうことなどないかのように、リアリズムは、銃を持ってロシアと闘うことだという。武器は異常に発達し、戦争のレベルは高度化している。最新化され組織された軍隊に武力で勝つのは昔以上にむつかしくなっている。だから政治闘争も武力革命ではなく非暴力的な政治闘争が指向されている。 

***

今の日本でも差別する人がいるし、ひどい政治が無数にあり、それに怒りがある。今、日本でも不当弾圧、不当逮捕などもある。だがそれが許せないからこちらも銃を持って反政府勢力となって戦うか、ゲリラをするかというと、それはしないという立場だ。昔と違って今はそういう戦いで社会を変える、革命するということが適さない時代と思う。つまり今でもひどいことをされる人はたくさんいるが、それでもだから爆弾やナイフを持って戦えとはならない。言葉によるいじめ、集団いじめが「ロシアの侵攻」よりも軽いと言える感性に私は反対である。もちろん、戦争、爆弾・爆撃で人を殺すなど絶対に許せない。しかし、命を奪わなくとも、殴ったり、皆に笑われたり、リンチされたり、無視されたり、誹謗中傷されるなどひどい人権侵害はある。性暴力、いじめ、DV,パワハラ、セクハラで許せないレベルのものがある。それを軽視することなどできない。加害者に対しては、デスノートに名前を書いて抹殺したいと思う人は多いだろう。拷問して苦しめたい、同じ苦しみを味わわせたい、と思う人は多いだろう。当然だ。

だが、しかし、でも、今の時代、そうした犯罪者や加害者、悪質なものに対して、殺すとかリンチするとか、武器で抹殺する、拷問するような戦い・報復という解決策を私たちはとらないはずだ。そうした加害者を死刑にも処さないというのが、私の、そして死刑反対派のスタンスだ。

そこには、深い、暴力への「忌避する感覚」がある。動物の「と殺」にさえ、今やアニマルライツとして、その命をとることを見直そうという人が増えている。

殺すことには痛みがあるのだ。人を殺すこと、動物を殺すことへの躊躇がないことへの違和感を持つかどうか。

戦争の経験は、そして、軍人・兵士は、徐々に殺人や死体に慣れていく。軍隊内の暴力や理不尽な命令やいじめにも慣れていく。軍隊とはそもそも、相手を倒す訓練をするのだ。銃だけでなく様ざまな武器の使い方を訓練する。標的を破壊する訓練。爆弾投下、ミサイル発射、ドローン攻撃。街を破壊し、人を殺す訓練…。

そういうことに違和感、忌避感、おぞましいとおもう感覚、怖い感覚、できない感覚、そういうことを大事にしたいとおもう人が、人権やフェミや非暴力や反戦争、死刑制度見直し、入管制度の改善を語っている。軍隊があるとしても、不当な命令には従わないための「兵士の抗命権」の確立を求めている。

そこでいのち、人権を大事にするからこそ、暴力・軍事・攻撃を忌避するからこそ、人権抑圧にも、武力・暴力ではない形で対抗しようとしている。「新撰組」的有り様を気持ち良いとは思わない。

映画やドラマだから何とかヒーロー/ヒロインが相手をばったばったと殴り倒したり、銃を乱射したりするのを娯楽としてみているが、敏感な人はそういうものにも少しずつ違和感を感じている。そういう「目には目を」「武力にはより強い武力でやり返す」ではない物語を好むようになっていく人は多い。

過去は、それでも負ける闘いでも身を投じるしかない時代もあった。私はそれは素晴らしいとおもうし、美しいと思うし、その犠牲の上に今の社会があると思うので、闘いを引き継ぎたいと思う。

だが、2022年の現在、ひどいことに対して、こちらが銃や武器を持って戦うことは選ばない。加害者と同じような感性では、戦わない、戦いたくない。同じ世界に堕ちたくない。それは暴力への従属であり敗北だ。軍人的世界観への堕落だ。私たちは、その「戦い方」に違いを見出すだろう。

いま、暴力には、非暴力で戦おうとするのだ。たとえば、軍事力・武器を放棄し、無防備地域宣言をだすことで。兵役拒否をすることで。

昨日、テレビドラマ『悪女』で わかりやすく女性差別問題を扱っていた。1980年代のこのマンガが、今ほぼ同じ内容でドラマになっても古びないという、この40年の停滞。そこに怒りを感じるのは私だけではない。こうした差別・抑圧には腹の底から怒る人がいてもいい。私もその側だからフェミニストだ。

