ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

映画「ティル」

 

大学の講義を受けている学生さんに送った情報

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映画『ティル』  今すぐ「京都シネマ」へ

 

1955年に実際に怒った黒人少年リンチ殺人事件と裁判、母親を中心とする戦いの始まりを描いた映画。

以下の紹介に詳しいが、この事件は黒人の人権獲得運動、公民権運動の重要な一つであったのに、映画には長らくならなかった。なぜこんなに時間がかかったのかと思う。ぜひとも皆が知るべき事柄を扱った映画だと思った。

京都シネマ」で1月11日まで上映している。

今、「ジェンダーダイバーシティ」を受講しているみなさん、ぜひ正月にみてほしい!! こうした現実と闘いがあって社会は変わってきたので、無知ではだめです。

 

それにしても、ひどい社会だった。恥を知れ!、それでも人間か!」「今なんて言った!」といまなら叫ぶような状況でも、何も黒人は言えなかった。言えば、抗議すれば殺されるしかなかった。

 

尚、以下の記事はネタバレの面もあるので、映画を見てから読んでもいい。しかし読んだうえで見てもいいと思う。人権論を学ぶ皆さんとしては必ず読んでおいてほしい資料である。

また、立命には映画製作にかかわろうとする学生もいる。「社会を変えるためのアクティビズム・ツールとして映画を活用」しようとした人たちがこの映画を作った。ぜひ、参考にしてほしい。

 

以下、映画紹介の記事

  • 基礎情報

1950年代アメリカで、アフリカ系アメリカ人による公民権運動を大きく前進させるきっかけとなった実在の事件「エメット・ティル殺害事件」を劇映画化。
1955年、イリノイ州シカゴ。夫を戦争で亡くしたメイミー・ティルは、空軍で唯一の黒人女性職員として働きながら、14歳の息子エメットと平穏に暮らしていた。ある日、エメットは初めて生まれ故郷を離れ、ミシシッピ州マネーの親戚宅を訪れる。しかし彼は飲食雑貨店で白人女性キャロリンに向けて口笛を吹いたことで白人の怒りを買い、8月28日、白人集団に拉致されて凄惨なリンチの末に殺されてしまう。息子の変わり果てた姿と対面したメイミーは、この陰惨な事件を世間に知らしめるべく、ある大胆な行動を起こす。

「ザ・ハーダー・ゼイ・フォール 報復の荒野」のダニエル・デッドワイラーが主人公メイミーを熱演し、ゴッサム・インディペンデント映画賞など数々の女優賞を受賞。名優ウーピー・ゴールドバーグが共演し、製作にも名を連ねる。

2022年製作/130分/PG12/アメリ

 

  • 人々に公開された遺体、ボブ・ディラン、BLM…現代にもつながる実話を描く『ティル』の知っておきたい5つのキーワード

2023年12/20(水) 16:30配信  

https://news.yahoo.co.jp/articles/1a232e63b537db451aec58a433f6a1de6bf28679

68年前に起きた実在の事件を描く『ティル』

 

■「公民権運動」とボブ・ディランの「エメット・ティルの死」

 アメリカの公民権運動を象徴する、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の「I Have a Dream」の演説でも知られるワシントン大行進。そこで公民権アクティヴィストの講演者に先立つ前座として舞台に立ったボブ・ディランは、そこで新曲「エメット・ティルの死」を披露する。奇しくもその日は、エメット・ティル殺害事件からちょうど8年が過ぎた1963年8月28日のことであった。 自由と平等の国アメリカの偽善を赤裸々に描写した曲を白人青年が歌ったことに刺激を受けたサム・クックは、翌年に公民権運動の勝利を謳った「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」を発表。これを機に、政治的メッセージが入ったブラック・ミュージックとフォークソング、「カウンター・カルチャー」の時代が幕を開けることとなった。

 

・・・メイミーの死去から19年が経った2022年3月、人種差別に基づくリンチを連邦法の憎悪犯罪(ヘイトクライム)とする「エメット・ティル反リンチ法」が成立。そしてエメットは、公民権運動の殉教者として、アラバマ州モンゴメリにある公民権運動記念碑にその名が刻まれている。

 

 ■事件から68年で迎える「初の劇映画化」

 キング牧師をはじめ、公民権運動にかかわる人々の物語を描いた映画は数多くあるが、エメット・ティルの物語はこれまで一度も劇映画として描かれたことはなかった。事件発生から数十年の間に何度も映画化の話が持ち上がったとも言われているが、「性別と人種の根深い問題」や「集客に向いていない」といった理由から、何度も頓挫してきたと言われている。 本作の脚本家で製作プロデューサーを務めたキース・ボーシャンが初稿を完成させてから、こうして映画が完成するまでにかかった歳月は29年。プロデューサーを務めた名女優ウーピー・ゴールドバーグはこう語っている。「これまで、この物語を避けようとする強い力があったと思う。しかし近年、“語られるべきことは語るべき”という世の中になった」。いまも目まぐるしく動き続ける社会情勢。まちがいなくその源流となった1人の母親の愛と正義の物語を、この映画を通して多くの人に知ってもらいたい。 文/久保田 和馬

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「これは映画ではなく運動なのだ」黒人少年リンチ事件の実話描く『ティル』、30年におよぶ製作の闘い

2023年12/20(水) 10:53配信

「これは映画ではなく運動なのだ」黒人少年リンチ事件の実話描く『ティル』、30年におよぶ製作の闘い(CINRA) - Yahoo!ニュース

https://news.yahoo.co.jp/articles/51c886205ff3b9972f38169c20381b39b2c0da69?page=1

映画『ティル』

 

 

 

 「エメット・ティルの物語は、アメリカの公民権運動において非常に重要です。ところが、アメリカ人でさえ、この物語を知らない人たちがたくさんいる」。約1時間におよぶ取材の冒頭で、ボーシャン氏はこう話した。 なぜ、この事件を語りつづけるのか。エメット・ティルと母親メイミーの物語を、劇映画として伝える意義とはなにか。2003年に逝去したメイミー本人と公私にわたり親交を深め、その遺志を継いで活動をおこなうボーシャン氏が、映画『ティル』実現までの道のりと、生涯をかけた仕事への思いをたっぷりと語ってくれた。

 

 

 

なぜいまこの物語を語るのか。「私たちは新しい公民権運動を切望しているが、まだ実現していない」

―エメット・ティルの事件を伝えることは、あなたにとって「人生の仕事」なのだと思います。そのモチベーションを長年継続できた理由と、いまこの物語を語ることの意義をお聞かせください。

 ボーシャン:マザー・モブリーは生前、「人々の意識が変わるまで、私たちはエメットの物語を語りつづけなくてはならない。そのとき初めて、エメットにも正義がもたらされるから」とよく話してくれました。しかし、まだ若かった私にはその意味が理解できなかった。この物語を伝えはじめて30年近くが経った今では、彼女が伝えたかったことがはっきりとわかります。 私ひとりがどれだけ長く、どれだけ懸命に正義のために闘ったとしても、今日起きている「別のエメット・ティル事件」をすべて止めることはできません。昨今のアメリカで、無実の黒人や褐色人種の人々が、白人至上主義者や警官たちに殺されていることはみなさんもご存知だと思います。私たちが目にしているのは、1955年にエメット・ティルに起きたことと何ら変わらない。犠牲者はみな今日のエメット・ティルなのだ――マザー・モブリーはそのことを伝えたかったのだと思いますし、それこそがいま、この物語を語る理由です。

 

エメット・ティルの物語ほど、今日の政治的・人種的な情勢に深くつながるものはありません。 この映画は、現在と1955年の出来事をつなげ、アメリカという国で起こり続けていることを人々に知らしめ、ふたたび大きな変化を起こすきっかけとなりうるものです。私たちは新しい公民権運動を切望していながら、それはまだ実現していません。

 

 ―もっとも、映画の完成までにはいくつもの試練があったのではないかと推察します。

ボーシャン:そうですね(笑)。このことに挑戦できたのは、私が若い頃から動いていたからでしょう。公民権運動の指導者や活動家たちのなかには、私に敵対的な人もいました。まだ若い私が、自分の生まれる以前に起きた事件や、エメット・ティルやマザー・モブリーの物語を理解しているとは思われていなかったのです。あろうことか、事件を再審に持ち込むなど不可能だと思われていた。数えきれないほどの失望を経験しましたが、私がドキュメンタリー映画『The Untold Story of Emmett Louis Till(原題)』をつくり、さらなる証拠を提出して事件の再審を実現したあとは、あれこれと言ってくる人たちはもういなくなりました。

ボーシャン:私はいつも「これはただの映画ではない、社会運動なのだ」と言っています。事件を再審に持ち込んだあとには、FBIや司法省と連携して、公民権に関連する別の殺人事件についても再捜査と起訴の可能性を確認しました。2006年にはFBIが公民権にまつわる「コールドケース構想(Cold Case Initiative)」を発案し、2008年には「エメット・ティル未解決公民権犯罪法(Emmett Till Unsolved Civil Rights Crime Act)」としてブッシュ政権下で成立、のちにオバマ大統領が再承認しています。

過去の事件についても、訴追のために再捜査が必要かどうかを再検討できるようになったのです。 もっとも、すべてはマザー・モブリーが予言していたことです。彼女には予言者めいたところがあり、私が息子の事件を再審に導き、物語を伝える仕事も引き継ぐのだと言ってくれていました。私にとっては、彼女のビジョンをきちんと引き受けることが最大の課題。そして強い情熱とともに、忍耐力と寛容性を持つことも重要でした。

ですから、いつかこの地点に到達することはわかっていましたし、映画の完成で途中の失望は報われたのです。 自分の語りたい物語を正確に理解するために、長い時間を要し、さまざまな試練や苦難を経験しなければならないのは奇妙なことです。しかし、時代の変化や新型コロナウイルス感染症、そのなかで起こったさまざまな出来事も、この作品には影響を与えているはず。すべてのことに理由があり、ふさわしいタイミングがあると私は信じていて、実際に映画が公開されたタイミングも完璧でした。

 

フィルムメイカーとして、アクティビストとして目指すこと

―「エメット・ティルの物語を劇映画にする」という目標を達成した今、新たな目標やビジョンをお聞かせください。

 ボーシャン:私はフィルムメイカーを目指したこともなく、業界に入るための苦労もしていないので、この仕事をしていることは神の贈り物だと考えています。私にとって、映画製作はアクティビズムの新しい波です。フィルムメイカーやアーティストには確かな力がありますし、ビジュアル以上に人の心を打つものはありません。エメット・ティルの写真が1950~60年代の公民権運動の指導者や活動家を目覚めさせ、世代を超えて影響を与えつづけているように。 繰り返しますが、これはたんなる映画ではなく、社会運動なのです。また私にとっては現在進行中の、そして今後もつづけていく闘いです。私の作品はすべて、社会になんらかの影響や変化をもたらせるものでなければいけません。今後も人間性(ヒューマニティ)を目覚めさせる映画をつくりたい。そして公民権と人権のために、アメリカのみならず、いまも世界中でつづいている正義のための闘いを伝えていきたいと考えています。 私の願いは、同じ志を持つフィルムメイカーを集め、社会を変えるためのアクティビズム・ツールとして映画を活用してもらうこと。この世界にはたくさんのアーティストがいますが、今の世界に必要なのは「アーティビスト(artivist)」。私たちに問いを突きつける物語を伝え、文化を描くことに積極的に取り組む人たちです

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杉田氏の方が正直で、岸田首相の方が嘘を言っている

  • 2023年秋:杉田議員の暴走を容認する自民党・岸田政権

 

自民党がこの杉田議員を放置しているため、彼女の暴走が続いている。杉田氏は23年秋に、自身に好意的なネット番組には積極的に出演するだけで、一般のメディアから記者会見を求められても応じようとしないで逃げている。

2023年秋(10月27日)、杉田水脈衆院議員は、「差別がなくなっては困る人たちと戦ってきた」「私は差別をしていない」と主張する動画をSNSに投稿した。

杉田氏は「逆差別、エセ、それに伴う利権、差別を利用して日本をおとしめる人たちがいる。差別がなくなっては困る人たちと戦ってきた。私は差別をしていない」「これからも日本のために、しっかりとぶれずに政治活動がんばって参ります」と主張した。

多くの人から人権侵害や差別だと指摘されても、自分は差別していないと居直るだけで、人権擁護の活動をしている人を「差別がなくなって困る人」というように描くのは、本当に人権意識のかけらもなく、ただ人権運動をつぶしたいだけが生きがいの人物であることを示している。安倍支持と重なる、右翼にさえ支持されればいいのだという「愛国による商売」で生きている議員なのだ。

ネトウヨネット右翼)が人権運動を攻撃するときの典型である「逆差別だ」「利権だ」という批判を今回も繰り返し、「エセ」といって偽物だと批判し、「差別を利用して」といって、本当に差別反対の運動をしているのに、それが本当でないものと規定し、「日本をおとしめる人」といっていつものように愛国ナショナリズム視点から、社会運動をしている人を「日本のためにならない」と否定している。彼女の言葉には、右翼排外主義者の主張が今回も詰まっている。

在日特権」「同和利権」「日本を批判する者は出て逝け、外国人は出ていけ」というような極右の主張と重なった表現を確信犯的に行っている。コラボに対しても、「貧困対策や差別解消に取り組む団体が、実は利権をむさぼっている」という定番の批判が使われたが、それと同じだ。「エセ」というのは人権運動を攻撃するときの常套句で、部落差別やアイヌ差別、在日外国人差別女性差別がないかのように規定するものである。

人権侵害していると認定されても自民党政権では黙認し、選挙では公認し、名簿順位の上位に置き、彼女の言動を容認している。岸田首相も、彼女には何もしないままである。それどころか、23年9月に札幌法務局から人権侵犯を認定された直後に、彼女を党の政策立案に携わる環境部会長代理に起用した。

彼女のような人が国会議員として存続できているため、彼女のような主張を見聞きしてそれを信じる人が一定いるのが現状なのである。実際、彼女の{X}のフォロワーは36万人もいる。

ブログの投稿を「人権侵犯」と新たに二度認定されたのに、杉田氏は「すでに謝罪したのでもう謝罪しない」というだけで、SNSに「そもそも非公開の案件について、申し立てた方々がマスコミに説明しているのも解せない」と不満を書き込み、無反省であることを示し、今回新たに「私は差別していない」と居直った。

だが、当の杉田氏も、首相も自民党も何ら対応を取らないし、会見も開かない。自民党がいかに人権や差別を軽視しているかが、ここに表れている。

細田博之衆院議長のがセクハラをしたことを追及される中で、「誰ひとり具体的に『セクハラがあった』と言う方はいない」といなおったが、岸田首相は「一般論としてセクハラを受けたとしても言い出せない方がいる」と述べるだけで、言い出せない人とがいるから被害がなかったことにならないので、細田氏の主張には合理性がないと批判し、ちゃんと細田氏に責任を取らせないといけないが、全くそれを世事に勇退させ、細田氏の子どもに議員を引き継がせるありさまである。

また木原稔防衛相は、過去、2012年2月に自身のホームページに「教育勅語の廃止で道義大国日本の根幹を失ってしまいました」などと記載するような右翼的人物だったが、防衛大臣に任命された。教育勅語は、当然日本国憲法と相いれない内容であるため、国会で排除・失効が決議されているにもかかわらず、今どきこんなことを言う右翼・憲法否定論者なのである。2023年に国会会でこのことを追及されると木原防衛相は、「起草者が私の地元・熊本の偉人でもあり、そういう観点から教育勅語についてはそういう評価をしている」と教育勅語礼賛を撤回もせずに信念であると言い切っている。安倍氏及び統一教会と非常に近かった萩生田議員も自民党で権勢を誇っている。

岸田自民党政権は、安倍政権の体質を今も染みつかせたままであるといえるし、それがジェンダー政策、杉田議員処遇にも表れているということだろう。

 

  • 23年秋、杉田氏がアイヌ民族への偏見と憎悪をあおり続ける

 

