「が」と続けないで「。」で言い切る。戦争はいけない。
以下の高橋純子さんのエッセイ―もいいところをついている。
私たちの立つタンスは明らかだ。
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(多事奏論)ブレーキが弱い国 戦争はいけない。臆病者で結構 高橋純子
朝日新聞2022年 2022年5月18日 5時00分
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――戦争はなぜ起きるの?
「人間が愚かだからだよ」
――どうしたら愚かじゃなくなるの?
「ちゃんと考えることだよ」
そんな絵本を読んだ記憶がおぼろになるのもむべなるかな、この世に生まれてはや半世紀、鼻で笑われた経験は星の数ほどあるのだけれど、なかでも時折思い出してしまうのは外務省幹部によるものだ。
「『唯一の被爆国として』だなんて、世界で言ったら笑われますよ」
だって日本は米国の核の傘に入っているんですから――。なるほど、それが本音か。しかし人にも、国にも、立ち返るべき原点というものがあるはずだ。愚かな戦争に突き進んだ敗戦国であり、被爆国であること。そこから足を放して、どうやって日本外交なるものに背骨を通すのだろう?
そんな問いを携えて当の官僚と食事を共にしたこともあるけれど、憲法9条は殴られている友人を助けられない、恥ずかしいという、いささか素朴な熱弁をふるわれたくらいで、深い話は聞き出せなかった。
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一事が万事そんなふうで、外務省担当としてまるっきり使い物にならない私は省内をぶらぶら散歩して時間を潰し、時に、敷地内にある陸奥宗光の銅像と向き合った。
戦争がまだ「合法」だった時代を生きた陸奥は若かりし頃、しょっちゅう東京・浅草に出向き、雑踏を人の流れと逆に歩いたと伝えられる。やせっぽちで腕力がないから、けんかをすれば必ず負ける。雑踏に逆らって歩き、逃げる練習をしているんだ――それを実践したのが、伊藤博文内閣の外相として対応した日清戦争、三国干渉の受諾だったと哲学者の鶴見俊輔は言う(「言い残しておくこと」)。
陸奥の日記「蹇蹇(けんけん)録」を読むと、当時の日本社会の様子が垣間見える。以下大要。
「妥当中庸の説を唱えれば卑怯(ひきょう)未練、愛国心がない者と見られるので声をのんで蟄息(ちっそく)閉居するほかない」
「国民の熱情は主観的判断のみで客観的考察を入れず、内を主として外を顧みず、進むだけで止まることを知らない」
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ロシアのウクライナ侵攻を受けて、敵基地攻撃能力を持つのだ、核共有も議論しろ、防衛費を増大するぞ、憲法9条を改正すべきだなどと、勇ましい政治家がクイズ番組よろしく「早押しボタン」を連打していてやかましい。
核の脅威が高まっているこのときに、それこそ「唯一の戦争被爆国」としてやれること、やるべきことは多々あるはずだ。なのにただ他国の不幸に便乗してひとびとの不安感をあおり、進むだけで止まることを知らぬ粗雑な議論で性急に「答え」を出そうとする政治家を、私は信用しない。
彼らは往々にして、戦争はいけないが……、と前置きしてのち語り出す。しかし、「戦争はいけない」に「が」や「けれど」を接続させるから、つるり戦争の方へと滑ってしまう。「戦争はいけない。」。まずはそう言い切ること。小さな「。」の上にかじりついてでも考え抜くことができるか否か。そこがいま、問われていると思う。
歴史を振り返っても当世を見渡しても、この国のブレーキは大変に利きが悪い。答えを急がず、歴史を参照し、異なる意見を聞きながら迷ったり悩んだりする姿勢こそがブレーキの役割を果たす。大事が起きてもその姿勢を崩さぬ人はきっと、愚鈍な臆病者とそしりを受けるのだろう。結構毛だらけ、私はそんな臆病者として生きたい。
たとえ誤りにみちていても、/世界は正解でできているのでなく、/競争でできているのでもなく、/こころを持ちこたえさせてゆくものは、/むしろ、躊躇(ちゅうちょ)や逡巡(しゅんじゅん)のなかにあるのでないか。
何だって正しければ正しいのでない。
(長田弘「誰も気づかなかった」)
鼻で笑って頂けたら本望である。
(編集委員)
連載多事奏論