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同一価値労働同一賃金論の基本  安倍に騙されるな

 


同じ仕事には同じ賃金を払う。それは当たり前と思うかもしれません。労基法でも4条には女性だからということで男性と同じ仕事をしている人の賃金に差をつけてはならないと書いてあります。


しかし日本の雇用慣行では、正社員と非正社員の間では同じ仕事をしていても大きな賃金差をつけていますし、年功賃金自体が年齢や態度といった非客観的要素による人事考課によって大きく賃金の差をつけています。同じ仕事でも別の企業に行けば違う賃金で、中小零細企業では技能が必要でたいへんな仕事でも低賃金の所がたくさんあります。

正規社員が中心のフルタイム労働者に対するパートタイム労働者の賃金水準はフランス(89%)やスウェーデン(83%)に比べ、日本は57%と非常に低くなっています。しかも、ボーナスなどを入れて年収で考えると、非正規の多くは250万円以下(100万以下も多い)ですが、正規では非正規の2倍どころか、3倍、4倍の人がかなりいる状況です。

 

つまり日本社会はまったく同一労働同一賃金ではありませんし、格差が先進国で最も大きい部類の国です。労働分配率が低下し、先進国で唯一、1990年以降、企業はもうかっているのに賃金が増えない国になっています。また職種は違っても同じような価値の仕事なら同じ賃金(Aという仕事に対してBの仕事の価値が80%なら賃金も80%)というのを同一価値労働同一賃金といいますが、それも日本では全く成立していません。

法律はありませんし、せいぜいパート法や労働契約法などで不合理と認められるものであってはならず、均衡・均等を考慮するようにとしているだけです。明確性も罰則もありません。


パート法の見直し議論で、経営側も御用学者も日本では同一価値労働同一賃金は無理と言い続けました。1993年のパート法ができた時に、3年後に、見直すといいながら、これでもめて、ずっとパート法の均等待遇問題でもめて、改正が進みませんでした。

 

1951年にILO(国際労働機関)は同一価値労働同一賃金を求める第100 号条約を採択し、日本も1967年に佐藤内閣で批准しましたが、それは全く国内法にも実態にも反映されていません。EUが同一価値労働同一賃金に向けてパートタイム労働(均等待遇)指令を作ってきたことと対照的です。
この問題に関する、日本の労働省の言い分(指針など)については、私はむかし、拙著『21世紀労働論』のp194-195に、注でまとめています。

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まあその他、20年前にこの問題では私の中では決着しています。ですから最近の「年功賃金制度は崩れてきた。今や同一労働同一賃金が経営的観点からも大事。年功賃金・日本の雇用慣行を大事にしながらも進めればいい。年功賃金制度と同一価値労働同一賃金は矛盾しない」
なんという程度の俗論には、あきれてしまいます。

 

御用学者の説明としては、正規と非正規は別の労働市場で賃金が決まる(二重労働市場論)ので、この(正規と非正規の)格差は比べられず仕方ないといっています。正社員は、年功、つまり年齢や経験と会社への貢献、残業や転勤ができるかということを含めた職能給や扶養すべき家族がどれくらいいるかといったことで支払われる生活手当、生活給観点などで賃金が決まるのにたいし、非正規の賃金は、非熟練の非正規パート労働市場で、世間相場という感覚で決まるというのです。

これは現実の差別構造追認の理屈でしかありません。

 

2016年6月段階で、安倍政権は同一労働同一賃金にしていくといっていますが、年功賃金自体を根源的に見直さず、派遣法を改悪して非正規を増やし、わが国の雇用慣行を配慮するといって非正規差別も残すのですから同一(価値)労働同一賃金が本当には実現するはずがありません。


安倍政権が目指しているのは、新自由主義の考えで、成果主義によって一部正社員の賃金を下げたいということ(世間相場的な市場原理に接続して引き下げる)と、選挙向けの人気取りポーズ(非正規の味方だよ、口から出まかせ平気のウソつき安倍の真骨頂)だとおもいます。
非正規の低い市場賃金に正社員を近づけさせようという、賃金コスト削減のための規制緩和を求める財界の希望に沿う動きの面があります。