杉田氏は人権侵犯の認定後も、SNSや動画で開き直るような発信を続けている。アイヌ在日コリアンをめぐって「特権がある」などと、事実に反する発言を動画サイトに投稿し、交流サイト(SNS)には、ヘイト発言との批判にも、言論の自由の範囲内、と投稿している。

杉田議員は23年11月1日の動画では、月刊誌「正論」の記事を紹介する形で、人権侵犯の認定制度を批判。「人権の定義に関する根拠法令がない」「行政処分ではない以上、人権侵犯を認定された者は名誉回復の機会さえも奪われる」と訴えた。

。さらに、23年11月9日、月刊誌「WiLL」の動画に出演し、24年度予算の概算要求で、アイヌ政策関連予算が66億円計上されていることに触れたうえで、アイヌ文化の振興事業について公金を不正流用疑惑があるとの見方を示し「公金チューチュー」などと揶揄した。

また、22年12月に総務政務官を事実上更迭されたことについて、「安倍政治を許さないとか、(安倍晋三元首相の)国葬反対」などを主張するアイヌ関係団体から謝罪を求められ、「こんな団体に謝罪するぐらいだったら」と辞任したのが「真相」だと主張した。辞めさせられたのではなく自分から辞めたというのである。反省も全くないということだ。

さらに、そうした言動が批判されても撤回せず、逆に、X(旧ツイッター)に、「公金チューチューではなく『不正使用』と言えば良かったのか」と書き込んだ。

岸田首相は国会で追及された時に『杉田氏本人が謝罪した』のでそれ以上は何もしないというような答弁をしたが、杉田氏は『アイヌ関係団体への謝罪が嫌だったから辞任した』と言っているのだから矛盾している。客観的に見て、杉田氏は本当には適切な謝罪をしていない。部分的に、撤回とか謝罪をしたということで、それ以上は何もしないと居直り、そしてやめさせられたが、後で「謝罪が嫌で辞任した」と嘘を言って自己弁護しているのである。全体としては、様々な自分の人権侵害発言を全く反省していない。 

 アイヌ女性の活動家・多原さんは23年11月15日の立憲のヒアリングで、「差別を扇動する議員を黙って見ている社会はどうなってしまうのかと、恐ろしくなる」、人権侵犯の認定制度を所管する法務省や、アイヌ政策を統括する内閣官房に「(杉田氏の主張に)しっかり答えて欲しい。そうでなければ信頼を失ってしまう」と求めた[1]

また大阪市NPO法人「コリアNGOセンター」は23年11月15日、杉田氏のSNS投稿の削除を求める抗議文を出した。 削除を求めたのは杉田氏が11月で4日に、「差別に関わる利権や特権は、実際には存在します」とした投稿。抗議文は、「在日特権」という悪質なデマはヘイトスピーチを繰り返す団体によってフェイクニュース的に拡散されたと指摘し、「深刻な人権侵害と社会の分断をもたらす重大なきっかけとなった」「現職国会議員によるあからさまな差別扇動で、在日コリアンに深刻な不安と恐怖をもたらしている」などと批判した。

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そのあとまたまた杉田氏は居直り続け、一部右派系メディアはそれを無批判に支持するような記事を出した[2]。杉田氏は、23年11月22日、「X」に「侵犯したとされた側に聴取せず認定ができた」と文句を書き、自分は左翼批判したのであって『アイヌ民族』や『在日』を差別したのでないと非論理的な反論を行った。法務省から『アイヌの文化や歴史を学ぶようにと啓発を受けた』というのは事実無根だと一部の報道も否定した。

こんなことを言っているのであるから、法務局は杉田氏に再度正しく指導し、また被害者の名誉回復を支援する必要がある。法務省が、ちゃんと杉田氏の差別言動の反省を指導しなかったら問題であるし、指導したのに、このように杉田氏が居直り続けているなら、再度指導や処分などをすべきである。法務局の威信にかけて、人権侵害を放置してはならない。

そして「デイリースポーツ」は無批判・無検証に杉田氏の言い分だけを載せた。それは杉田氏の過去の言動が差別であるということを否定する態度である。

世界的に言われていることだが、影響力あるものによる、一定の民族や集団を敵視し憎悪をあおる「ヘイトスピーチ」は、ヘイトクライム憎悪犯罪)につながる恐れがあり、放置すれば社会全体にとって大きなリスクになる。実際、米国ではしばしば起こっているし、日本でも、21年に宇治市のウトロ地区であった放火事件で有罪判決が確定した男は「在日コリアンは日本人より優遇されている」という誤ったネット情報(在日特権論)をもとに犯行に及んだと話した。杉田氏の発言は、アイヌ在日コリアン、女性、フェミニスト、左翼、LGBTQ、日本軍慰安婦なども攻撃しており、右翼勢力には杉田は支持されているので、氏の発言を荒唐無稽と看過、放置することは危険である。国会議員であるのに、自らを強く支持する右翼層にしか受け入れてもらえない言動を繰り返していては、国会議員ではない。

そして等も繰り返すが、このような議員失格の人物を党としても批判せず、追い出さず、国会議員も辞めさせない自民党の姿勢が問題である。逆に役職につけるなど、重用してしまい、国会で追及されても擁護してしまっている。自民党総裁でもある岸田文雄首相は国会で問われ、「(差別的投稿ついて)本人が謝罪し取り消した」と問題視しない姿勢を見せた。その背景には、支持率が下がっている自分の権力維持のために、杉田氏を支持する安倍派など自民党内右派・保守層に媚びて何も言えないという事情がある。岸田政権はリベラルと言われていたが、人権委は無関心であることが明白だ。

  

  • 杉田氏の方が正直で、岸田首相の方が嘘を言っている

 

ひろゆき氏が杉田議員と岸田首長の矛盾を指摘したことに対して、杉田議員が、どちらも嘘を言ってないないと「反論」した。その内容は「国会の場で謝罪した」から嘘ではない、ただ直接謝罪を求めてきたアイヌ関係団体が、「安倍政治を許さない」「国葬反対」といった主張を掲げていた「反安倍集団」だったため、「謝罪したくなかったという事です」というものだった。

つまり、国会では謝罪したが、反安倍団体には謝罪したくないのでしなかった、それでみずから職を退いたと「説明」したのである。だが杉田氏は「差別はしていないが、稚拙な表現で傷付いた方がいるのであれば謝罪します」と、国会の場でいったのであって、これは謝罪ではない。「謝罪した」と言うが謝罪になっていない。差別と認めないのであるから謝する内容がないのであり、差別したことに対して謝罪もしていないのである。謝罪したのは自分が人権侵害や差別した発言にたいしてででなく、「稚拙な表現で傷ついた人がいるのであれば」と仮定の形で「表現が稚拙であること」について謝罪しただけである。

発言の撤回」も、その稚拙な部分だけであり、差別の部分があるからその部分を撤回したのではない。差別していないので、差別したということで撤回したのではない。表現が稚拙だったので、差別ではないにもかかわらず、結果的にある人が傷ついたというのであれば、それについては謝ると言っているだけである。仮定の話であるので、明確にだれに対しての謝罪かも明示していない。

つまり「チマチョゴリアイヌの民族衣装のコスプレおばさんまで登場。同じ空気を吸っているだけでも気分が悪くなる」という差別的な文言は差別でない、だからそれについては謝罪していない、その発言おせいで更迭されたのでもない、と一貫していっているのが杉田氏なのである。

したがって、まず杉田氏は謝罪していない。反省していない。だから今でも差別していないと居直っているのである。この姿勢は杉田氏は一貫している。

次に、反安倍の団体だから謝罪したくなかったという。自分の発言の内容の差別性を全く認めず、内容の検討も横において、とにかく、基準が「反安倍」の人には謝罪したくないというのである。愚かというしかないような「ネトウヨ」的な発想である。杉田氏の本性はこれであり、これだけで動いているのである。底の浅い、ただのネトウヨ・レベルの人なのである。

以上の杉田氏の姿勢は、これまでも差別やセクハラ・パワハラした人が使う論法と同じである。つまり、「そんなつもりはなかったが、そう感じた人がいるなら謝罪する」というのである。自分の主観を言って「差別する意図はなかった」と言いわけし、しかし、相手がそう感じたなら謝罪する、とごまかす手法である。自分のプライドや言い訳を正当化しつつ、事を済まそうといういいかげんで矛盾したあいまいな逃げ方の典型である。

杉田氏も、仲間が聞いていると思う右翼の場では、総務政務官を事実上更迭されたことについて、「こんな団体に謝罪するぐらいだったら」と辞任したのが「真相」だと、強がって「更迭されたのではなく、みずからやめたのだ」、といったのだ。

ということは、法務局から人権侵犯と言われているのに、全く認めず、差別発言と認めてもいないし、それを反省もしていないし、その発言をしたから更迭されたとも認めていない。この全体をもってすれば、差別発言したことを「謝罪していない」というのが妥当である。

とすれば、杉田氏は謝罪していないので、むしろ岸田首相の方が嘘を言っているというべきであろう。つまり、首相は国会で問われ、「(差別的投稿ついて)本人が謝罪し取り消した」と言ったが、それが間違いで、杉田氏は差別発言を反省も謝罪もしないままいるのに、それを放置しているのが、岸田首相であり自民党なのである。処分もしていないし、その後も仕事をさせているので、杉田氏が「更迭されたのではなく、辞任したのだ」というのは正しい。来kまで居直り続ける杉田儀委に対して、首相は「議員の発言に対するコメントは控える」と逃げつづけている。

結論。「反安倍が嫌い」と言うだけで差別を繰り返す、人権意識が全くない人物を、処分もせず、党から追い出さず、放置し容認している自民党・岸田政権が間違っているのである。

 

 

[1]アイヌ女性「もう黙らない」 杉田水脈氏の差別投稿に同調658件」(朝日新聞、2023年11月17日)より。

[2]杉田水脈氏の「人権侵犯」本人への聴取なしで認定されていた 報道の一部は「事実無根」」(デイリースポーツ23年11月25日)

zeJアラート対応は、全体主義国家レベル

  • 23年11月21日㈫夜、せっかく「マイ・セカンド・アオハル」の録画を見ていたのに、急にテレビが壊れたのかと思った。気持ち悪い黒い画面で、(10時46分に)Jアラートが発表されたということで、「対象の地域の皆さん、落ち着いて出来るかぎり頑丈な建物や地下に避難してください。屋外にいる人は、近くの頑丈な建物や地下に避難してください。建物に入れないなら頭を抱えたり地面に伏せて身を守るように」「窓から離れろ」などと繰り返し言っていた。「沖縄は画面から何か異変が起こっている様子は見られない」と言いながら沖縄から生中継までしていた。11時を越してもうミサイル(偵察衛星)が通過したような時間になってもドラマも放送が中止されル付け臨時ニュース番組で「警戒・まだまだ予断を許さない」を言い続けていた。

非情におかしい。全体主義国家か? 戦時中に大政翼賛会の時に国の言うままに報道したのと同じじゃないか。沖縄以外には、画面の端に少し字幕で出す程度で十分だろう。ドラマ放送を中断するほどの事では全くない。沖縄でもまるで戦争がはじまり、殺傷を目的とした爆弾を積んだミサイルが沖縄基地めがけて飛んでくるような報道の仕方で、完全に事実に反するミスリード情報だ。実際は、予告どおりの人工衛星の打ち上げでしかない。

この様に戦争が始まったかのような扱いは、右翼的な国家主義プロパガンダ的な思想的洗脳行為の一つでしかない。実際は、ミサイルの破片のようなものが沖縄のどこかに落ちるかもしれない、ということで、非常に実際の危険性が低い情報だ。自動車が家の前を通っているとか、ヘリコプターやジェット機が上空を飛んだ時にも、何かが家の中に飛び込んでくるかもしれないと言って緊急ニュースにするか?というような話だ。

こんな不要なことを全国放送で時間をかけて繰り返し同じことを言っていた。そのうえで、途中からニュース番組になった。ドラマは放送されなかった。11時以降のドラマも放送中止となっていた。30分たってもまだ「避難しろ」と言い続けていた。そして発射時間から30分を過ぎたあたりでようやく「20分前の22時55分ごろ、太平洋に落下した。避難の呼びかけを解除する」という情報が流れた。「時をかけるな、恋人たち」のドラマの代わりに流されていた臨時ニュースでは、発射後30分たって、避難解除が言われた後も「ミサイルの燃料には危険な化学物質が含まれています。これが空気中に有害物質として浮遊している可能性もありますので、安全が確実になるまで避難を続けてください」と言っていた。発射後40分たってよううやく防衛省からも危険性がなくなったとの情報がなされた。

おかしすぎる。放送局の異常な主流秩序従属ぶりが目立つ。思考停止状態だ。権力への批判性、チャック性、報道する価値があるかどうかの独自時判断はどこに行ったのか。政府のいいなりか。

Jアラートへのメディアの対応のおかしさについては、前から指摘していることだが、同じことが繰り返されている。

 

イスラエルの虐殺

岡さんからの情報

 

みなさま

京都の岡真理です。

 

アメリカの情報サイト IMEU(Institute for Middle East Understanding)が制作した動画をご紹介します。

https://www.youtube.com/watch?v=TPtfHmaXfeQ

 

IMEUは、アラブ系アメリカ人の弁護士やジャーナリスト、学者、活動家らが中心になり、アメリカのプレスに、パレスチナに関する正確な情報を提供するために立ち上げた情報サイトです。

パレスチナに関する、さまざまな基本情報、専門情報がアップされています。

https://imeu.org/

 

そのIMEUが、Israel's Atrocity against Palestinians in Gaza(ガザのパレスチナ人に対するイスラエルの暴虐)と題する6分間の動画を制作しました。

https://www.youtube.com/watch?v=TPtfHmaXfeQ

(閲覧注意。年齢制限あり)

 

ガザの内部で、パレスチナ人にどういうことが起きているのか、主流メディアの報道では流されない、凄惨な状況の一端が示されています。

 

ガザでは現在、燃料がなくなり、テレコミュニケ―ションが不能となりました。

通信で各地の死傷者の情報を得ることができなくなったため、これまで毎日、最新の死傷者数を伝えていたパレスチナ保健省発表の情報も16日以降、更新されていません。

 

ガザの内部で、イスラエルの攻撃によってパレスチナ人に何が起きているのかを、私たちが知ることが不可能に近くなっています。

https://mondoweiss.net/2023/11/operation-al-aqsa-flood-day-42-communications-blackout-obscures-full-picture-of-israels-devastation-in-gaza/

 

今、起きていることは、「暴力の連鎖」でも「憎しみの連鎖」でもありません。

「テロリスト」に対する「自衛の」闘いでもありません。

イスラエルが75年前におこなったパレスチナ民族浄化パレスチナからパレスチナ人を追放すること)を完遂するためのジェノサイドです。

イスラエルの高官たち自身が、もはやその意図を隠すことすらしていません。

 

この動画をご覧ください。

そして、この動画を拡散してください。

ガザで何が起きているのか、事実を知ってください。

そして、「即時停戦!」「イスラエルは占領をやめろ」「封鎖をやめろ」「アパルトヘイトをやめろ」の声を上げ続けてください。

 

*京都では、停戦が実現するまで、毎週土曜日、「ジェノサイドをやめろ」デモを行っています。

午後3時、京都市役所前集合、3時半、出発です(仏光寺公園まで)。

ジェンダーアイデンティティという言葉はあいまいだから使わない方がいいのか

  • 2023年でも「あいまいな言葉を使うのは危ない」という山口智美氏

いま執筆中のジェンダー論講義録の関係で、昔のジェンダーフリーへの批判の動きの事も少し書いた。その関連で最近のジェンダーアイデンティティについての動きについて、以下のようなことを書いた。

ここで紹介しておく。

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山口智美氏は、その後、日本社会においてフェミニストとして活躍しており、私はその活動を支持するが、上記、ジェンダーフリ―への批判のスタンスと同じ発想を2023年にも保持して表明しているので[1]、ここで、問題だと指摘しておく。