 だがだからといって差別するやつを殴るかと言うとそういう戦い方を選ばないのが私たちのスタンスだ。

そうした基本に関わるのが、「外国から侵攻されたときどうするか」であり、「尖閣などの領土問題や台湾有事で、軍隊での戦争参加に賛成するかどうか」である。それは奴隷になるということではない。ロシアと戦わないと、レイプされ、虐殺され、シベリア送りだという単純な言い方で、あれかこれかを決めつけるのは、和平プロセスや交渉の丁寧なあり方(それによる結果の多様性)を無視した、議論の仕方だ。その発想だと、どんな戦い・争いも「勝つしかない、負けたら終わりだ」となる。そういう人は「勝った」ときに傲慢になるだろう。勝ったこと(武力を行使したこと)への反省が生まれにくいだろう。

どこまでも同じ単純な論理だけ。それを防衛省の下部機関の人間たちがテレビで広めまくっている。日本国憲法など全く無視して。

戦争の経験を忘れている日本になってしまった。

***

ミスチルの「タガタメ」(アルバム 『シフクノオト』2004年 所収)は言う。

 

この星を見てるのは

君と僕と あと何人いるかな

ある人は泣いてるだろう

ある人はキスでもしてるんだろう

子供らを被害者に 加害者にもせずに

この街で暮らすため まず何をすべきだろう?

でももしも被害者に 加害者になったとき

出来ることと言えば

涙を流し 瞼を腫らし

祈るほかにないのか?

 

タダタダダキアッテ (ただただ抱き合って)

カタタキダキアッテ (肩たたき抱き合って)

テヲトッテダキアッテ (手を取って抱き合って)

 

左の人 右の人 

ふとした場所できっと繋がってるから

片一方を裁けないよな

僕らは連鎖する生き物だよ

 

この世界に潜む 怒りや悲しみに

あと何度出会うだろう それを許せるかな?

明日 もし晴れたら広い公園へ行こう

そしてブラブラ歩こう

手をつないで 犬も連れて

何も考えないで行こう

 

タタカッテ タタカッテ (戦って戦って)

タガタメ タタカッテ (誰がため 戦って)

タタカッテ ダレ カッタ (戦って 誰 勝った?)

タガタメダ タガタメダ(誰がためだ?誰がためだ?)

タガタメ タタカッタ (誰がため 戦った?)

 

子供らを被害者に 加害者にもせずに

この街で暮らすため まず何をすべきだろう?

でももしも被害者に 加害者になったとき

かろうじてできることは

相変らず 性懲りもなく

愛すること以外ない

 

タダタダ ダキアッテ (ただただ抱き合って)

カタタタキダキアッテ (肩たたき抱き合って)

テヲトッテダキアッテ (手を取って抱き合って)

タダタダタダ (ただただただ)

タダタダタダ (ただただただ)

タダ ダキアッテイコウ (ただ抱き合っていこう)

 

タタカッテ タタカッテ (戦って戦って)

タガタメ タタカッテ (誰がため 戦って)

タタカッテ ダレ カッタ (戦って 誰 勝った?)

タガタメダ タガタメダ(誰がためだ?誰がためだ?)

タガタメ タタカッタ (誰がため 戦った?)

 

***

ミスチルの歌を含め、そこで格闘されている水準に立ちたいと思う。

こうしたことにかかわるので、非暴力主義のそうした点を考慮しないで、ユートピア主義、空論だと馬鹿にする人たちこそ、愚かだなと思う。

たとえばネット記事で見たが、伊藤千尋というジャーナリストは、「周囲の人が侵略者と戦っているときに逃げるのは、はっきり言って卑怯だ」「抵抗もせず手をあげて相手の言うなりになるのは「奴隷の平和」であり、「悪」を認めることです。人類の歴史を後退させることだ」という。上記と同類である。あまりに浅くて、言葉を失う。

 

またMLで岡林さんが、非暴力主義派を批判しているが、その内容も、口調も相手を見下す感じで、すこし暴力的だなと感じる。

岡林は、「丸腰で抵抗しろと言っているようでは日本の平和運動は誰も相手にされず壊滅していく」「国家権力を獲得することを目標にした政党の見解やその選挙政策では、徹底したリアリズムで妥協もした政策を示して支持を得なければならない」「どうやって具体的に現実的な国民合意にできるか」「観念的な非戦論では今の日本では選挙で多数派になれない」というように、とにかく国民の多数の支持を得ないといけないという考えにとらわれている。

それは政治や運動の一部の話であって、暴力にどう自分は向き合うのか、スタンスをとるのかという話のすべてではない。それなのに岡林は、政党の話や選挙の話こそが中心課題かのように決めつけている。「政治的に勝たないと実現しないでしょ」という発想だろう。

ある種の人が、政治的にどう影響力を持つか、選挙でどう勝つか、いかに多数派になって権力を握るかに関心があるのは分かる。でも、私が今、暴力にどう向かうかという話をするのはそれとは違う次元なのだということ。政治的に勝つのはむつかしいという現実というところから出発し、それでもどうするかが大事で、それが市民国民一人一人には大事なことだということが岡林には見えていないのだと思う。