現実的には、正社員と非正社員の不当な賃金差などを示したガイドラインを作るといっているので、あまりにひどすぎるもの「だけ」が少し規制されるだけで、あとは解雇しやすくするなどしていくでしょう。低い不安定な方に、「同一化」していくのです

 

しかし、これを機会に、非正規差別・格差を本気で考えて見直していくことが大事ですので、選挙目当ての口先だけの言葉に騙されるのでなく、政府の作るガイドラインを拡大解釈して団体交渉で使っていくとか、最低賃金を上げるなど実質的に改善されるようにしていくことが大事でしょう。

 

本当に同一価値労働同一賃金にしていくなら、欧州などに倣って、本気で非正規差別と年功賃金自体を廃棄して、客観的な基準ですべての仕事の職務を評価し、それに対応する賃金を決めることが必要です。


客観的な基準による職務評価とは、たとえば「知識・技能」「責任」「精神的・肉体的負荷」「労働環境」などについて、仕事を分解した細かい要素ごとに点数をつけて、Aの仕事は●点、Bの仕事は●点と決めていくことです。そして点数に比例して賃金も決めていきます。これによって別の企業でも価値に比例した賃金になります。仕事の価値が決まれば、時給が決まり、労働時間が短い人も非正規ではなく、単なる短時間労働者となって、労働時間に比例した賃金になります。オランダでは週休3日のパート労働者が増えていますが、それは非正規ではなく正社員です。責任もフルタイムと同等に担います。当然みなが労働保険、社会保険に入り、ボーナスや退職金なども同じ規定です。それが同一価値労働同一賃金の具体像です。

 

ここに日本社会では無意識に入ってくる、正社員かパートか、有期雇用かどうか、年齢や学歴、採用試験や労働時間が違うか、転勤・配置転換の有無・範囲とか、家族構成とか、挨拶などの態度がどうか、責任がどの程度かといった非客観的な判断を入れてはならないのです。正社員でもパートでも、学歴が違っても同じ仕事をしているなら同じ賃金にしないといけないからです。しかし日本ではここの理解が全く進んでいません。

 

ネットでも弁護士や社労士が平気で「有期雇用と無期雇用とは『違い』があるので、賃金を同じにする必要はありません」と書くような有様です。労働時間を正社員と30分だけ違うようにして、これも「違う仕事」だから賃金が別でもいいとしています。

 

能力や学歴は客観的と思うかもしれませんが、東大卒の人と高卒の人が同じ営業職をしていれば、そこに学歴も潜在的能力は関係ありません。今やっている仕事に使う技能自体を調べればいいのです。ですから学歴や能力でなく、その仕事に必要な技能・知識を評価基準にします。仕事に使わない知識や能力が多くても関係ないのです。転勤の有無だけで、40%も違う評価にするのはおかしいと、数値でもって「適切な格差」を認めるのが同一価値労働同一賃金です。

 

しかし日本では「どうせパートだから、責任はない」というような大雑把決めつけがあります。そして「違って」いればあとは数値比較はなく、平気で大きな格差をつけ、それで企業は利益を上げています。そもそも日本では、JOB(職務)ということが明確でなく、就社して言われる仕事は何でもこなす、その献身性が人事考課で評価されるという考えが定着しているので、西欧的に客観的に職務を評価するということが難しいのです。育休も有休もとらずに出張も残業も飲み会も接待もいとわずに長時間働く者が評価されるのが日本です。こうした日本の「雇用の常識」「働き方と賃金の在り方」を変えていくのが同一価値労働同一賃金です。

能力主義、、日本の人事評価システムの問題で、ここは熊沢誠などの議論を踏まえて昔よく議論したものだ)

 