山口氏はジェンダーフリ―を批判したときと同じく、また、「ジェンダーアイデンティティー」という言葉もことばもあいまいだからこそ危険だと述べている。

まず、歴史的にジェンダーフリ―について、ゆがんだ整理をしている。

「解釈は人それぞれで、意識の問題を唱える人もいれば、「ジェンダーに基づく差別のない社会のことだ」と言う人もいました。」としたうえで、言葉のあいまいさがあるからそれを利用して「フリーセックスと同じ」「性差を否定する」などと攻撃したと、言葉のあいまいさを攻撃された原因にしている。だが、右派が意識的に歪めて攻撃するのは慰安婦問題でも憲法9条問題でも常套手段であり、言葉があいまいだからではない。社会運動、社会的対立というものはそういうものである。トランプなどは、米国民主党極左などというのである。右派が性教育フェミニズム攻撃としてジェンダーフリー批判をした時に、この概念の意味はこうだと適切に言うのでなく、「この概念はよろしくない」というのは、どこを向いているのかと当時も思ったが、今回、ジェンダーアイデンティティという言葉についても、あいまいだと心配しているので、相変わらずの発想だなと感じた。

ジェンダーアイデンティティという概念をどういう意味で使うかが、社会的な闘争なのであり、右派は当然、これを「自分でそうだと宣言すればどうとでもなる性自認というものだ」とか、「性同一性障害の診断を受けた人だけが、女性、あるいは男性になれる」という意味で使うなど歪めるであろう。

それに対しては、ジェンダーアイデンティティという言葉を使わなければいいのではなく、トランスジェンダー差別をなくすために、当事者の性のありかたや生き方の自己決定と人権を尊重する意味として、使っていけばいいのである。トランスジェンダーの権利を考えるとき、この概念をなくすことが有効などとは思えない。ジェンダーフリ―と言わなければフェミニズム攻撃がなくなると思うのが間違いなのと同じである。

山口氏はまるでジェンダーフリー概念を使ったフェミニストが皆、バーバラ・ヒューストンがこういったから使ったかのように言うがそれはまったく違う。日本の当時の実態を知らない謬論である。日本では、ジェンダー平等を考えるひとやフェミニストたちは、性別役割や規範(異性愛結婚するのが当然など)を強要する意味でのジェンダーに囚われなく生きるとか、ジェンダー秩序の状況(制度)を変えて多様性のある社会にするという意味でジェンダーフリ―といっていたのである。「ジェンダー構造に敏感になること」の否定の意味でなど使っていない。バーバラ・ヒューストンが言葉の定義を決める権利を独占しているわけではないのである。

またジェンダーフリーは「意識や態度の問題という、後ろ向きのコンセプト」で、「ラジカルではない」としているのも間違っている。そういう使い方をした人もいたが、私を含め、そうでないラジカルな使い方をしていた人が多くいたのである。歴史的事実を都合よくゆがめるのは正しくない。

意味が複数あるのは、多くの言葉がそうであり、ジェンダーもそうである。山口氏の考えではジェンダーダイバーシティも、シングル単位(個人単位)も、人権も平等も、主流秩序も、スピシン主義も、セクハラも、DVも、そういう概念を使うのは危ない、使わない方がいいとなる。どの概念の理解も色々で、ネットを見ても定義や説明は多様で、右派は酷くゆがめて攻撃するからである。

山口氏は「ジェンダーフリーを使うにしても、自分たちで議論し、批判し、自分たちの言葉として使うべきでした。」というが、そうしていたのだから、何をいっているのかと思う。

山口氏の主張の文脈では、「問題は、なぜ利用される恐れのある言葉をあえて使うのか」といって、まるでジェンダーフリーを使ったために攻撃されて、「ジェンダー」という言葉すら使いにくい状況になったかのように書いているが間違ったまとめ方である。「あいまいな言葉が独り歩きし、それぞれが都合よく利用したのがジェンダーフリーです。」「あいまいだけどごまかしながら推進していたら、バックラッシュに遭ってしまった」というまとめ方は完全に間違っている。反フェミの勢力がフェミの思想や運動を攻撃し、その中で、性教育ジェンダー平等も、ジェンダーフリーという概念も攻撃されたのである。右派が都合よく言葉をゆがめて攻撃するのは常であるので、ジェンダーフリーだけではないし、フェミニストは「ジェンダーフリーを都合よく利用した」のではない。「独り歩き」するかどうかは運動にかかっているのであり、社会が分断されれば、ダイバシティーといった概念も「独り歩き」して、様々に解釈され利用される。実際、いまそうなっている。

「あいまいさ」などにこだわって、今また、右派との闘争の課題となっているジェンダーアイデンティティ概念に対して、こうしたスタンスをとるのは、その主観とは別に、客観的にはまたトランスジェンダーの運動側の足を引っ張る見解となるであろう。「監視していかねばならない」というとき、山口氏はジェンダーフリーの適切な使い方を擁護するように監視し戦ったのかということが問われている。右派からのフェミ攻撃がある中で、東大で、ジェンダーフリー概念を攻撃する集会を開いたのは、フェミニスト側に立った行動だったのだろうか。

 

[1] 「(耕論)ジェンダーアイデンティティー 「あいまいさの利用」心配 山口智美さん(文化人類学者)」(朝日新聞 2023年9月27日)、「標的にされた「ジェンダーフリー」 危うさは理解増進法のあの言葉も」(朝日新聞、2023年9月27日)

ジャニーズ性暴力問題の4つの性質ーーー主流秩序とジャニーズ事務所の問題

 

ジャニーズ事務所問題は、主流秩序の観点を入れることで深く検討できる。メディアの多くは、薄っぺらな対応で無責任に終わらせようとしている。

 

2023年5月、ようやくジャニーズ事務所藤島ジュリー景子社長が、BBC放送や、かつての所属タレント(カウアンさん、二本樹顕理さんなど)からの性加害の告発を受けてジャニー喜多川氏(2019年死去)による性加害問題に対して公式に文書を発表し、一定の謝罪をした。だが、裁判も行われ、ずっと問題にされてきたのに、「自分は知らなかった」とまた嘘を言った。

その後、外部専門家による「再発防止特別チーム」が23年8月29日、喜多川氏が多数のジャニーズJr.に対し、長期間にわたり性加害を繰り返していたという事実を認定した。特別チームは、喜多川氏が事務所内では1970年代前半から2010年代半ばまで、ジャニーズJr.の少年たちへの性加害を繰り返したとし、少なくとも数百人の被害者がいるとの複数の証言を得たと発表した。さらに、その後、ジャニーズ事務所は9月7日、記者会見を開き、よる性加害の事実を正式に認めて謝罪し、問題を放置してきた責任を取って、藤島ジュリー景子代表取締役社長(57)が辞任したこと、所属俳優・東山紀之(56)の新社長就任を発表した。しかし新社長含めて、何となく噂とかは聞いていたが詳しくは知らないままだったというスタンスのままで、会社名も「ジャニーズ」を残すとした。

 

「知らなかった」というのはナチスユダヤ人虐殺をした時にも多くの人が言った言い訳の典型で、主流秩序に従属した姿勢の典型である。じつは知ろうとしていなかったし、知っても見ないことにし、考えるのをやめることを選んだ人が言うのが「知らなかった」である。

会社を運営していたトップ、ジャニー喜多川、会社運営の責任者であったメリー喜多川だけでなく、ジュリー景子などは最大の責任があるが、それだけでなく、その他、ジャニーズ事務所の全社員、そして年長者のタレントなどが「まったく知らない」ということはあり得ず、取締役やマネージャーであるなか、追求しない無作為の選択の責任、結果責任もあり、沈黙によって加担したという事例である(責任の正しいとり方についてはこの後で簡単にまとめる)。

 

若いタレントは被害者であるが、一定期間、事務所に所属していた年長のタレントは、知りながら何もしなかったという点でやはり重い責任がある。

またこの問題(SMAP問題でも)では、多くのメディアが、ジャニーズ事務所に忖度し、まったく報道自体をしてこなかった。また、ジャニーズ事務所から出ていったタレントや批判的なタレントをメディアは使わないことが多かった。これは自分が気に入らないものを攻撃するパワハラである。

この点で、芸能活動(出演)を制限・妨害されたタレントたちはパワハラ被害者である。

9月記者会見で質疑応答で示されたこと

テレビ朝日ミュージックステーション」で、同事務所からの“圧力”があるため、男性アイドルとしての競合に当たるDa-iCE、JO1、INI、BE:FIRST、DA PUMPw-inds.らが出演できなかった。

また元SMAP稲垣吾郎草なぎ剛香取慎吾による新しい地図が地上波に復帰するまで時間がかかった

King & Princeを脱退し、「TOBE」に移籍した平野紫耀神宮寺勇太、IMP.の今後の地上波出演がどうなるか

 

テレビ、雑誌、新聞、通信、などのマスメディア、芸能・音楽業界、広告関係者、スポンサー企業の姿勢などは、明示的圧力だけでなく、忖度含めて、事件を報道しなかった責任だけでなく、パワハラへの積極的加担責任がある。週刊誌報道や裁判などで事実がかなり明らかになっていたのに、無視してジャニーズを美化し続けたために、新たな被害者を生み出し続けたと言えよう。

その総括や謝罪、第3者委員会による検証や処罰は、テレビ局などメディアからは、23年9月末段階でなされていない。沈黙してきたり、ジャニー喜多川を美化・神格化し続けたタレント自身の真実を余すところなく語った反省や謝罪もない。

そしていったんほかのテレビ局やスポーツ新聞などが報道すると横並びでいっせいに一般論で報道してすまそうとしている。自分で判断せず、事なかれ主義で、無責任の極みが続いている。

勇気をもって告発したものが出てきたことや、SMAP問題の絡みもあるので、まさに主流秩序への従属や加担や抵抗の問題である。そこで以下の図を23年5月に作って講義でも紹介した。

 

 (2023年5月作成)

 

  • この問題の多面性と深い問題性

 

講義では、SMAP問題を契機に、昔からこの問題にも言及してきたが、ようやく動いてきた。主流秩序は個人の行動によって変えることができるという例としても見ることができる。

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なお、元NHKで現在はフリーランス武田真一アナウンサーは、最初の段階で、例外的に、伝える側のメディアにもその責任があるという見解を少し踏み込んで示した。武田アナは「私も報道の現場に長くいましたけれども、この間、こうしたことで、ニュースとして伝えるべきことなのかどうかということをですね、突き詰めて議論したり、考えたりすることをしてきませんでした」「藤島氏が、自らも積極的に知ろうとしたり追求しなかったことについて責任があると考えているとしていますけれども、同じ責任を伝える側としても今感じています」と述べた。

23年9月11日NHKは,不十分であるが、なぜこの性加害を報道しなかったかを考える番組を制作した。内容は途中段階で浅いものだったが、検証を始めようとしている点は評価できる。他の各局は、検証番組を作ったり第3者委員会を作って、局の対応の何が問題だったのかを明らかにする責任を取ろうとしていない。

他のテレビ番組はコメンテーター含め沈黙したり他人事のように語り、自分たちの深い不快パワハラ加担責任については言及しないか、少し触れてもあいまいな一般論でおわらせている。

 

「なぜ知ろうとしてこなかったかというと、大手ジャニーズ事務所のことがあるので意識的にこの問題には触れてはいけない(触れると自分・自社の立場が危うくなる)と考え、長いものに巻かれ、臭いものにふたをした」「ジェンダーや暴力に非常に鈍感で、これが大問題と思わない感性だった」「とくに男性の性暴力被害というものを軽視して、暴力と思っていなかった」「思考を停止して、触れないでおこうと思い、誰も会議で提起しないことにも問題と感じる能力がなかった」

「タレントが多くテレビ局にかかわっているので、SMAP問題や性加害問題にふれると、ジャニーズのタレントが出てくれなくなると、そんなことになると自分の責任が問われるので、悪いとも思わず長いものに巻かれるのは当然と考えた」「ジャニ担がいてテレビ局や雑誌などはジャニーズに依存し言いなりになっていた」と正直に反省を語る点で、まだまだ不十分である。

23年9月段階でも、SMAP新しい地図」3人などを使わないなどのパワハラへの加担をちゃんと総括していない。「メディアの沈黙」だけに焦点を当てること自体が、主流秩序の観点からは間違っているのである。

 

また「報道してこなかったことに責任を感じている」と決まり文句を皆言うが、誰も具体的にどう責任をとるのか(各放送局も第3者委員会を設置して報道しなかったことの原因を調査すべきだし、処分や再発防止策を示すこと)はまったく示していない。

隠ぺいするときも、現在のように一定の報道が始まるときも、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という無責任・思考停止で主流の流れに沿うだけの姿勢を続けており、その意味でじつは、主流秩序への加担の反省など全くしていないのである。主流秩序に従属してきたという自覚すら持てないのである。

口先だけで反省を言う(だが実際は何の責任も取らない)のは安倍元首相を典型として政治家がよく使う手である。真に責任をとるというのは、なぜ自分がそうした誤った選択をしたのかを分析し(組織としては調査し)、今後はその道を選ばないためにこのように、単に個人の意識啓発でなく、「ここをこう変える」という再発防止の組織的制度的具体策を示し、過去のことに対して適切な処分や辞任、謝罪や賠償をすることもすることである。「遺憾である」「責任を感じている」「お詫び申し上げます」「今後再発防止に努めます」と口先で1回いえばすむような話ではない。

 

今回、告発する人や報道する人(BBC)が動いて主流秩序が動いた、変化したということで、このケースは、主流秩序に従属する人がほとんどで時間がたったが、勇気を出して真実に向かう人が出てきて動いた。BBCという海外メディアの影響が大きく、それに続いて実名告発したカウアンさんの動きが大きかった。

 

  • ジャニーズ問題の4つの性質

 

ジャニーズ問題とは何か。それは一つは、性加害/被害問題、特に特に男性の性被害の軽視問題である。その背景には、もそものジェンダー問題への鈍感さ 性暴力の軽視がある。ニュースで報道すべき問題と思っていなかったというのは、分野の分担問題ではなく、人権意識の問題である。「セクハラ」「レイプ」は問題とされていたのに、「男性への性暴力」という視点さえなかった問題。(男性への性被害に認識が甘かったのは、私・伊田にもある問題)

 

それに加えてメディアが報道しなかったという「メディアの沈黙問題」。これが2番目の性質。自粛・委縮・忖度などと言われている。加害が世間に知られることに対し、ジャニーズ事務所は隠ぺいを図ってきたのであり、それに従って沈黙したことは単に「報道しなかった」というより、「性暴力隠ぺいへの加担」である。だがこれをいうだけでは浅い。

 

ジャニーズ事務所性暴力問題の4つの側面

1:性暴力問題、ジェンダー問題への鈍感さ、特に特に男性の性被害の軽視

2:配慮・忖度によるメディアの沈黙、性暴力隠ぺいへの加担

3:芸能界・メディアへのパワハラ(非ジャニいじめ・排除)とそれへの加担

4:「成功のためには汚いことには目をつむるしかない」という価値観

 

3番目の性質は、パワハラ問題(《非ジャニ》いじめ・排除)である。ジャニーズ事務所ににらまれたタレントたちをいじめる、排除する、使わない、テレビやラジオや雑誌に登場させない、という、パワハラ=人権侵害に多くの人が加担したという問題である。これは、性暴力報道沈黙とは根っこでは繋がっているが、一応性質的には別問題である。

ここが理解されていないというのは、ここは、主流秩序に加担した自分の責任の問題の側面が特に大きいので、多くの人は認めたくないのである。だからここにかかわることを少し言及しても、「仕方なかった」というニュアンスで語っている。

 

例えば、NHK[クローズアップ現代]が、ジャニーズ事務所が文春を名誉棄損で訴えた裁判において最高裁で高裁判決[1]が確定したころに、それを報道・考慮しなかった人たちに聞き取り調査をした。そこでかかわった人が語るのは、深い反省ではなく、仕方なかった系のいいわけであり、また本稿の「4つの性質」に関わる人権意識が非常に低いことを示す言葉であった。

 