だから言い方が、「違う分野の話をしているという謙虚さ」や優しい伝え方がなく、何でも自分の土俵でないとだめという切り捨て方になっている感じがある。

言い換えれば、選挙に勝つかどうかの話だけが大事と思うのはそれは一つの政治的なスタンスであって、生き方としても思想としても私とは異なるスタンスだ。私が言っているのは多数派になるための戦いのことではなく、自分の生き方のことなのだ。それは常に主流秩序にどう向かうかという問いがあるという感覚。

 

他の人に理解されなくてもいい、賛成されなくても、それはそれであって、自分の生き方が揺らぐ問題ではない。私はそうした生き方はしないし嫌いだということ。

このように言うと、「ああそうですか、それならご自由に」、と言って、自分たちはまた政治の話をするのだろうけれど、話はもう少し入り組んでいて、私は、政治にそのように期待したり中心化すること自体に問題があるんじゃないかと思っている。

 

そこを 伝えるために、分かりやすく言えば「私に政治的な答えはない。そのなかでどうするのか」ということ。

どうすれば選挙に勝ってこんなクソみたいな自民党政治を止められるのか、私にはわからない。現実的に考えて、難しいなと思う。自民党のやりかたのような、主流秩序にのって勝つ方法は分かるが、そうではないスタイルの勢力が勝つのはむつかしいと思う。だから「私たちが選挙で勝つ道がわからない」。それが私のスタンスなのだ。(それに対して、敗北主義だ、厭世的だ、そうではなくこうすれば展望が持てる、という、その展望について、話し合うならわかるが、それが、政治的に選挙で勝つ話だと、私は、展望を持てない。その背景には、主流秩序にかかわる深い問題があると思っているから。)

多くの人が自民党に投票したり主流秩序に流されており、安易にナショナリズムに流されたりし、自分はそうはなりたくないと思い、そういう人の生き方に嫌悪感を持つが、それをどう変えたらいいかは分からない。難しいと思う。(フィリピンの大統領選を見ても、トランプ支持と同じものをみる)

 

歴史的に人々は、絞首刑をショーのように喜んで見てきたが、そして戦争に勝ったと喜ぶようなところがあるが、そうした群衆の熱狂を私は嫌うが、群衆とはそういうものだろうと思う。これをどうしたらいいか、わからない。それはトランプや、プーチンや、安倍・菅・橋下(維新)、マルコスの息子を支持する人がいるという、その“どうしようもない感じの”大衆をどうしたらいいか、わからない。

そもそも、「戦争に勝った」と喜ぶことがおぞましいと思う。愛国心の多くを怪しいと思う。

 

企業では不正がしばしば起こっている。多くの人は長いものに巻かれて犯罪的行為にたいし見て見ぬふりをする。これをどうしたらいいか、わからない。内部告発の制度とかの話はできるが、あまりに多くの人が口をつぐんできたことに対して、ひとの多くはそういうものだと思ってしまう。情けなくて嫌になる。

核兵器を持ち、軍事力を持ち国際政治をパワーゲームで行う人たちがいるのは分かるがそれを現実的にどう止めるかは分からない。

野党を批判する人は多いが、私は、自分が政治家になっても、今の野党以上のことができるとは思えない。リベラル・野党のような理想に近い方の主張を通すのはむつかしいのだ。与党もダメだが野党もダメというような奴らこそ、自分はしていないのにと思う。自分が政治家になれば、今の時代、いかに、この「悲惨な状況」を変えるのがむつかしいかがわかるだろう。悪い政治ならいくらでもできるが。

 

つまり、主流秩序にそって生きている人がいるのはよくわかる。だがそれを止めるなんてことがどうしたらできるか、わからない。

(ちなみに、小泉さんたちに、「私が分かりたいこと」がわかっているとか実現能力があるとも思っていない。ほとんどの学者は語って仕事にして金儲けしているだけである。テレビに出ている、言い切れるような学者は主流秩序にべったりで見ぐるしく胡散臭いと思う。)

 

分かっているのは、教育とか、素晴らしい作品とか、個人的かかわりとか、良質な治療とか、社会運動などで少しは、変わる人がいるということ。でもそれは少数だろうなと思う。静かに一人一人が内省的に変わっていくようなことが大事と思うが、それは静かで、個別で、小数であって、大きな政治的な熱狂とはかけ離れていると思う。

そして、もうひとつ、わかっているのは、こちらも相手に対抗して武力やその他「様々な現実的な手段」で戦えば解決するというのではないということ。

このあたり、意見は分かれると思う。『グッド・ファイト』第3シーズンでは、トランプを再選させないために、汚い手使ってでも勝たねばならないという人たちが出てくる。相手がやっているんだから、コッチはいつまでも「きれいな手」でやっていては勝てないというスタンスだ。

