ソウルヨガ

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コロナで毎日大量の死者—-認識がゆがむ人だらけ

コロナで毎日大量の死者—-認識がゆがむ人だらけ

2022年8月19日

 

先日も「コロナ問題の基本視点」で書いたが、かんたんに認識がゆがむ人だらけと感じる。

 

毎日、100人以上の人が死に、それが200人になり、ついにこの数日は300人前後(「第6波」のピーク時と同水準)にまで増えている。凄い数だ。その当人や家族にとってはどれだけ悲しいことだろう。悔しいことだろう。適切な入院も治療も受けられないことに怒りの気持ちが出てもおかしくない。私の身近な人が亡くなったらなら怒る。

安倍元首相が亡くなったら献花に来た多くの人が泣いた。心から手を合わせて悲しむ人が多くいた。

安倍さんの家族の悲しみはいかほどか。(安倍の政治的評価や国葬問題は横に置く)

詰まり人が一人死ぬとはそれほど重いこと。

 

それなのに、コロナで毎日、すごい数の人があちこちでむざむざ死んでいているのに、国民の大多数が「行動制限しろ!」と言わない。テレビにでている人では玉川一人を除いて私は知らない。

 

私の家族がコロナの中で死んだら必ず裁判するだろう。行動制限せず大流行を作り出した責任を政治家たちに問う。裁判は負けるかもしれないが、怒りはあって当然だ。施設高齢者は治療してくれる適切な病院にも行けず、そこで死ぬのを待てと言われている。自宅にいても救急車が来なかったり来ても移送先の病院がなく、家にいろと言われ、多くが死んでいる。

だが、『行動制限しないのがおかしい』「それは弱者の命の軽視だ」という報道がない。

国民で怒っているという動きも知らない。おとなしい人が多いのだろう。もし一部怒っている人がいても報道されないのだろう。野党もメディアも、主流の空気を読んで、あるいは洗脳されて、「今年は行動制限はしない」で思考停止。

 

コロナで死んだ人はわかっているだけでも通算3万6千人を超えている。

無差別殺人事件で数人が殺されても大事件だ。飛行機事故で100人死んでも大事件だ。災害で人が死んでも大事件だ。

もし国際紛争的なところで自衛隊員が戦闘で死んだら一人でも大問題になるだろう。それをもって国民が手怒りを持ち、(持つように報道される)報復だ、戦争だとなるであろう。

 

なのに1日300人が死んでも気にも留めない。命の重みに差別を平気でつける社会なのだ。メディアによって大衆の感覚は簡単に操作される社会なのだ。

 

コロナで病人や高齢者が死んでも他人事。

1日に300人という人が死ぬと聞いてもピンとこない人たち。(ピンと来て怒っている人が周りにいますか?)

これを思考停止、被洗脳状態、人間らしさの喪失、と言わずして何というのか。

 

テレビやネットでは発言力ある人が平気で、経済も回さないといけない、風邪・インフルエンザなみの扱いをしろ、病院に行くな、家でじっとしていろ、行動制限なしのままでいいといっている。

工小津制限自体の有無を全く問題にしていない。

東京都では9月から旅行援助を出すなどと言っている。

人が死ぬことを過小評価している。

これを一種のトリアージ状態と言ってもおかしくはない。命に軽重をつけ、死ぬ人は仕方ないと見捨てる。

自分は死なない、死ぬのはババアやジジだろというわけだ。

くした空気を私は主流秩序状態と言ってきた。

 

医者達も、現場が大変だ、医療崩壊だと言いながら、『行動制限を直ちにしろ』とは誰一人言わない(言っている医者はいるだろうがそういう人はメディアは出さない)。

医者でありながら、それを言わないのは、批判をおそれ、主流秩序に従属し、あるいは思考停止、馬鹿、あるいは、傲慢で優生思想的な人だからである。

 

ロシアの軍事侵略、ウクライナの武力抵抗によって毎日人が死んでいる。そこに対しても、政治的視点で語る人が多すぎる。ウクライナの抗戦を美化する人が多すぎる。

地面の虫の視点から、ひとりから、ものを見ることができなくなっている。

これをプロパガンダにのせられているという。

正義の戦争だ、正義の政策だ、だから犠牲は仕方ない、犠牲者を奉り、さらなる戦いに人を動員する。

国のために戦争で死んだ人には過剰な「悲しみのセレモニー」をする。安倍元首相の命はは特別のモミがあるとして、「国を挙げて税金を使って、戦後最大の扱い」をする。

だが毎日コロナで死ぬ人はその悲しみを大事にして葬られない。ただの数字として見向きもしないで、アナウンサーは平気で数字を読み上げて終わる。泣くことも怒りを持つこともなく。感性や想像力の欠如。

統一教会霊感商法したことに目をつぶり「信仰の自由だ」という洗脳された信者とどこが違うのか。