NHKや民放の元職員や現役職員の言葉

*スポンサーへの配慮から、ジャニーズはさわらないと思ってやり過ごした。営業・スポンサーにかかわるからアンタッチャブルと思い、思考は停止して疑問もたなかった。

*逃げたほうがいいなという打算をして報道しなかった。

*警察が捜査・逮捕しなかったので、報道しなくていいと思った。

*ペン(真実報道)よりパン(利益)の方をとっので、責任は少しある。

*重大な問題だというセンサーがなかった。許せないことだという意識がなかった。

*裁判のことはしっていたが、出演の判断に影響を与えることはなかった。

*売れているタレントをキャスティングしたかった。

紅白歌合戦の視聴率が低迷していたので、人気あるジャニーズを起用した。芸能は見てもらって視聴率が一番大事という考え。

*今は、若い子供たちを傷つけた点で、マスコミは加担したといわれて、反省し猛省する。

*裁判を理由に「ジャニーズの起用どうしようか」などと言えば「お前、おかしいんじゃないの?」と言われるような時代だった。

*性加害については、「そういうこともあるのかな」くらいのレベルでとらえていて、上からも現場からも懸案事項として議論に上がったことがない。

*(90年代、喜多川と親交があった元プロデューサー)「ジャニーさんの家に子供が泊まっているのは知っていたが、“えげつない世界”や、“性的な部分”は知りたくないと思っていた。視聴者獲得のために、清濁あわせて飲んでやってきた。

*ジャニーズが使えなくなったら、ドラマも止まり、番組もできなくなり、どうするのか。考えるまでもなくNOだ。(民放社員)

*ジャニ担という御用聞きがいて、その人物以外はジャニーズの話題に触れてはいけないし、マネージャーに電話もできない状態だった。もしクビ覚悟で取材できたとしても、放送はできなかったと思う。(民放)

*ジャニーさんはまじめな人柄で、ジュニアたちのことを真剣に考えていた。事件化されて大々的に報道されていなかったので、ジャニーさんを責める人はいなかった。

*芸能ネタは、民法や週刊誌に任せてておけばいい、newsにする基準に達していない、NHKの報道では扱わないという考え。

*(芸能担当)「自分たちのカバー範囲という認識はあったが、文春報道に対しては「芸能界の内輪の話だよな」と思っていた。

*(クローズアップ現代関係者)「当時、性犯罪事件だという認識が欠落していた。」「あの世界はそういうものなんだという認識で、クロ現でとりあげようとはならなかった。芸能の世界はきれいごとばかりではなくて、俳優の起用も判断基準があいまい。監督などの好みによるところが大きいから、芸能界とはそういう世界だと思っていた。」

 

◆なお、NHKを退職後、ジャニーズ事務所の顧問をしている人物(元理事)に取材しても回答はなかった。

 

つまり実態は、性加害を報道しなかっただけでなく、 各テレビ局などは「ジャニ担」を置き ジャニーズに反発した人、ジャニーズを批判する人、ジャニーズ事務所を出て行った人、そういう人を徹底して差別した。その種の意見を世間に見せないようにした。隠蔽である。 その方針を、明示的暗示的に空気として形成し、それを各テレビ局や雑誌に事実上伝え、「こっちの言うことを聞かずに そういうやつらを扱ったら、もううちのタレントを出させないぞ」 という脅しを事実上かけ続けていたのであり、それに積極的に加担していた人が多くいたのである。

それはSMAP問題でも明らかであった。そしてそれと裏表関係にある言動が、ジャニー喜多川・讃美である。面白い人、素敵な人、すごい人という逸話を多くの人がテレビなどで語ってきた。批判どころか美化である。

そこを第3者委員会で解明し、組織で加担したものを「処罰する」(様々なレベルのなんらかの責任をとらせる)ことが必要であるが、それをしないのは、またまた「みんなで真実を隠蔽し、一億総ざんげ的に一般論を言うだけにし、無責任にことを終わらせよう」としているからである。ひとことでいえば、「自分の加害責任を認めたくない、責任をとりたくない」からといえる。事実調査も、責任も処罰もなく、口先だけで謝って事を終わらせ、前からの構造はそのままにする。まさに、主流秩序の構造を維持したままの対応の典型である。

 

90年代のある時以降、どこまで毎回圧力や脅しをジャニーズ事務所がかけていたかは不明であるが、DVがそうであるように、「怖い相手の言うことをきく」状態は、支配状態なのである。以前に殴って怖さで支配した後に、殴っていなくても相手が言うことをきいているのは、DV状態継続なのである。

それと同じように、ジャニーズ事務所が何も言わなくても、「脱ジャニーズ」(非ジャニ)のものを使わないのは、パワハラ=支配関係が続いているということである。それが毎回毎回言われたかどうかは、問題ではないのである。 少なくとも過去に圧力的に言ったことは 誰もが認めている[2]。 そしてそれが続いているのである。

記者会見では、「忖度があった」「どうしてかなとおもった」といっていたが、芸能界で先輩的な地位になったらその「ジャニーズ事務所の帝国化=パワハラ放置」には、主流秩序への加担責任が伴うのである。「そういう、なんかへんなことが続いているなあ」と思っているだけで何もしなかったのは、「強いものに逆らったやつはこういう冷遇扱いをされるんだ」という空気を再生産していたのである。

 

ここを深く反省しないで、いまだ、ジャニーズタレントを無批判に使い続けるのは、主流秩序に従属した姿勢である。

この3番目の話は、2番目の性質とともに、一般化すれば、主流秩序に合わせる(抵抗しない)のは、「主流秩序は変わらない」「芸能界てこういうもんだ」「食っていくためには仕方ない」「自分のような一個人が抵抗して何とかなるもんじゃない」「俺は組織人だから」「私には家族がいるから」「会社の仲間を裏切れない」「清濁併せ呑む」などというお決まりの考えで、自分の加担を正当化する問題である。

上記、NHKや民放の「担当者の証言」には、そのような意識がにじみ出ているものが多かった(考えるまでもなくNOだとか、アンタッチャブルと思ってからは思考停止、深く考えないというような発言など)。メディア人の矜持などないのか、自分の頭で考えるという力がないのか、と思うほどの質・意識の低さである。

 

第4の性格は、以上に絡むが、「成功のためには汚いことには目をつむるしかない」という価値観の問題である。有名タレントとして売れて成功すること(成功したトップアイドルになること≒有名人になりモテて、金儲けができる)が何より価値あることだ(至上的価値)という価値観にとらわれていることの弊害が出ている問題だということである。

 

つまり、もし主流秩序への批判的な意識が醸成されていれば、そして適切な性教育がなされていれば、性被害者が悪いとか恥ずかしいのではないと分かり、悪いのは加害者だと確信を持て、嫌なことをされたら逃げたり告発したりしやすいが、アイドルとしてトップになって金儲けできるようになるめには、どんな犠牲もいとわない、嫌なことにも耐えなくてはならない、世の中なんてそんなもんだ、と考えるようになっていれば、「性暴力も我慢して受け入れ、黙っておこう」「成功には犠牲がつきものだ」「強大な人には逆らえない」となる。性被害は恥ずかしいことだし、受け入れてしまった自分が悪いと思って、告発もできなくなったり、自分を責めて病的に傷ついたりする。

もちろん、このことは世界的にセクハラがある構造とよく似ている問題である。日本中で若い人にそうすべきであるように、若いタレントに対しても、「アイドルとしての成功や金儲けがすべてにまさる価値だ」「すべては“やるか、やられるか”の競争で、他者を蹴落として、勝ち組になるしかない」「世の中は汚さや、闇・裏社会はあり、金や権力ある者には屈服するしかない」というような考え方が“ゆがんでいる”という教育をしなければならないが、そうなっていない。そういうことを学校で教えているかというと教えていない。

この講義のような授業が一体どこでなされているだろうか。そこに付け込まれて、他者を蹴落として自分が成功するには、「ジャニーさんの希望に逆らったらだめだ」と思い、隠蔽が長く続いてきた問題というとらえ方も必要である。だがそうした指摘はほとんどないのではないか。

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以上の話を少し別角度からもまとめておく。

「性加害については、報道系の自分の仕事ではないんじゃないか」と思い、見過ごしてきたという反省の言葉を言う報道人は一部いるが、それも不十分な反省で、その意識の背景には、「ジャニー喜多川の性の話は芸能界のゴシップであり、ゴシップというのはレベルが下の話で、政治などの社会問題から見て扱うに足らない些細などうでもいいことであり、「性暴力」とか「セクハラ」という範疇でさえとらえず、特に男性のそれは、女性の時以上に軽視していた」という重大な人権意識の欠如・低さの問題だったのである。

 

報道が徹底的に権力チェック含めて不正や人権問題に切り込むという意識が低く、会社とかテレビ局とか、芸能界とか、そういうものとの絡みを意識して自己保身をはかり、大きな主流秩序に立ち向かうような勇気も思想もない、ただ、組織に従属し、「大きなものには逆らわないでおこう」という恥ずべき生き方をしていた問題であるという総括をすべきなのに、そこまでいかない。

だから本当に反省はしていないし、今後も似たような問題で又自己保身の道を選ぶ人がほとんどなのである。

 

このジャニーズ事務所問題の処理の仕方から浮かび上がるのは、今後、より大きな力が働く【戦争】という大テーマで社会が大きく動くときに、戦前の報道陣、アナウンサーたちが軍部の一部のように戦争に協力するサラリーマンになったように、今後も、大きな流れに逆らわない、長いものに巻かれるだけでいい、それどころか積極的に、それに加担して上昇しようとするものが出てくるであろうということである。

ジャニーズ事務所と仲良くなって、出世したものがいたのと同じである。

 

 

  • 主流秩序の観点で加担の程度を見極めることが大事

 

以上のような、主流秩序に絡めて広く深く考えないと、この問題は芸能界の小さな問題で、ジャニーズのアイドルたちは巻き込まれてかわいそうだと思ってしまう。いまだ、ジャニーズ事務所が悪いと思ってていない人がいる。そこの所属タレントはだれも悪くないと思っている人がいる。だから事務所名を残そうとか、タレントを起用し続けようという話になる。

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上記の図を作って以降の問題の展開を踏まえて、詳しく、主流秩序に加担や抵抗する程度で分類したものが以下である。こうした観点で、責任の程度を見抜き、どう動いているかを見ていくことが必要なのである。それなしに、またまた主流の流れに身を任して、一般論で逃げたりするだけなら、それはまた同じことを繰り返していると言えよう。今、特に必要なのは、各放送局や雑誌など各社それぞれで第3者委員会を立ち上げて究明していくことである。

以下、主流秩序への加担の程度で「ジャニーズ事務所問題への4つのスタンス」をまとめておく。上記の5月段階の図の変更である。

 

【1:積極的加担】主流秩序に一番積極的に加担した、一番責任の重い人々

性加害を積み重ね、隠蔽してきたジャニー喜多川

メリー喜多川藤島メリー泰子氏が性加害を知りながら徹底的な隠蔽を図り、事務所も見て見ぬふりをして被害拡大を招いた)

藤島ジュリー景子社長(文春裁判時も当時も取締役)

ジャニーズ事務所のスタッフ全員、特に上層部、長年社員である人(ジュリーと双璧だった飯島氏含む)

タレントでも力のある上位の人(幹部系、ベテラン、報道にかかわった人)

ジャニーズ事務所とつるんで、積極的に問題を隠蔽してきたり、黙殺・傍観してきたものたち、および、ジャニーズ事務所が嫌いな「脱ジャニ」を使わないという形で、パワハラに加担した者たち全員(テレビ、雑誌、新聞、通信、などのマスメディア、芸能・音楽業界、広告関係者、スポンサー企業の姿勢など)

特にジャニーズ事務所と近い距離で懇意にして自分が出世・活躍してきた者たち、ジャニー喜多川を美化してきた人たち(ジャニ担やジャニーズ事務所を持ち上げる芸能レポーターやプロデューサー、ディレクターなど)

23年年にここまで問題が大きく発覚しても、タレントに責任はないから使い続けるなどと言っている組織(テレビ局など)や人(芸能人やコメンテーター等。ファン)など[3]

*ネットでジャニーズ事務所・性加害問題に対して、ジャニーズ事務所擁護の立場で批判的な意見に誹謗中傷を書き込む人たち

ジャニーズ事務所が文春を名誉棄損で打立てた裁判で、ジャニーズ事務所側についた人

*この問題のことを知っているのに、何も発言も行動もしないままタレント活動を続けているジャニーズ事務所の人(タレントだけでなく、マネージャー、職員など含む)

⁺23年5月段階で、BCC放送やカウアンさんの被害告発があった後に、『それは嘘だ、偏ている』などというスタンスをとった人、山下達郎のように批判した人を排除することに加担し、ジャニーさんにはいい面があったと発言するような人たち(いいところがあっても、性暴力はだめ)

*積極的にこの問題の事実解明に抵抗する人、第3者委員会設置に反対する人、調査に応じない人

*2019年にジャニー喜多川が死去したときに美化・賛美するような追悼番組作ったり、発言した人たち(タレント含む)

安倍晋三などジャニーズ事務所を美化し利用してきた政治家[4]

 

【2:消極的加担・傍観者系】

*この問題に関心を持たず、ただジャニーズタレントが好きというだけで、何の変化もないままのファン。まったく無関心で、まさかジャニーズ事務所がそんな悪いことするはずないと素朴に思う人々、そんなのは嘘だとおもってジャニーズ側の肩を持った人(ネット、ファン)

*一般的な反省の弁を出して事を終わらせている各放送局やメディアなど(第3者委員会作手の事実解明をしない組織)

*この問題で(本当に見聞きしたりしてなくて、かかわりもないようなところにいるなかで、消極的に)沈黙したひと(社員、タレント、メディア関係者、被害者)

SMAP問題での中居、あいまい姿勢

*(今後)東山紀之新社長と井ノ原快彦さんの2人が事務所改革不十分、社名もジャニーズ事務のままの場合

 

【3:主流秩序を変える方向で動き始めた人たち】

*検証を始めたNHKクローズアップ現代」(23年9月放送)のスタッフ

*「メディアの沈黙」などを反省し考え始めているメディア人。過去報道しなかったことを反省と表示した人

ジャニーズ事務所という組織が問題あるので、あそこのタレントの起用をやめた企業・番組等(経営観点や、責任逃れとしても)+積極的には今後使わないという程度の消極的な態度含む

ジャニーズ事務所の若いメンバーで、発言などしないが、少し(うまく)抵抗した、従わなかった、逃げた、疑問を持ったひとたち、ジャニーズ事務所をやめていったタレント

SMAP問題での草薙、香取、稲垣、(および解決に向けて努力した中居)

*この3人を出場させたメディア関係者

*明確に性暴力への加担は指摘しないが、一般論としてジャニーズ事務所問題に言及する人

*(今後)調査に正直に応じる人

*(今後)東山紀之新社長とジャニーズ・アイランド社長の井ノ原快彦さんの2人が、解体的な事務所のスタイル変更へリーダーシップを発揮して改革を進めた場合(過去の加担責任を解明し、誠実に謝罪し賠償していった場合、脱ジャニーズのタレントたちと共演を進めていった場合)・・会見では井ノ原さんには正直さが一定あった。

 

【4:主流秩序に勇気をもって闘いを挑む人たち】

*1999年10月から、喜多川による所属タレントへの『セクハラ』についてキャンペーン報道を展開した週刊文春、同じような立場の記者たち

*告発本などを出し、この問題を追求・告発し続けてきた人(1988年、フォーリーブスのメンバーだった北公次さんが、著書で喜多川氏の性行為強要に言及)

*「ジャニーズ性加害問題当事者の会」の活動をしている人たち

*メディアに出て被害を発言している人

*2023年:3月に喜多川氏の未成年者への性的虐待疑惑を取り上げた、約1時間のドキュメンタリーの番組の放映をした英国公共放送BBC

*被害の訴えを最初に顔出しでした元ジャニーズJr.のカウアン・オカモトさん

*ファンらでつくる「PENLIGHT(ペンライト) ジャニーズ事務所の性加害を明らかにする会」:ヒアリングを望まない人を尊重しながらも検証ができる方法を求めたほか、当時タレントと接していた社員に対して、性加害を知らなかったのかどうか調査するよう要望書発表