これによって女性の低賃金の状況も変えられます。従来の日本の賃金は、家族単位をベースに、男性には世帯主として妻子を養う賃金を払い、その代わり長時間労働をしてもらい、女性には家事育児をさせ、男性に養ってもらえるので、働くとしても低賃金でいい、補助賃金でいいという仕組みでした。正社員の夫がいるからパートの賃金が低くてもいいということで女性差別を組み込んでいたのです。それを放置している中で、男性にまで非正規を広げてしまい、非正規が3分の1にまで増えて、購買力が低下して今大きな社会問題になっているのです。そこを根本的に解決するには同一価値労働同一賃金が必要です。

カップル単位、(家族単位)、結婚制度(システム)と結びつけて、非正規差別をとらえるというのが大事ということを1990年ごろから私はシングル単位論で言っていたわけで、そこの理解がいまだ不十分な人が多いのも、おそすぎるなあという感じです。

(思い返せば1990年代、男女平等にするためにも、パート非正規差別をなくすためにも年功制度、家族賃金を批判するのが大事で、個人単位の賃金にするしかないと主張したとき、マルクス経済学者も含め、労働運動関係、リベラル学者、左翼も、フェミニストと言われる人も、(最初は/今でも)理解しませんでした。)

 

しかも欧州の同一価値労働同一賃金における職務分析には労働組合・職場の労働者が判断にかかわるのです。みなが納得できる評価にすることが大事です。部長の方が責任が重いと日本では無条件に考えられがちですが、現場を知っている労働者だと、部下の方がどの商品をどこで売るかなど実際の決断をして重い責任を負っている、部長はただ最終的な判を押すだけとわかるので、その場合、部下の仕事の責任要素が重くなります。

 

ホワイトカラーの部長がクーラーのきいた部屋で仕事をしていることと、暑い駐車場で車の整理をずっとしているガードマンの仕事を比べるときその職場環境の過酷さを考慮するのです。これによって部長とガードマンの格差が縮まります。

 

(20年前、森ます美さんとかがこの同一価値労働同一賃金、ペイイクイティではいい動きをしていて、その後、現場からやかびさんがこれを進めたという歴史)

 

 

 日本では当面、ここまでの見直しはできないでしょう。正しい同一価値労働同一賃金を全く理解していないし、政治家も企業もメディアも年功賃金を残し、雇用形態差別を維持するのが当然と考えているからです。

年功賃金と同一価値労働同一賃金が対立するとは、リベラル系学者や労働組合も思っていない人がほとんどです

西欧型同一価値労働同一賃金では賃金格差の理由にならないものが、日本では重視されてきたのですが、そこを見直さない感覚のままなのです。

 

今回の同一労働同一賃金の議論でも、日本的基準で少しの違いを見出して「同じ仕事でない」として大きな賃金差、ボーナスの有無などの差を残し続けるでしょう。そこに客観性・公平性などありません。

 

それに対しては、差別されている側が団結して、同一価値労働同一賃金に近づくように交渉していくことが一番大事です。これほどの賃金格差の合理的な説明をしろ、できないならもっと賃金を上げろという交渉をしていくのです

ところが日本の大企業の労働組合などは、従来からの年功賃金を維持する立場であり、非正規差別を本気で根本的に見直そうとはしていません。口先だけで格差反対といっていても、非正規という雇用形態の人は俺たち正社員とは別だと思っている限り、差別はなくなりません。

有期雇用自体をなくそうとするのか、同じ職場で同じ仕事なら正社員かパートかには関係なく同じ時給にする。ボーナスも同じように支給する。そういうことをしていく労働組合かどうかが試されています。(ですから直前の私のブログで紹介したKDDIのうごきは珍しくいい動きです)

 

 

ずっと続く仕事なのに、非正規の多くは有期雇用で雇われ、正社員と同等の仕事をするよう基幹化・戦力化されながら低賃金です。これに対して当事者が闘っていかないならば同一価値労働同一賃金など実現しないし、非正規差別はなくならないでしょう。

 

政府や財界や御用学者に任せていれば、「生産性の差だ」といった屁理屈をつけて格差を正当化する「偽の同一労働同一賃金」になる。


それが約20年前にこの問題で『21世紀労働論』を書いて、経緯を見てきた私の結論です。

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