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ソウルヨガ

主流秩序、DV,スピシン主義、フェミ、あれこれ

「アンラーン(unlearn)」

 

 

「アンラーン(unlearn)」ということばがある。

米国で社会学習や社会運動にふれたひとが時々使う。

「〈学んだことを〉念頭から払う,忘れる」「〈癖・誤りなどを〉捨て去る.」という動詞だ。学習を脱するということで、「脱学習(する)」とか「学びおとす」と訳されることもある。

 

私はアウェアの研修でもこの言葉を聴いた。

 

ジェンダーなど自分が今まで信じてきたものを捨て去って新しい考え方を身に着けていくというような文脈で扱われる。

だから単に「物忘れする」「すてる」という意味での「忘れる」ではなく、積極的な認識に至るために、古い鎧を脱ぎすてるという、未来志向の言葉というニュアンスがあるのだろう。

 

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主流秩序に沿ったがちがちの「勉強・学び」『既成アカデミズムの概念や発想』のようなもの(常識、世間智)を捨てることで、もっと自由に発想できるようになっていくというようなときに、アンラーンがだいじになる。

 

ぼくも初めは、いまの社会の受験的知識、また既成学問としての、、経済学とか、哲学とか、社会学とか、マルクス主義とか既成概念を学んだ。しかし、それを基礎としつつも、自分の頭でかんがえていくようにしていった。シングル単位論とか、スピリチュアリティ(スピシン主義)などというのは、従来のものにしがみついていては出てこない。だからアンラーンしたんだと思う。学生にわかるように、普通の人にわかるように、何を言いたいのか、自分の言葉にしていく。

そして今は主流秩序論をいう。これも従来の他の人が言うことをアンラーンして自分なりに再構成したものだ。

何かを生み出すためにはアンラーンが必要だと思う。

 

 

これは主流秩序から脱して新しい認識に至るということと重なる。「そもそも」を考えない人が多いが、「そもそも」を考えていくことで、砂上の楼閣の欺瞞を見抜ける。

 

主流秩序への囚われを減らす。そのためのアンラーンへ。

 

以下は之に関するエッセイ。

 

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高橋源一郎 @takagengen 2011-01-11 00:00:07

「午前0時の小説ラジオ」・「アキューメン(acumen)」と「アンラーン(unlearn)」

・「他人に届く思想」

1922年生まれの鶴見俊輔さんは戦後を代表する哲学者・評論家ということになるだろう。ぼくは、とてもとても尊敬している。

 

88歳になる鶴見さんは現在も旺盛に本を出している。どれも面白い。みんな遺言のようだ。遺言とは、来るべき世代に渡される鍵のようなものかもしれない。少し前『戦争が遺したもの』という本で小熊英二上野千鶴子という現在を代表する2大論客が鶴見さんをインタビューした。

 

ただのインタビューではなかった。鶴見さんの思想の危ういところについて、ふたりが切っ先鋭く突っ込む。鶴見さんを殺すようにな本質的な批判をする。それに対して、鶴見さんが誠心誠意答える。すごい光景だった。ふたりが鶴見さんを深く敬愛していることがわかったからだ。

 

「本質的な批判は、真に敬愛するものに対してだけできるのだ」とぼくは思った。そのずっと以前、吉本隆明さんが鶴見さんとの対談の時にも同じことをした。鶴見さんの思想を深いところで厳しく否定した。だが、敬愛の気持ちに揺るぎはないようであった。ぼくにはそれは難しい。

 

なぜ、彼らは鶴見さんにそのように接したのか。それは、鶴見さんのことばはどれも徹底的に歴史や現実との格闘の末に獲得されたのものだからだ。

「ただ本を読んで覚えた」だけのことばや思想や一つもなかった。どんな思考の切れ端も納得ゆくまで考え抜かれたものばかりだからだ。

 

たとえば、鶴見さんは「unlearn」についてこんな風にいっている。「unlearnという言葉は誰から聞いたかというと、一八歳のとき、ニューヨークの図書館でヘレン・ケラーに会って聞いたんです。ヘレン・ケラーは喋れないし、聞けもしないから、秘書がついている…」

 

「それが手で通信し、ヘレン・ケラーが何を言っているかをちゃんと口で伝えてくれた。ヘレン・ケラーは私に話しかけた。『あなたは何ですか』と。『私はハーヴァード大学の学生です』『そうですか。私は隣のラドクリフで勉強しました。ラドクリフで実にたくさんのことを…」

 

「『…わたしは学びました。しかし同時に、大学を離れてから、それらの多くをunlearnしなければなりませんでした』。そのunlearnという言葉は、ヘレン・ケラーが発した言葉です。何と日本語にしたらいいのか、よく分からないのですが、『学びほどく』ということだと思います…」

 

「知識人とつき合っていると、習った通りをしゃべる人がいる。そういうのは、学びほどいていないんです。だけど、そうではなくて、何か普通の、日常生活の言葉として言い当てる人もいます。それはunlearnした人なんです」

 

この話でまずびっくりするのはヘレン・ケラーと会った話したことだが(笑)。1940年という時期にハーヴァード大学に留学しているのもすごいのだが、それは置いておくとして、まず、ここでのヘレン・ケラーにびっくりする。三重苦はみんな知っているだろう。

 

その三重苦のヘレンが、艱難辛苦の末、ことばを覚え、名門ラドクリフに入学することもすごいし、さらに、そこを優等で(!)卒業しているのだから、想像を絶する。しかし、もっとすごいのは、ヘレン・ケラーがそれで満足しなかったことなのだ。

 

ヘレン・ケラーは自分が「ただことばや思想を覚えただけ」であり、そんなものには意味がないことに気づいた。重要なのは、それをいったんunlearnした後、もう一度、真にlearnし直すことだと考えたのだ。それが彼女のacumen(明察)だったといってもいい。

 

そして、当然のことながら、1940年のニューヨークで、ヘレン・ケラーから彼女のもっとも本質的な言葉を聞き分けることができた鶴見俊輔のすごみというものをぼくは感じるのだ。このunlearnは単なる英単語ではない。ここには、歴史と実在する個人の匂いがある。

 

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