*なぜこうなったかを深く検討しようと動き始めた人たち

*日本政府に被害者救済を要請した国連人権理事会「ビジネスと人権」作業部会

*調査結果と提言を発表した、事務所が設置した再発防止特別チーム

*(今後)自分の過去の加担(沈黙やパワハラ、性暴力軽視)を正直に発表し、謝罪し、償いを考えていく人

*(今後)自ら自分たちの組織に第3者委員会を立ち上げて自分たちの加担責任を問うと同時に、ジャニーズ事務所を監視して、期限を区切って改革を進めるように提言していくテレビ局や雑誌などの側

 

 

 

 

[1] 性加害が認定され、名誉棄損も一部認められ、分取運賠償命令が出された。

[2] 文藝春秋に対する訴訟の東京地裁判決に以下のように書かれている。週刊文春の記事において、「原告事務所〔注:ジャニーズ事務所を指す〕は怖く、当局〔注:在京の民放テレビ局を指す。〕でも事務所にネガティブなことを扱うのはタブーである」「マスコミ対応を委ねられているメリー喜多川は、ドラマの共演者が気に入らないと、その放送局の社長に直接電話をかけ、外すよう要求することもあった」。

「日刊スポーツ」(2021年8月18日付)によると、1998年に、「日刊スポーツ・ドラマグランプリ」の決め方が、記者と評論家の「審査員票」と「読者投票」で各賞を決め、票の比重は半々だったことに対して、メリー氏はこの審査方法に抗議しに来たという。『あなた、全部のドラマ見ているの?』、『見られないのに(記者や評論家が)審査するのはおかしいですね』、『やはり視聴者に任せるべきです』といって、結局読者投票だけに切り替えられた。記者は、言外に『そうしないとジャニーズのタレントは出さない』のニュアンスを感じたという。

[3] 9月7日会見を受けて、所属タレントの起用についてNHKは「所属事務所の人権を尊重する姿勢なども考慮して、出演者の起用を検討したい」としたのに対し、テレビ朝日は「タレント自身に問題があるとは考えておりません」とし、これまで通り起用していく方針を示した。日本テレビは、、現時点でジャニーズ事務所所属タレントの番組出演について変更する予定はございませんとした。

[4] 2019年9月に東京ドームで行われた喜多川のお別れ会で代読された、安倍晋三首相(当時)の弔辞は、「ジャニーさんへのエンターテインメントへの熱い思い、託したバトンは、必ずやジュリー(藤島景子)さん、滝沢(秀明)さんをはじめ、次の時代を担うジャニーズのみなさまへと、しっかりと受け継がれていくと私は確信しております」というものだった。

安倍氏は、TOKIOのメンバーと首相官邸内で懇談したり会食、関ジャニ∞村上信五のインタビューを受けたり、V6の岡田准一と対談したり、嵐の東京ドームのコンサートに足を運び、ステージ裏でメンバーと面会したりしてきた。

NHK「アナウンサーたちの戦争」にみる、主流秩序に従属した人びと

  • NHK「アナウンサーたちの戦争」にみる、主流秩序に従属した人びと

 

「アナウンサーたちの戦争」(NHK2023年8月14日放送)をみた。基本的に、アナウンサーたちの戦争へのかかわりを調査したうえで再現したもので、いい番組だったと思う。しかしそこから浮かび上がる、当時報道にかかわった者たちの生き方は、まさに主流秩序に従属・加担した愚かしいものだった。そのことを確認し、未来の私たちの生き方への教訓を得たい。

***

先ずは、番組内容紹介(NHKのHPより)

太平洋戦争では、日本軍の戦いをもう一つの戦いが支えていた。ラジオ放送による「電波戦」。ナチスプロパガンダ戦に倣い「声の力」で戦意高揚・国威発揚を図り、偽情報で敵を混乱させた。行ったのは日本放送協会とそのアナウンサーたち。戦時中の彼らの活動を、事実を元にドラマ化して放送と戦争の知られざる関わりを描く。

国民にとって太平洋戦争はラジオの開戦ニュースで始まり玉音放送で終わった。奇しくも両方に関わったのが 天才と呼ばれた和田信賢アナ(森田剛)と新進気鋭の館野守男アナ(高良健吾)。1941年12 月8 日、大本営からの開戦の第一報を和田が受け、それを館野が力強く読み、国民を熱狂させた。

以後、和田も館野も緒戦の勝利を力強く伝え続け、国民の戦意を高揚させた。同僚アナたちは南方占領地に開設した放送局に次々と赴任し、現地の日本化を進めた。和田の恩人・米良忠麿(安田顕)も“電波戦士”として前線のマニラ放送局に派遣される。一方、新人女性アナウンサーの実枝子(橋本愛)は、雄々しい放送を求める軍や情報局の圧力で活躍の場を奪われる。
やがて戦況悪化のなか、大本営発表を疑問視し始めた和田と「国家の宣伝者」を自認する館野は伝え方をめぐって激しく衝突する。出陣学徒を勇ましく送り出す実況を任され、ただ苦悩する和田を、妻となった実枝子が叱咤し目覚めさせる。そして館野もインパール作戦の最前線に派遣され戦争の現実を自ら知ることになる。戦争末期、マニラでは最後の放送を終えた米良に米軍機が迫る。そして戦争終結に向け動きだした和田たちにも銃口が迫る。

 

作・倉光泰子 (『PICU 小児集中治療室』 『今際の国のアリス』)
音楽・堤裕介 (『アバランチ』 『インフォーマ』)
語り・橋本愛 (和田実枝子役)
取材・網秀一郎 大久保圭
演出・一木正恵
制作統括・新延明

 

  • あまりにも“無垢なレベル”の報道人たちであった

 

このドラマによって、戦時中のアナウンサーたち(日本放送協会のラジオ、その後テレビも)の動きが分かって有益であった。それは、戦争にむけてどういう態度をとるべきなのかを考えさせるものだったし、主流秩序に加担した人たちの生きざまの問題を浮き彫りにしたからである。

戦争状況が近づくにつれて、事実を客観的に伝えるために平板に原稿を読むべきか、感情的に煽るように読むかで議論がおこったりしたが、戦時になっていくと、国民の意識を戦意高揚にもっていくように感情に訴えるような文章や読み方になっていったのである。

そこには、時代背景もあるが、メディアというものが民主主義にとって大事で、権力をチェックすることが使命だというような視点がない。非協力不服従という戦い方も知らない。そもそも戦争が多くの人を殺し殺される悪だという視点もなく、自国が勝つか負けるか、勝てばいいというナショナリズム的価値観しかない。当時から学問とか政治的には共産主義思想などがあり、戦争に反対する思想と運動もあったが、そういうのはだめだと国家が統制する中、簡単に洗脳・コントロールされ、民主主義や反戦争ということを学ぶ知性もないアナウンサーたちであった。

 

 つまり、戦前の日本放送協会で働くアナウンサーたちは、戦争という大きな出来事への深い思想性やメディアの使命を知らない、ない、ただの、原稿を読む雇われ人(サラリーマン)だった。それは、高学歴で賢さがあるとか、英語を話せるとか、読むのがうまいとかということと矛盾しない。人間としての生きかたのレベルで、子供のままで無垢な人、時代に簡単に翻弄されるような、レベルだったということだ。

そういう人間が、戦争という主流秩序に積極的に加担していってしまう悲劇が描かれたのである。

 

具体的には以下のようなシーンがあった。

軍部が戦意高揚を図るように原稿を読めと言ってくる。

それを受け入れていく人が言う。

「決戦の時に俺たちは重要な役割を任せられたんだ」

それに疑問を感じた川添アナは言った。「でも少し前まで誰もアメリカを憎んでなかったでしょ、むしろ映画や音楽で私たちは焦がれ大好きだった。なのに敵への憎しみをあおるように原稿を読めというのか。国民に憎しみを植えついえるなんて恐ろしいことですよ」

だが、館野守男アナが反論する。「そうさせたのはアメリカだ。それに、今やアナウンサーは国家の宣伝者、アジテーターなんです。マイクが運ぶのは国家の意思だ!」

それに対してだれも反論しない。

そうして社の方向は決めらていった。

 

***

開戦だと聞いて、身震いするように喜び、敵に勝つのだと意識を高ぶらせ、勝ったと言って喜んでいる状況であり、国民もそれに煽られて、勝った勝った、バンザーイと喜んでいた。

戦争が殺し合いであり、日本が事件をでっちあげて不当に侵略している事、兵士や民間人が死ぬということが分かっていない。戦争に勝たねばならない、悪いのは米国という構図に乗っているだけ。戦争反対の思想がないということは、何という知的レベルの低さかと今の基準でい言えば思うが、それが当時の実体であった。民主主義や共産主義を学ぶような人は一部にとどまっていた。

 

「鬼畜米英と煽っていいのか」というような人や、米国という大国と戦争して勝てるわけがないと思う人も一部いたが、そういうことがおおぴらには言えなくなる中で皆が沈黙し、愚かな大本営発表を信じるだけの人々という状況になっていき、メディアは新聞記事をもそうだが、それに積極的に加担していった。ヒトラーの演説で大衆が熱狂しているのを見て、そういうのを目指すような状況だった。全体主義的な政治への批判性などがなかったのだ。

こういう時、戦争にな他のだからラジオ局も一緒になって戦い、国民の戦意を高揚させないといけないという単純な考えだけがあった。「お国のために役割を全うする」というところで思考停止し、天皇バンザーイのレベルであった。

 

  • 現代への教訓

いまウクライナでも、ロシアでも、この1940年代の日本の社会状況と同じレベルのことが起こっている。インターネットがこれだけ発達し、民主主義という概念が世界的にひろがっていても、である。戦争の実相、その結果をちゃんと学んでいなくて、ナショナリズムへの批判性が十分に涵養されていないのである。今のロシアやウクライナを見ていると、大衆のレベルは、80年前と変わっていない。

今日の日本の主流秩序状況にどう向き合うかという観点で考えると、主流秩序に流されていくときの言い分はいつも同じだということを確認していくべきである。

すなわち、会社・自分の身分(食い扶持)を守るために、「きれいごとではやっていけない」「家族という守るべきものがある。だから時勢に逆らえない」、「自分はただの社員で、上の言うことをするだけ、原稿読むだけ」などといって、戦時体制に屈服あるいは積極的に乗っていき儲けていくとか出世していくのである。それは戦後に責任を取らないという姿勢にもつながっていく。

歴史を見れば、多くの人間というものはいつもこの程度である。現代でも、主流秩序に合わせる人はおなじことを言う。

だが、会社を辞める手もあるし、異論を言っていく余地もあるのだ。主流秩序に抵抗した人は歴史上、多くいた。選択肢がないのではなく、選択して、主流秩序に加担する道を選んでいくのである。それを「長いものに巻かれる」という。

アナウンサーだから少しは、真実を伝えたいという意識のひともいたのだが、当時、放送協会は、取材するようなメディアではなく、ただ原稿を読むだけという位置づけだった。新聞は、もう少し意見というものがあったが、徐々に制限され、異論を言うものが追い出され、組織全体として、軍部の一部と同じような動きをしていった。

何が真実を調べるとか、政権や軍部の嘘を暴くとか、戦争への賛成と反対両論を書くとか、ナショナリズムの検討とか、軍艦マーチなどの軍歌で人を煽っていいのかとか、考えることはできたが、そういうことをせず、芸能人や芸術家や学者も、多くは、戦争体制に加担していった。其れが仕事だ、生きていくため目には必要だと言い訳して。売れるものを作る、読者や視聴者が喜ぶものを提供するという理屈で、時代に呼応し、相互作用で、戦意高揚の流れを作っていったのである。

***  

これは現在、ネットで、フォロワーが多いほどいい、受けること(バズること)を言うのがいい、という発想と同じである。何を自分が発出したい、創造したいのかではなく、受けるもの、儲かるものを作る・提供するというのである。承認欲求を満たすために生きているのである。

そんなレベルで生きている人が、北朝鮮やロシアや中国の人々を批判できるであろうか。そもそも、戦前の日本軍国主義ナチスファシズムを批判できるのか。

だが、そういうように考えないのである。考えず、歴史から学ばず、ただ、いまの時代に流され、何が受けるか、いま何を言えば時流に乗れて、政府に受け入れられ、メディアで活躍できるのか、つまりは、どうすれば主流秩序の上位に行く「成功者になれるのか」だけを考えているのである。

戦時のアナウンサーやメディアを振りかえって学ぶべきはそこであろう。だが、現代において、そういうことを言う人は限られている。

 

  • 「電波戦」と「歴史戦」

第二次大戦時と同じレベルで、いままたナショナリズムになって、軍備増強で安全保障を言う人が多くなっている。

当時、アナウンサーたちは、どんどん軍事体制に組み込まれ、軍事の一部と化していったが、そこにやりがいや展望を見出し、戦争自体への批判性など全く持っていなかった。プロパガンダに加担することに疑問をもたず、「電波戦だ」といって積極的に戦争に加担し、海外にも出かけて報道というところで戦争の一部を担った。真実を報道するのでなく、軍部の言う大本営発表をただ広げた。内心、過大な報道がある、嘘があると思っていても、そこに疑問を呈したり抵抗することもなく、ただ、加担し続けた。

そして国民の多くも、「勝利した」という報道を聞いていて万歳と言っていた。戦争後半から「玉砕せり」という放送などもするようになったが、それは真実を伝える報道でなく、敗北や手段自決を美化した言葉だった。特攻隊という無謀な作戦も、冷静に考えるとおかしいが、美化されていった。本土決戦などというのは負けているからの事なのに、真実など全く追求しないままだった。

「虫眼鏡で調べて、望遠鏡で伝える」とか、言っていたくせに、戦争体制になるとそういう姿勢をかなぐり捨てて、大軍発表を、戦意高揚の口調で読むだけと居直っていったのである。真実の報道などという誇りも理念も矜持もないただのサラリーマンだった。それはナチスの官僚アイヒマンと重なるものだった。

いまでいえばトランプの側に立って、フェイクニュースを出すFOXのようなメディアであることに疑問を持たず、「仕事だ」と思ってやってしまっているということである。

***

私は、当時、「電波戦」といい、戦争のための報道と位置づけ、大衆を感動させ誘導することに意義を見出していることを知って、近年の日本の一部で使われている『歴史戦』という言葉を思い出した。

『歴史戦』というのは、右翼たちが「反日」などと同じく、使いだした言葉で、産経新聞が意識的に、慰安婦問題などで韓国や中国などと戦うという中での、歴史認識をめぐる戦いだということで使いだしたものである。韓国や中国は慰安婦とか、侵略とか、南京大虐殺とか嘘を言ってくる、それに対して、日本が誇りを取り戻せるよう、「真実」を世界に広めねばならない、そういう歴史評価をめぐる情報戦を「歴史戦」といって、世論を煽って誘導してきたのである。もちろんその背景には、安倍首相を担ぎ上げる日本会議など右翼勢力があった。

 

私が驚いたのは、NHKまでもが、岩田明子解説委員のもと、この言葉を使って解説しており、まるでそれが「普遍的に認められた、当然の状況説明の言葉」であるかのように使っていたということである。岩田氏は、安倍首相のお気に入りで有名となった人で、彼女はメディアの役割を、政権党を支援することだと考えていた人である。

今回の番組を見て、歴史は繰り返されていると思った。NHK内部には、岩田氏の活躍などを苦々しく思う人もいたようだが、退職するまで彼女はNHKで「政権中枢の情報をとってくる」ということで重用されていた。日本のマスメディアの多くが権力チェックするメディアではなくなっている象徴であった。

皮肉なことに、NHKの「アナウンサーたちの戦争」という番組で、図らずもこのことが浮き彫りになってしまったのである。

NHKスペシャル「日本はなぜ戦争へと向かったのか」も含め、NHKには適切な反省の上に立つ良質な番組もある。だが、岩田解説委員の『歴史戦』ということを無批判にたれながしたNHKは、80年前の「電波戦を担うわれら」ということを繰り返したのである。罪はもちろん、いまの方が100倍重い。民主主義が未発達で無知だった当時と、民主主義やメディア論が進化した中での“あえて選択したスタンス”の違いである。

 

  • 過去のアナウンサーの轍を踏まないレベルに成長できるのか――「勝てる戦争へ」という人々

 