そのように考える人が出てくるのは分かる。リアルに勝つには、基本、そっちだろう。だから実際に政治に携わっていると、米国民主党のようになるだろう。だが、私は、緑の党も、市民運動NPOも、少数意見の反体制の思想家もいてこそ、民主党などもましな政策を徐々に取り入れていくだろう、と思っていて、私は、そういう民主党の外側の役割で良いと思っている。

共和党に対して、民主党的とか、汚い手を使って現実的に勝っていく、というような、そういう現実主義もいるが、私は、そういうことに興味を持てず、自分は違うところで生きたいと思う。私は、自分の生き方としても、自分が周りに伝えたいこととしても、それとは違う道を選んでいる。そういう話だ。

 

長期的には矛盾が大きくなって変わっていくと思う。でも少なくとも当面の勝ち方はわからない。当面、「答え」がみえない中で、悩みながらそれでもやれることをしていくという生き方があると思う。それは身近なところで丁寧に、非暴力的に、生きていくことにつながる。

そういう世界観であるので、「これが正解でしょ」と言って、その「正解」に賛成しない人を見下すような言い方をする人が「暴力的」に見えて嫌いという話だ。

ロシアの侵攻の中で、銃を持って国を守るという徹底抗戦路線をとり、各国が軍事武器や経済的支援を続けて戦争が続く、犠牲者も増える中で、私は自分ならどうするかと考えているのである。私は、銃をとってロシアと戦わないだろう。みんなに逃げようと呼びかける。逃げることは卑怯なことではないというだろう。逃げたうえでの生きかたが問われていると思うというだろう。

 この感覚が分かるかどうか。小泉や高橋らと、違う水準で生きているというのはそういうことだ。

「答えがあるかのような水準」で生きている人とは話が合わない。

若くて愚かだと、勇んでいろいろ言えるだろう。でも、年齢をとると、大きな話で何かできるというようには思えなくなる。若さのメリットもあるが、欠点もある。私は、自分の認識の変化に見合ったスタンスをとるということだ。

 

当面、政治的に「勝てない」としても、私は、投げやりや絶望になるのでなく、今ここから未来社会を先取りするようなことはできるし、自分の生き方も変えていけるというスタンスで生きている。社会全体のDVを全部なくすようなことはできないが、目の前の一つのDVカップルの状況を変えることを、当事者とともに考えて行くことはできる。

死刑にも戦争にも暴力にも反対で、できるだけのことを今ここからしたい。そのためにまず自分が加害者的な面を見直すこと。エラそうな支配的なことをしないようにしたいと思う。主流秩序の上位で幸せと感じるような生き方をやめようと思う。

だから銃はとらないという。「抗戦が当然だ、一択だ、ほかに道はない、勝つまで武器は置くな」等とは言えない。 そうではなく、「一緒に逃げよう」というだろう。

主流秩序の世界も変えられないし、戦争もとめられない。それでも自分の道で生きていく。とにかく戦争は嫌だ。後の世界地図(世界の政治状況)のことなど関係ないと思う人がいてもいい。庶民に、そんなことまで変える力はない。先ずはじぶんと身近なところだ。

それを政治学者や防衛省の宣伝マンや政治家たちが、見下す。だがそんなことは関係ない。自分の道は自分で決めていくだけだ。

抗戦するしかないと息巻いている人は、命をもてあそんでいると私は感じる。正しいかどうかではなく、感覚の問題だ。

死刑制度に反対、ということとつながる。だが「死刑制度」について迷ったり考えたりしないで躊躇なく、受け入れるような人、そこまで考えていない人とは、話が合わない。

私のような異物、主流秩序への抵抗物を、嫌がる人がいる。私は、私の自由を抑圧する人と戦うだろう。でも銃・暴力は使わない。

米国の中で銃規制に反対する人もいるが私は銃規制に賛成の立場である。

トランプ支持派で銃社会肯定の人が銃を持つことは、私には鬱陶しいが、だからといって自分もいつも銃を持って対抗するかというと、それはしない。

***

ということで「どういう方針をとるかは国家の専権事項」なので他国が口出しすべきではない、などという発想自体を、私は批判しているのである。家族の中に個人の領域があるとみるのがシングル単位なので、国家(家族)を一つとみて、他国(家族以外のひと) が口を出すなというのはまさに古臭いという主張だ。私は、家族内の人権侵害に介入するように、他国の国家・社会にも、口を出す。人権侵害には口を出す。自決権だ、他国は口出すな、内政干渉だというのは、Dv加害者の思考感覚に過ぎない。自決権は、各個人にある。

誰もが、おかしなことには口を出していいのである。

犠牲者を数字でとらえるのでなく、一人から見ていくのである。為政者の視点をなぜあなたはもつのか。地面の虫の視点で生きたいと思う。

(5月9日に字の変換ミスなど修正のうえ、加筆)