だが、この歴史で繰りかえされる、80年前の戦争等主流秩序へのむじあっくな加担問題は、NHKだけの話ではない。原発事故があっても責任を取らない人々、いじめがあっても調査しないとか調査結果を隠すなど嘘を言う教育委員会や学校など、戦争に加担した「ただの会社員」と同じレベルのことが繰り返されている。主流秩序の前で、加担する道を選んでいる自覚がなく流されている人々。

とくに台湾有事を口実に、集団的自衛権で、戦争体制を進めたい勢力が、ウクライナ戦争を利用する中、私たちは冷静に、過去のアナウンサーの轍を踏まないレベルに成長する必要がある。だから大学でこういうことを学んでいるのである。学ばない者は無知なまま、同じことをする。

よく考えてほしい。当時のアナウンサーで矛盾を戦争途中から感じ始めた和田信賢アナも、戦争末期に、負ける戦に若者を送りこむから悩むが、では勝つ戦争で、戦地に送り込んだ若者が生きて帰ってきたら悩まないのか。

そう、和田も、当時の人も、それなら悩まなかったろう。歴史を見ても戦勝国はあまり悩まない。正義の戦争と位置付けられ、勝てば官軍であり、経済も活発化し、英雄が生まれ、勝利の美酒に酔うのである。戦争犠牲者は、生聖戦の勇気ある犠牲者として奉られる。そこに反省は生まれにくい。「私たちの社会を守るためによく戦った」という美化・肯定だけがあるのである。

戦後日本が平和憲法をつくり、平和主義・非武装を選べたのは、原爆被爆経験を含め、悲惨な戦争の体験からであった。負けることにも意義があった。だが、「負ける戦いだったのに」という反省の仕方は、いま多い。「今度はそういう愚かなことにはならないように」というのである。ウクライナ戦争で出てくる防衛相関係の「学者」はその程度のことを言っているだけである。

戦争自体の否定ではなく、負ける戦争にならないよう、政治の一部として軍事的に戦う、強く成ろうという発想である。非暴力主義の思想的深見などみじんもない。

 

  • 戦後責任をとらないで「変身」した人たち、という問題

 

2023年、「アナウンサーたちの戦争」を見て、こうした色々なことを思った。当時のアナウンサーたちは愚かだった。だがそれを坤為地の日本で、描いて歴史を示したことには意義があった。

若者に「お国のため、天皇のために死ね」ということに苦しみを抱えたアナウンサーを美化する感じがすこしあったが、そこはこの番組の「弱さ」だと感じた。というのはその和田アナは、ただ悩み、担当に放送を病気を理由に離れただけで、積極的に抵抗しなかったからである。戦後もNHkで働き続けたからである。

まあ、だが、戦時中に玉砕を美化する、最後まで軍部と一体になって戦意高揚の役割に突き進んだ、館野守男アナよりはましだけど。

和田アナは抵抗せず、ただ悩み、病気になって逃げただけである。まあ、積極的加担の館野アナよりもましだけど。

辞職もしなかった 生きたいという若者の声を伝えもしない。日本の敗北の事実も報道せず大本営発表を伝え続けた。彼は苦悩したのだろう。しかし、それを言うことなく沈黙し、戦後も同業界にいつづけた。

***

じつはそれが多数派だった。軍人も、政治家も行政・公務員、憲兵や警察、も、メディアも、学校の教師も、民間の団体も、戦後、自分が戦争に加担したことに口を閉ざし、「民主主義になっていく日本」で生き延び、知らぬ顔で、民主主義を語っていったのである。米国万歳となて行ったのである。

主流秩序に加担した犯罪的事実の隠蔽であり、自分の加担責任の隠蔽である。その象徴が靖国神社であり、A級戦犯でさえ戦後活躍したこと、B級C級などの戦犯も罪を問われたのは一部であり、しかも東京裁判は不当だというよな「いなおり」のレベルの「戦後」であった。「私は貝になりたい」と言って下っ端の兵士は、「なぜおれが責任を問われないといけないのか、命令に従ったtだけなのに」と悩んだ。

よくいわれるように「一億総ざんげ」で、結局だれも責任を取らないような「反省のレベル」だったのである。原発事故への無責任さと同じである。「仕方なかった」、「知らなかった」という言い訳である。ナチスユダヤ人虐殺に対しても、ドイツでも戦後、多くの人がそういったように。

むのたけじ氏は、珍しく、朝日新聞で自分がしてきたことを反省し、会社を辞め、戦後、戦争反対のジャーナリズムを立ち上げて責任を取ろうとした。打がそんな亜メディア人は、全くの例外的少数であった。

事実は、日本だけではないが、戦争末期になると、軍部などは、戦後に責任を取らされることを恐れて資料を廃棄した。証拠を消すのである。日本軍や仁保の官僚などは皆それをした。演出の一木正恵も言うように、日本放送協会にかかわった人達も、膨大な原稿を焼き、貴重なレコードを叩き割って埋めて、証拠を消した。犯罪者がそうるように。恥ずかしくない仕事を下なら、隠す必要もないはずなのに。

それの最たるものは、レイプや日本軍慰安婦関係、侵略・虐殺関係など戦争犯罪の証拠隠滅である。其れは組織的になされた。

だが今回、この番組ができたのは、隠していた歴史に対して、一部の人が、良心を少し取り戻し、「なかったことにするわけには行かないと考えた人が、一体何があったのか、何をしたのかを、心の奥底に封じ込めた記憶の闇から手繰り寄せ、語り残した」ためであった。それを作品委しようとする人たち亜ギア宝であった。主流秩序への道は常に、3つの選択肢なのである。

**

この番組の最後に、この「責任」に関する情報も少し出された。すなわち、

「国家の宣伝者」を自認して勇ましく煽っていた館野アナも、インパール作戦の最前線に派遣され戦争の現実を自ら知り、何とか生き延びて、戦後アナウンサーをやめて、解説委員として活躍し、自分が取材したを伝えるようになったと言う。

だがそれは、むのたけじ氏のようには本気で自分の積極的な加担した責任に向き合わなかったという事であろう。「今やアナウンサーは国家の宣伝者、アジテーターであり、マイクが運ぶのは国家の意思だ」と言っていたのに、戦後ものうのうと生きるのは、戦後悩んで自殺したようなものも致し、職を辞したものもいたのに、無責任な人というほかない。多くの「言うことを極端に変えた」軍人や先生たちと同じであった。 

最初は館野アナと一緒に、情緒の力をもって戦争をあおったものの、戦争末期に若者を死にに行かせるような事に疑問をもった和田信賢アナも、NHKを辞めずに、もともとしたかった「オリンピックで大衆を熱狂させたい」というような放送をして亡くなっていったという。 

 その和田と結婚した女性アナ・大島実枝子は、戦後アナウンサーに復帰し、昭和が終わるころまでアナウンサーとして活躍したという。

その他、出陣学徒を勇ましく送り出す実況などをしていたほかのアナウンサー達は、戦地で死んだ者もいたが、生き残った者たちは、そのまま放送業界にいた。新聞でも学校現場でも警察でも、そうであったように。

***

この番組は、客観的影響としては、戦争の愚かさを一定い示したし、戦時に加担したことを反省させる内容を持っていたので意義はあると思うが、内容としては、主流秩序への姿勢への追及とか責任を突き詰めるということはなく、甘いところで終わっているという面もあった。

 この番組の背景説明として示されているように、戦後、日本放送協会は、新たな組織に生まれ変わっった。表現の自由を保障する日本国憲法の下で、1950年に放送法が施行され、みずからの責任でニュースや番組の取材・制作・編集を行い、自主・自律を堅持する放送局としてNHK・日本放送協会は再出発した。だが、上記、岩田委員が『歴史戦』などと言い、安倍政権のちょうちん持ちのような報道を繰りかえしたところを見たとき、本当に、戦前とは別の組織に変わったと言えるのか、この番組は改めて日本社会に突き付けたと言えよう。

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「可愛くてごめん」と自己肯定感と主流秩序

  • 可愛くてごめん」と自己肯定感と主流秩序

私の「ジェンダー論講義録」野かに書いた、事故肯定感がらみのエッセイです。

紹介しておきます。

 

 

2022年から23年にかけて流行った歌として「愛くてごめん (feat. かぴ)」[1]というのがある。自己肯定感を高めるといわれ、人気があるので、ここで扱いたい。

可愛くてごめん (feat. かぴ)/HoneyWorks - YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=a3FgmTfvJhA

可愛くてごめん (feat. かぴ)  HoneyWorks

発売:2022.08.28  作詞:shito  作曲:shito  編曲:HoneyWorks

私が私の事を愛して    何が悪いの?嫉妬でしょうか?

痛いだとか変わってるとか   届きませんね。そのリプライ

 

大好きなお洋服  大好きなお化粧で  お決まりのハーフツイン巻いて

お出かけしよ  日傘持って  ぼっちだって  幸せだもん!

 

Chu! 可愛くてごめん  生まれてきちゃってごめん

Chu!あざとくてごめん  気になっちゃうよね?ごめん

Chu! 可愛くてごめん  努力しちゃっててごめん

Chu! 尊くてごめん  女子力高くてごめん

ムカついちゃうよね?ざまあw

 

貴女は貴女の事だけどうぞ  私に干渉しないでください

類は友を呼ぶと言うけど…  届きませんね。その陰口

 

重い厚底ブーツ  お気に入りのリュックで

崩せない前髪 くしでといて  お出かけしよ

軽い女?ふざけんな  重すぎるっつーの!

 

Chu! 可愛くてごめん  この時代生きてごめん

Chu!目立っててごめん  意識しちゃうよね?ごめん

Chu! 可愛くてごめん  自分磨きしてごめん

Chu! ぶりっ子でごめん  虜にしちゃってごめん

ムカついちゃうでしょ?ざまあw

 

趣味の違い 変わり者と  バカにされても 曲げたくない

怖くもない あんたらごとき 自分の味方は自分でありたい

一番大切にしてあげたい  理不尽な我慢はさせたくない

“それが私”

 

Chu! 可愛くてごめん  生まれてきちゃってごめん

Chu!あざとくてごめん  人生楽しんでごめん

Chu! 可愛くてごめん  努力しちゃっててごめん

Chu! 尊くてごめん  女子力高くてごめん ムカついちゃうよね?ざまあw

 

*******

この歌の評価だが、私は、主流秩序・ジェンダー秩序へのスタンスの面で二面性(両義性・両面性)があるとおもう。

この歌は、だれかを相手にして、対抗的に「私がかわいくてごめん」と自己主張している。

だれにどういう気持ちや意味でいっているか、その社会への影響によって考えるべきである。

 

全体として、あまり他者の評価を気にせず、自分の基準で自分で楽しむ 好きにしていいでしょ、私に文句を言う人なんて気にしない、という感じの面は、主流秩序に囚われないパワーの面、主流秩序とは関係ない自己肯定感を高める面を少しは感じる。美の秩序においても、自分独自の視点のものだから他人がどう思うと関係ないという側面は、ジェンダー秩序を揺るがす面が少しはあると感じられる。

以下は、歌詞で、そのように、「主流秩序・ジェンダー秩序・他人の目にとらわれず、「自分は自分」という感じられる部分である。

****

あまり主流秩序・他人の目にとらわれず、自分は自分という感じの部分

痛いだとか変わってるとか 届きませんね。そのリプライ

ぼっちだって 幸せだもん!

貴女は貴女の事だけどうぞ 私に干渉しないでください 届きませんね。その陰口

趣味の違い 変わり者と  バカにされても 曲げたくない

怖くもない あんたらごとき 自分の味方は自分でありたい

一番大切にしてあげたい  理不尽な我慢はさせたくない “それが私”

 

*************

しかし一方で、上記とは違う意味で、主流秩序の上位になれているという自己肯定感の高さ、ポジティブさが示されている面がある。主流秩序・ジェンダー秩序にとらわれ、自分とあわないものと敵対し、一軍的な人からの上から目線の側面がこの作品には強くあると言わざるを得ない。かわいくて尊くて女子力高い自分を肯定して、相手を「それに文句言うやつら」という感じで、「ざまあW」と馬鹿にするところなどは、嫌な一軍的な強さの、“下”を馬鹿にするニュアンスが漂っている。

今の時代の、美の秩序自体に疑問を持つのでなく、主流秩序んぴったりよりそっている面が強く、いまの美の秩序に乗っての“かわいい”を追求し、その面で自信を持っていて、それに少しでも批判がある相手には、「嫉妬するな」「むかつくでしょ」「あざといのが悪い?」「私がかわいくてごめんね」「虜にしちゃうの」という感じで一軍的攻撃をしている。「あんたらごとき」「ざまあW」「こっちは人生楽しいわー」という相手への見下し方は、身分的・階級的な感じで相手を押さえつける暴力性がある。

具体的なファッションは、既成の流行りものであって、主流秩序に合わせているような感じのものばかり。楽しいのは外見・ファッション系ばかり。目立つのがよい、女子力が高いのがいい、あざとくていい、ぶりっこでいい、という現状の主流秩序への無批判性。

そあいってこの歌にある攻撃性は、「自分をかわいいというのはよくない」というような常識に対して、「いいじゃん」と対抗する感じがあり、それは「タテマエ前より本音でいいじゃないか」という意識、あらには、ポリコレが嫌いで、「本音の欲望に忠実でいいじゃん」、「フェミニストルッキズム批判がうざい」「エリートが外見重視の子を馬鹿にする感じが嫌い」というような気分の人にもつながる可能性が感じられる。

テレビ番組で『あざとくて何が悪いの』というのがあり、一軍的なコミュニケーションレベルで、恋愛とか人間関係をうまくやるコツの話や外見の話、浮気を見破る話などをしているが、そこと共通する、主流秩序自体への「無批判・無条件的前提」感がこの歌にはあるように思われる。勝ち組のにおいがプンプンで、多くの人を一軍的価値観で抑え込む影響がある。

以下は、主流秩序に無批判に乗ったうえでの、勝ち組的な視点からの言葉と思えるものである。

 

****

主流秩序に沿った感じの部分

かわいくてごめん 嫉妬でしょうか? 

大好きなお洋服  大好きなお化粧で お決まりのハーフツイン巻いて

(かわいく)生まれてきちゃってごめん Chu!あざとくてごめん

尊くてごめん  女子力高くてごめん

ムカついちゃうよね?ざまあw

重い厚底ブーツ

お気に入りのリュックで 崩せない前髪 くしでといて

目立っててごめん  意識しちゃうよね?ごめん

自分磨きしてごめん Chu! ぶりっ子でごめん  虜にしちゃってごめん

趣味の違い 変わり者と  バカにされても 曲げたくない

怖くもない あんたらごとき  理不尽な我慢はさせたくない

あざとくてごめん  人生楽しんでごめん 

 

****************

総合的にみると、主流秩序・ジェンダー秩序(ルッキズム)への批判性より、それに乗っている面が強く、「自分たちと違うタイプとか、“下”とか、自分の仲間でない人」「ルッキズム批判する人」と敵対的で、クラスの一軍的で、客観的にも美の秩序を上昇しようと努力し、結果、女子力高くすることがいいことだとしている点で、主流秩序を強化・維持する側面の方が強い作品と言えるだろう。自己肯定感でいうと、美の秩序の上位という「自信」なので、この講義で目指す、ダイバーシティ的な自己肯定感ではないものといえる。

主流秩序の中で上位の勝ち組、そういう人が、メイクとかすごく努力して「かわいくてごめん」というのは、言わなくてもいいことをどこかの“相手”に言ってマウントをとり、相手を痛めつけている感じがある。アニメであり、キャラクターの絵も含め幼い年齢のイメージでもあるが、若者、大人全体を包む、「美にとらわれている」中での「ポジティブさ」の表れの歌と言える。

これの真似をしてTikTokでダンスしたり歌を歌い、化粧したりおしゃれして、元気が出ているような質の「自己肯定感」は、主流秩序を揺るがさず、多くの人を解放はしないだろう。

***

軽い作品であり、同類のものとかもっとひどいものもあるだろうから、この作品だけ特別に目くじら立てるものではないが、いまの日本社会を反映しており、ルッキズムにとらわれている多くの人を助けず、この歌で「元気が出る」のは、主に、美の秩序にとらわれ、その面ばかりで努力し、女子力が真ん中以上の人たちであろうと思われる。

結論を一言でいえば、勝ち組系の歌であり、美の秩序を再生産する作品である。「自己肯定感を高めるいい曲だ」とは言えない。

 

[1]日本のクリエイターユニット・HoneyWorksの楽曲。 HoneyWorksによる楽曲シリーズ・プロジェクト『告白実行委員会〜恋愛シリーズ〜』およびTVアニメ『ヒロインたるもの!〜嫌われヒロインと内緒のお仕事〜』の登場キャラクター・中村千鶴(ちゅーたん〈CV:早見沙織〉)のキャラクターソング。

成田悠輔の「高齢者は集団自決、集団切腹すべき」発言を容認する社会

  • 成田悠輔の「高齢者は集団自決、集団切腹すべき」発言を容認する社会

 

 

経済学者・成田悠輔氏はメディアによく出ている人気者だが、「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」と発し[1]、一時期問題になった。

<成田の発言>

 唯一の解決策ははっきりしていると思っていて、結局、高齢者の集団自決、集団切腹みたいなことしかない。(私は)けっこう大真面目で、やっぱり人間って引き際が重要だと思う。

 別に物理的な切腹だけでなくてもよくて、社会的な切腹でもよくて、過去の功績を使って居座り続ける人がいろいろなレイヤー(階層)で多すぎるのがこの国の明らかな問題で、まったくろれつが回っていなかったり、まったく会話にならなかったりするような人たちが社会の重要なポジションをごくごく自然に占めていて、僕たち、それが当然だと思っちゃっているじゃないですか。

 当然だと思っていることがすごく危機的な状況だと思っていて、消えるべき人に「消えてほしい」と言い続けられるような状況をもっとつくらないといけないんじゃないか。

 

だがその後も彼はテレビなどのメディアで活躍し続けその社会的存在が容認されている。みなさんの中でも、偉い学者でテレビで出ている人気者だから、そう悪い人ではないし、ムチャも言ってないと思う人が多いのではないか。それこそまさに権威に寄り掛かった感覚だ。

だが彼の言ったことはまさに、生産性、能力主義、優生思想に無批判的な主流秩序の状況を反映している出来事と言えよう。高齢者だけでなく障がい者も対象になるだろうし、人間のためにはアニマルライツなども問題にはしない思想だ。

私はまず、自分の頭で考えず、テレビなどで許されているから、許してもいい発言なのだと考えてしまう、その受動的な思考の在り方だ。茨木のり子に怒られるだろう。

またこうした発言は、ネットやメディアでよく言われる、高齢者はずるい、若者は損しているという世代論での「格差に対する現役世代の不満」にものっておおり、それは「弱者男性」「ネトウヨ」らがフェミやリベラル・左翼をたたく風潮とも重なっている。自分の正しさ以外のやつらは敵で、叩いてもいい奴で、誹謗中傷などお構いなしの風潮の表れだ。じっさい、成田を強く支持する人もいて、分断があらわになった。成田が「バズる」ことを狙っているとしたら、分断を意識的に煽っているので余計に悪質と言える。

日本社会には諸問題があること、政治が対策をとれていないことは、成田が言わなくても、この講義でも第6回資料でまとめて示したように明らかだ。しかし、その解決を「老人の抹消」で済ませられるというのは、原因分析としても対処策としても間違いなのだ。高齢者をひとくくりにするのがおかしく、貧困高齢者も、質素な生活をしている高齢者も多い。 経済協力開発機構OECD)が21年にまとめた資料によると、日本の高齢者の貧困率(18年)は20%で各国平均13・1%を大きく上回る。特に高齢女性は22・8%とさらに貧困率は高い[2]。30台、40台、50台絵も金持ちは多くいるし、貧困者も多くいる。「全部男が悪い」「中国人が悪い」というのが間違いのように、「高齢者が悪い」も間違いなのだ。

主流秩序の上位者中心の借金依存の偏った政治・経済政策を変えないといけないのに、主流秩序の中で上位者も注意者も下位者もいる「高齢者」というものをひとくくりにして「原因」のように言うのは、間違いである。つまり成田は、原因に目を向けさせず優生思想的に「不要な奴はいなくなれ」というのか。

例えば、多様性保障と格差縮小のために、個人単位型にすべての制度を変革すべきであり、高収入者や企業へ高い税金をかける必要はある。軍事費や多くの企業への補助金的なもの、減税的なものを減らす必要がある。北欧の社会をイメージして、そことの大きな違いを減らす方向ですべきことは色々ある。成田はそこに目を向けさせないで、「馬鹿なネット民」などを煽ったのであり、予想通り馬鹿な人が煽られて、「高齢者が集団自決しろ」と言って喜んでいるだけの状況である。何も解決しないでただ分断が煽られているだけで、トランプの政治手法と同じだ。

 

 

[1] 成田は、インターネットテレビ局「AbemaTV」(2021年12月17日に放送)で、少子高齢化化などについて議論する中で「集団自決」に言及した。2023年2月に米紙ニューヨーク・タイムズがこの発言を報じ、日本国内でも少し問題とされたがすぐに忘れられ、結局容認された。

[2] 「「高齢者は集団自決」発言どう捉えるべきか 識者3人の見解」(毎日新聞 2023/5/18)より。

成田悠輔の「高齢者は集団自決、集団切腹すべき」発言を容認する社会

  • 成田悠輔の「高齢者は集団自決、集団切腹すべき」発言を容認する社会

 

 

経済学者・成田悠輔氏はメディアによく出ている人気者だが、「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」と発し[1]、一時期問題になった。

<成田の発言>

 唯一の解決策ははっきりしていると思っていて、結局、高齢者の集団自決、集団切腹みたいなことしかない。(私は)けっこう大真面目で、やっぱり人間って引き際が重要だと思う。

 別に物理的な切腹だけでなくてもよくて、社会的な切腹でもよくて、過去の功績を使って居座り続ける人がいろいろなレイヤー(階層)で多すぎるのがこの国の明らかな問題で、まったくろれつが回っていなかったり、まったく会話にならなかったりするような人たちが社会の重要なポジションをごくごく自然に占めていて、僕たち、それが当然だと思っちゃっているじゃないですか。

 当然だと思っていることがすごく危機的な状況だと思っていて、消えるべき人に「消えてほしい」と言い続けられるような状況をもっとつくらないといけないんじゃないか。

 

だがその後も彼はテレビなどのメディアで活躍し続けその社会的存在が容認されている。みなさんの中でも、偉い学者でテレビで出ている人気者だから、そう悪い人ではないし、ムチャも言ってないと思う人が多いのではないか。それこそまさに権威に寄り掛かった感覚だ。

だが彼の言ったことはまさに、生産性、能力主義、優生思想に無批判的な主流秩序の状況を反映している出来事と言えよう。高齢者だけでなく障がい者も対象になるだろうし、人間のためにはアニマルライツなども問題にはしない思想だ。

私はまず、自分の頭で考えず、テレビなどで許されているから、許してもいい発言なのだと考えてしまう、その受動的な思考の在り方だ。茨木のり子に怒られるだろう。

またこうした発言は、ネットやメディアでよく言われる、高齢者はずるい、若者は損しているという世代論での「格差に対する現役世代の不満」にものっておおり、それは「弱者男性」「ネトウヨ」らがフェミやリベラル・左翼をたたく風潮とも重なっている。自分の正しさ以外のやつらは敵で、叩いてもいい奴で、誹謗中傷などお構いなしの風潮の表れだ。じっさい、成田を強く支持する人もいて、分断があらわになった。成田が「バズる」ことを狙っているとしたら、分断を意識的に煽っているので余計に悪質と言える。

日本社会には諸問題があること、政治が対策をとれていないことは、成田が言わなくても、この講義でも第6回資料でまとめて示したように明らかだ。しかし、その解決を「老人の抹消」で済ませられるというのは、原因分析としても対処策としても間違いなのだ。高齢者をひとくくりにするのがおかしく、貧困高齢者も、質素な生活をしている高齢者も多い。 経済協力開発機構OECD)が21年にまとめた資料によると、日本の高齢者の貧困率(18年)は20%で各国平均13・1%を大きく上回る。特に高齢女性は22・8%とさらに貧困率は高い[2]。30台、40台、50台絵も金持ちは多くいるし、貧困者も多くいる。「全部男が悪い」「中国人が悪い」というのが間違いのように、「高齢者が悪い」も間違いなのだ。

主流秩序の上位者中心の借金依存の偏った政治・経済政策を変えないといけないのに、主流秩序の中で上位者も注意者も下位者もいる「高齢者」というものをひとくくりにして「原因」のように言うのは、間違いである。つまり成田は、原因に目を向けさせず優生思想的に「不要な奴はいなくなれ」というのか。

例えば、多様性保障と格差縮小のために、個人単位型にすべての制度を変革すべきであり、高収入者や企業へ高い税金をかける必要はある。軍事費や多くの企業への補助金的なもの、減税的なものを減らす必要がある。北欧の社会をイメージして、そことの大きな違いを減らす方向ですべきことは色々ある。成田はそこに目を向けさせないで、「馬鹿なネット民」などを煽ったのであり、予想通り馬鹿な人が煽られて、「高齢者が集団自決しろ」と言って喜んでいるだけの状況である。何も解決しないでただ分断が煽られているだけで、トランプの政治手法と同じだ。

 

 

[1] 成田は、インターネットテレビ局「AbemaTV」(2021年12月17日に放送)で、少子高齢化化などについて議論する中で「集団自決」に言及した。2023年2月に米紙ニューヨーク・タイムズがこの発言を報じ、日本国内でも少し問題とされたがすぐに忘れられ、結局容認された。

[2] 「「高齢者は集団自決」発言どう捉えるべきか 識者3人の見解」(毎日新聞 2023/5/18)より。

関東大震災・朝鮮人犠牲者へのヘイトの動きとそれに加担する東京都

 

 2023年は関東大震災から100年、つまり朝鮮人虐殺から100年となる。震災そのもの以上に忘れてはならないのが、大地震の混乱のなか、「朝鮮人が暴動を起こした」「井戸に毒を入れた」等のデマが広がり、日本人らが多くの朝鮮人を惨殺してしまったこと(朝鮮人虐殺)である。朝鮮人虐殺における犠牲者数については諸説あるが、「朝鮮人が暴動を起こした」などというデマや流言によって多数の朝鮮人や中国人が、日本の警察や軍、自警団によって虐殺されたのは歴然たる事実である。それは、当時、治安出動を指揮した警視庁官房主事の正力松太郎自身も証言していることだ。

この朝鮮人虐殺に対して、右翼・ヘイトスピーチ勢力[1]ネトウヨは、歴史修正主義的に、そういうことはなかったような宣伝をしている。彼らはこれまで「関東大震災時、朝鮮人は実際に放火略奪を行ったのであり、朝鮮人に対する暴力は正当防衛だった」と主張している。

 東京・横網町公園[2]で毎年9月1日、朝鮮人犠牲者追悼碑(写真)[3]の前で、朝鮮人犠牲者追悼式典が開かれている。歴代の都知事がこれに追悼文を送ってきたが、2017年以降、小池百合子知事がそれを取り止めている。小池知事自身の右翼的スタンスに加えて、ヘイト・右翼勢力に忖度して、人権問題に及び腰となっているのである。背景には、安倍政権になって以降の政治の右翼化がある[4]

朝鮮人犠牲者追悼碑

 

特に東京都については、小池都知事が、差別主義団体「そよ風」の圧力に屈している面もある。「そよ風」は2009年に結成された在特会関連の女性団体で、代表の鈴木由起子氏は、「朝鮮人ヲ一匹残ラズ殲滅セヨ」などといったプラカードを掲げるヘイトデモの代表世話人も務めている。また「そよ風」としても「韓国人の皆さん、人間扱いしてごめんなさい」などと掲げたデモを行っているような団体である。「慰安婦」問題の否定も主張している。「そよかぜ」北海道支部長の女性は、桜井誠・前在特会会長の「日本第一党」の副党首まで務めている。鈴木由起子氏たちは、2013年には大阪・鶴橋で「いつまでも調子にのっとったら、南京大虐殺ではなく『鶴橋大虐殺』を実行しますよ!」などとジェノサイドを先導したヘイトデモに協力していた。

 

その「そよ風」は毎年9月1日、朝鮮人犠牲者追悼式典と同時刻に、そこから30メートルほど離れた「大正大震火災石原町遭難者碑」の前で、「先祖の濡れ衣を晴らす」などと掲げてヘイトスピーチを繰り返す集会を行っている。その目的は、朝鮮人犠牲者追悼式典を潰し、「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」を撤去させることだと公言している。

あまりにひどいので、彼らの集会での「犯人は不逞朝鮮人」などの発言が、2020年に、東京都の人権審査会によってヘイトスピーチと認定された。

その「そよ風」が、2023年9月1日に、いつもの場所と違って、朝鮮人犠牲者追悼碑の前で「慰霊祭」と称する集会を行おうとしているのである。虐殺を否定する勢力が、朝鮮人犠牲者追悼碑の前で、ヘイトをしようとしているのである。朝鮮人死者への冒涜であり、罪の上塗りであり、許されない行動である。

したがって、 東京都は人権条例(オリンピック条例)に定められたヘイトスピーチ集会への「利用制限」を適用すべきである。だが、東京都は、この集会に対して追悼碑の前を使用する占有許可を与えようとしている。ヘイト勢力のこうした行動に許可を与えるとすれば、それは「中立・公平」ではなく、「右翼の差別・ヘイト・人権侵害に加担する行為」「差別煽動の共犯者になること」と考えるべきである。

 すでに集会としてヘイトスピーチの認定を一度受け、さらに繰り返しヘイトスピーチを認定されている活動家たちがそこに参加するのであるから、「ヘイトスピーチが行われる蓋然性」は十分にある。そもそも追悼碑の前でヘイト団体が集会を開くこと自体が、ヘイトスピーチというべき「不当な差別的言動」といえる。

とはいうものの、なんといっても、小池知事の責任が大きい。小池都知事は知事に就任した翌年、2017年、突如としてこの朝鮮人犠牲者に対する追悼文を取り止めてしまったのだが、確信犯なのであろう。しかも小池氏自身がヘイト団体と近いという話がある。なんと、小池氏は2010年、このヘイト団体「そよ風」で講演をおこなっていたのだ。つまりそのころからの付き合いなのである。

小池都知事が知事になってすぐ朝鮮人犠牲者への追悼文送付を取りやめたのは、この「そよ風」の動き(小池が知事となった直後の2017年から横網町公園内で追悼行事を邪魔するようなヘイト集会を開始)と関係があったと考えるのが妥当であろう。実際、小池が知事になったとの、2019年12月、東京都は、積み重ね圧れてきた「朝鮮人犠牲者追悼式典」を妨害する動きを始めた。「朝鮮人犠牲者追悼式典」実行委員会の公園占有許可申請に対し「公園管理上支障となる行為は行わない」「拡声器は集会参加者に聞こえるための必要最小限の音量とする」などと様々な条件をつけ、これに従わなければ中止や不許可にされても「異存ありません」とする内容の「誓約書」を交わすよう要請したのだ。これは抗議によって撤回されたが、「そよ風」をアシストする姿勢は隠さなくなった。

 

***

オリバー・ストーン監督と、アメリカン大学のピーター・カズニック教授による、追悼メッセージ(2020年)】

アメリカ人は、日本の40年にわたる朝鮮半島の残酷な植民地支配について知っているかもしれませんが、1923年9月1日の関東大震災の後、流言飛語に扇動された軍、警察、民間の自警団によって、何千人もの朝鮮人、何百人もの中国人、そして社会主義者が虐殺されたことを知っている人はほとんどいないでしょう。
 私たちは、日本人がこの恐ろしい不正義を記憶し、反省し、大虐殺の被害者を追悼する式典を行っていることを聞き、勇気づけられる思いがします。
 私たちは、東京都知事を含む、日本の右翼的歴史否定主義者たちが、この歴史を歪曲しようとする動きを強めていることを聞いて、驚きはしませんが、失望しています。
 過去に正直に向き合うことは、どの国にとっても容易なことではないでしょう。それは私たちの国が今直面している課題でもあります。とりわけ人種的抑圧、広島・長崎への原爆投下を含む第二次世界大戦負の遺産、帝国の歴史といった歴史問題があります。私たちは、みなさんのような、真実の歴史観のために闘う人々との連帯を強固にし、このような憎悪に基づく犯罪を2度と起こさせないという決意のもと、みなさんとともに被害者を追悼したいと思います。

 

 

<加藤さんの呼びかけ>

「一つは、朝鮮人犠牲者追悼碑の前で差別主義団体が集会を開くこと自体がヘ

イトスピーチであり、許しがたい死者への冒涜であること。もう一つは、その

開催を認めるとすれば東京都の責任は重大だということです。

 読者の皆さんには、第一に、これが最悪の死者への冒涜であり、最悪のヘイ

トスピーチであると多くの人に伝え、その事実を広めてほしいと思います。

 第二に、東京都に対して「死者への冒涜を認めるな。条例に基づく『利用制

限』を行うべきだ。そのために人権審査会に調査審議を求めよ。慰霊の公園を

守れ」と訴えてほしいと思います。都庁の窓口から都に意見のメールを送るな

どの方法があります。各種団体で声明を出して、メディアや都庁、都議会各会

派などに送ることもできるでしょう。

 9月1日まで、わずかな日数しかありません。それぞれに声を上げていきまし

ょう。」

 

★東京都に「差別団体に公園の占有許可を出さないで」の声を届けてください!

 

※できれば人権審査会が予定されている明日8月22日(火)までに。その後でも

間に合います。

 

◆メール:「インターネットの場合」の隣「都民の声総合窓口」をクリック↓

https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/iken-sodan/otoiawase/madoguchi/koe/index.html

 

◆FAX 03-5388-1233

 

※それぞれの団体で声明・要請書を作り、都に提出するのも有効です。

※メディア関係者はこの問題を大至急報じてください!

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 

 

 

[1] ヘイトスピーチ解消法は、ヘイトスピーチを「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」と定義している。「言動」とは「言葉と行い」である。

[2] 横網町公園は、関東大震災の死者を追悼する場として1930年に作られた。戦後は震災の犠牲者と空襲の犠牲者を共に追悼する場になった。「慰霊と継承の公園」となった公園内には多くの追悼モニュメントがあり、3月10日と9月1日には中央にある慰霊堂で大法要が行われている。

[3] 悼碑は、震災50年の1973年に横網町公園に建立された。建立実行委員会には、自民党から共産党に至る都議会全会派の幹事長が名を連ねていた。震災時の現実を見て経験した世代が、政治的立場を超えて、悲劇を二度と繰り返さないという、死者への誓いの表現として、この碑を建てたのである。

 

[4] この問題については主に、加藤直樹氏(ノンフィクション作家)の「ヘイト団体「そよ風」が9月1日、「朝鮮人犠牲者追悼碑」の前で集会を画策――東京都は朝鮮人犠牲者への冒涜を認めない対応を!」

http://www.labornetjp.org/news/2023/0820kato?fbclid=IwAR1_CwkY6_xA4fpC3ocBJrjI5YQ04wr_KjkIhrm64aWOLBGm95dI9LyqKL0

および「関東大震災朝鮮人被害者の追悼式典にオリバー・ストーン監督が反ヘイトのメッセージ! 一方、小池百合子知事はヘイト団体を後押し」(LITERA、20年9月3日)、「小池百合子都知事の最大の問題は極右ヘイトとの関係だ! 関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典に圧力かけ「虐殺なかった」ヘイト集会にお墨付き」(LITERA、2020.06.13 )などを参考にしている。

不当弾圧というものはある

  • 不当弾圧というものはある

 

戦争という最大の「異論を許さない暴力的な主流秩序」においては、戦争に反対する勢力は「目の上のたんこぶ」で、許したくないものです。

日本は民主的な国と思っているでしょうが、しばしば「過激な左翼的な運動」には不当な弾圧がなされています。以下の「反靖国」のデモへの警察の不当なかかわりも、その偏りを示すものです。

右翼には甘く、左翼には厳しいという体質がしばしば残っているのです。現場を見れば、ここは日本かというような「右翼による過激な妨害」と警察の偏った姿勢というものを知れます。

多様性が尊重された民主的な社会なら、意見が多様にあること、異論があること、表現の自由があることなどが大事なはずです。天皇制に疑問を持つ意見も、戦争に反対するする意見も、靖国神社に反対する勢力もいてもいいのに、異常なほど右翼が集まって、デモに凄い嫌がらせをするのが恒例になっています。これはネットでの異論を許さない誹謗中傷にもつながる危険な「反ダイバーシティ」の動きの一つです。

こういう現実も知って、再び戦争体制に行ってしまわないように、その手前で、民主主義を守りたいものです。戦争は始まってしまうと止めるのがむつかしいものです。

 

不当弾圧の一例

桜2023年8月15日に行われた、『国家による「慰霊・追悼」を許すな!8.15反「靖国」行動』のデモにおいて、不当な警察の弾圧により参加者1人が逮捕されました。以下は、救援会からの声明とお願いです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【抗議声明】

8.15反「靖国」デモにおける不当弾圧・逮捕を許さない!

 

 8月15日、国家による「慰霊・追悼」を許すな! 8.15反「靖国」行動のデモにて、参加者一人が不当逮捕されました。私たちは警察による暴挙を許しません!

 淡路公園で行われたデモの出発前の集会では、6.4の練馬における反基地デモにて、我々の仲間を襲撃した右翼のメンバーが、性懲りもなく登場して、私たちの集会を妨害しようとしてきました。

また、デモの最中には、同じグループのメンバーが、自転車でデモ隊に突入してきました。警備の警察官は一応はそれを阻止しましたが、そのまま野放しにしていたために、再度の突入を許しました。

 また、警察はデモ参加者に対して「速く歩け」「間を空けるな」といった執拗な干渉を大声で繰り返し、機動隊の指揮官車からも、デモ隊のアピールの声をかき消すほどの大音量で、不必要なアナウンスがこれも執拗に流されるなど、デモ隊のアピール(表現の自由)に対する妨害が繰り返されました。

 

 こうしたなかで、警備の居丈高な「指示」と両側から圧縮するような暴力を伴う規制(デモ妨害)に、たまりかねたひとりの参加者が、その過剰な警備に対して抗議したところ、不当にも、「公務執行妨害」というでっち上げにより、逮捕されました。抗議者は、逮捕の際に押し倒されてケガも負いました。

 警察による警備は明らかなダブルスタンダード二重基準)でした。

 デモ隊に対する警察の行為は、表現の自由を否定する、違憲で違法なもので、それに対する抗議は当然の権利の行使です。

 私たちは、こうした警察によるデモへの妨害・弾圧を許すことができません。

 警察による不当逮捕に対し怒りをもって抗議し、糾弾します。

 麹町署はいますぐ私たちの仲間を解放しろ!

2023年8月15日

8.15反「靖国」行動弾圧救援会

【ご協力のお願い】

★一刻も早く被逮捕者を取り戻すための救援会をつくり相談会を持ちました。その救援会から取り急ぎ、以下2点のお願いです。

 ①激励行動:8月16日(水)、拘束者は麹町署に留置されています。当該への激励と麹町署への抗議行動を行います。

  17:00に半蔵門線半蔵門駅」3b出口を上がったところ(地上)に集合です。

  ご都合のつく方のご参集をお願いします。

 ②救援カンパのお願い:当該への接見など弁護士にお願いしなくてはならないことが多々あります。みなさま苦しいなかで申し訳ないですが、よろしくお願いします。

   カンパの送り先は以下です。

   ・口座番号:00110−3−4429

   ・加入者名:ゴメンだ!共同行動

   ・通信欄には「8.15救援カンパ」の明記をお願いします。

 

8.15反「靖国」行動弾圧救援会

 

「別れ」についての学び 入り口紹介

講義録の一部、紹介しておきます。

 

第13回講義 13-3 「別れ」についての学び

 

  • 別れについての教育はなかった

恋愛や結婚で別れの時に一番問題が起りやすいです。しかし、別れについての教育はされていません。みなさんもちゃんと学校で習ったこともないでしょう。

今から「シングル単位の考え+安全のためにすべきこと(別れ方の具体策)」について学びますが、こうした教育は日本中のどこでも行われていません。と言うのは、伊田独自に考えて伝えていることだからです。でも必要と思うし、実践的と思うので、皆さんには知ってほしいです。そしてわかったら、周りの人にも伝えていってください。

では「別れ」についての基本の考えをまとめていきます。

 

  • 別れについてのカップル単位とシングル単位の原理的違い

 

 従来の常識は、恋愛や結婚はすばらしい愛情の結合だから別れるのはよくない、想定もしないというものです。簡単に別れるのは愛情が少ないというイメージです。そしてお互いが納得するまでは別れは成立しないと思っているのです。片方が一方的に別れるといっても相手が納得できないなら話し合わないといけないと思っている人、多いのではないですか。

 

これを論理的に整理すると、カップル単位の考え・スクランブルエッグでは、まざっているので元のAとBの卵に戻れない、つまり別れられないというようなイメージです。そもそも1単位ですから、それがもっと小さくなるのはあり得ない。別れが想定されていない永久の契約のような、不可分の愛というイメージです。

DVなど問題があってもいったん結合の契約したら、別れる自由がない愛情関係です。永久的な強制的パートナー関係、選択のない不自由の関係ということです。一心同体だからDVがあっても誰かが被害を受けているとかいないとかは不明確です。なんといっても1単位の中ですから、みえないし、他者でないから被害とか加害と言うような主体の関係性はないのです。

 

それに対して、ゆで卵(シングル単位)の関係でみてみると、最初から別人の関係ですから、別れられます。仲良くてもいいけれど、別れもあり得るのです。加害と被害も認定できます。各人に意志があるからです。双方に別れられる自由がある中でこそ、日々、恋愛(結婚)を続けていく各人の意思が確認できるのです。永久的な強制的パートナー関係(選択のない不自由)ではないということです。

 

 DV/ストーカーの加害者は、「自分がなぜパートナーから見切られたのか、その理由を知りたい、知る権利がある、そうしないと納得できない」「別れる・別れないということは、双方の合意がないと無理」「一方的に別れるというのは契約違反で身勝手」「謝ったんだから許してくれ。チャンスをくれるべき」と思っていることが多いです。「相手が別れの理由を明確に言ってくれないなら別れられない」と思い、相手を問いつめようとしがちです。愛情あるからこそ簡単に別れないのであり、そのほうがいいとさえ思っています。

 

婚姻関係の場合、そこに子どものことも入ってきます。「子どもを片親にしていいのか」「子どもが傷つく」という「正論」で相手の別れたいという希望を否定する。自分がDV加害をしたためにパートナーが離れることを決心したという中心の問題から目をそらす。その他、経済のこと、持ち家(建築物)のこと、子どもの学業、子どもの結婚、職場の人や親・親戚・近所の人に知られたくない、老後が寂しいなどの思いも交錯する。根底には離婚と知られるのが恥ずかしい、孤独が怖い、ひとりぼっちになりたくないといった思いもあります。

つまり、加害者は「別れないこと」に執着しがちです。そこに最大の特徴があるといってもいいくらいです。

 

しかし、そういう考えが間違いで、離れていく相手が明確な別れの理由を言えない場合もあり(言えば相手が傷つくような理由、他の人を好きになった等)、明確な理由などないこともあり、また理由を言っても、フラれる方は納得などできず、結局、いくら話しあっても、合意とか復縁は難しい場合が多いのです。

相手には相手の自己決定があり、言いくるめるようなことは良くない(それは再びDV的なコントロールとなる)と知るべきなのです。

相手が明確な別れの理由を言わなくても、別れたいという意思が明白に示されたなたら諦めなくてはならないと考えを変えるべきなのです。

 

交際関係がないようなストーカー事案の場合、相手が「接近しないでください」といったならば接近することは諦めなくてはなりません。それを受け入れないで抵抗することがDV/ストーカーなのだと知らねばならないのです。

 

自分の気持ちはIメッセージで一度伝えることはできますが、しつこく抵抗してはならないのです。被害者には相手が納得するまで説明する責任があるわけではありません。見捨てられるつらい気持ちは、カウンセラーや友人などに助けてもらって自分で対処するしかないのです。それをパートナーに求めてはなりません。それは再びの加害行為となります。「課題の分離」をして自分のすべきことをしていくしかないと知らねばならない。これがシングル単位の考え方です。

****

「別れの教育」はこうした考えを入り口として、実際にDV/ストーカー加害者とどのような別れ話をしたらいいか、そのあとどういうことに注意して対処すればいいか、警察はどのように利用すればいいかなどを具体的に学ぶものとなります。

 

以下、続く 略

 

学生さんの「別れ」についての古い認識の例

以下も、ジェンダー論講義録に載せる予定の一例。

 

 

学生さんの「別れ」についての古い認識の例

 

以下の例は、真面目な学生が、別れについては古い考えがある中で我慢していて被害にあったという事例です。加害する人も被害にあう人も、恋愛や別れについて考えを変えていくことが必要です。

***

私は今の彼女にまだ彼氏がいた頃に好きになられた。前から気になっていた子だったのですご く驚いた。その後彼女は別れた後しばらくして私と付き合った。その際に私は彼女の元彼に呼び出され、 殴られている。その時はこれだけ殴られても仕方の無いような事をしてしまったと感じていた

その後はその元カレが、友人たちに私のネガキャンともとれる嘘、もしくは誇張した話を吹き込み、サークルなどのっ知り合いから真偽を問われるなどした。そのため学校に行くのが辛い時期もあった。

話はすぐに広がった。授業が終わったらラウンジになどで課題は行わず真っ先に家に 帰るという生活が続いた。ジェンダー論の授業では別れを切り出されたら詮索はしないと学んだ。

先に学べていたらもっと楽な気持ちで学校に居れたかもしれない。あの頃は彼も同じように苦し いという考えで全て耐えていた。もし同じような境遇になった時(なりたくは無いが)ただただ 耐えるしかない、と考えている。

それはそれで苦しい事だが、耐えるという道があると知れただけでも同じ事を繰り返さなくて済む。それもこの授業をうけた意義だと思った。

 

伊田コメント→ 

元カレが新しい彼氏を殴るのはダメです。犯罪です。別れや次の恋愛は、彼女が判断したことであり、元カレは泣いて耐えるしかないのです。フラれた人が怒りを彼女に向けるのも、 元カノの新しい恋人に向けるのもお門違いなのです。こうした暴力をなくしていくためにも、シングル単位の恋愛論・別れ論を学ぶ必要があります。

 

 

「シングル単位の別れ論」を知っての学生さんの感想

いま、私のジェンダー論の講義録をつくっている。

底で紹介する学生の感想の一例を、載せておく。

 

「シングル単位の別れ論」を知っての学生さんの感想

 

【ある学生の感想――古い恋愛観を当然と思っていた】

自分が衝撃を受けた考え方は「シングル単位」である。その中でも「シングル単位による別れ」という考え方にとても驚いた。

シングル単位というものは良くも悪くも一人の人間として扱う、言い換えれば割り切るということである。今までの考えかたからすると冷たいという印象をあたえてしまう考えからかもしれないが、良くも悪くも人間は一人なのだからそのような考えは必要だと思った。

また、「双方の同意があってこそパートナー関係は成り立つ」という考えは今までの自分にはなかった考えだった。確かにカップルだからと言って関係を続けないといけない、別かれることはできないという契約がどこにもない

なぜか付き合った以上は関係をはっきりさせないといけない、別れるならきちんと言わないといけないという考え方が私の身の回りにはある。

テキストで指摘されるまで、それが思い込みであるということを分からなかった。誰かに言われたことはないがなぜかそういう風潮がある。これが本当にこのテキストの中の「目から鱗」だった。

また、身の回りではあまり聞いたことがないようなDVの話で、「DV・ストーカーの体質の人はどんな話し合いをしても納得しない場合が多い」というのも学びになった

DVを受けているのに「話し合いで同意を得なければ別れられない」というのは確かにおかしな話である。