ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

ジェンダーアイデンティティという言葉はあいまいだから使わない方がいいのか

  • 2023年でも「あいまいな言葉を使うのは危ない」という山口智美氏

いま執筆中のジェンダー論講義録の関係で、昔のジェンダーフリーへの批判の動きの事も少し書いた。その関連で最近のジェンダーアイデンティティについての動きについて、以下のようなことを書いた。

ここで紹介しておく。

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山口智美氏は、その後、日本社会においてフェミニストとして活躍しており、私はその活動を支持するが、上記、ジェンダーフリ―への批判のスタンスと同じ発想を2023年にも保持して表明しているので[1]、ここで、問題だと指摘しておく。

山口氏はジェンダーフリ―を批判したときと同じく、また、「ジェンダーアイデンティティー」という言葉もことばもあいまいだからこそ危険だと述べている。

まず、歴史的にジェンダーフリ―について、ゆがんだ整理をしている。

「解釈は人それぞれで、意識の問題を唱える人もいれば、「ジェンダーに基づく差別のない社会のことだ」と言う人もいました。」としたうえで、言葉のあいまいさがあるからそれを利用して「フリーセックスと同じ」「性差を否定する」などと攻撃したと、言葉のあいまいさを攻撃された原因にしている。だが、右派が意識的に歪めて攻撃するのは慰安婦問題でも憲法9条問題でも常套手段であり、言葉があいまいだからではない。社会運動、社会的対立というものはそういうものである。トランプなどは、米国民主党極左などというのである。右派が性教育フェミニズム攻撃としてジェンダーフリー批判をした時に、この概念の意味はこうだと適切に言うのでなく、「この概念はよろしくない」というのは、どこを向いているのかと当時も思ったが、今回、ジェンダーアイデンティティという言葉についても、あいまいだと心配しているので、相変わらずの発想だなと感じた。

ジェンダーアイデンティティという概念をどういう意味で使うかが、社会的な闘争なのであり、右派は当然、これを「自分でそうだと宣言すればどうとでもなる性自認というものだ」とか、「性同一性障害の診断を受けた人だけが、女性、あるいは男性になれる」という意味で使うなど歪めるであろう。

それに対しては、ジェンダーアイデンティティという言葉を使わなければいいのではなく、トランスジェンダー差別をなくすために、当事者の性のありかたや生き方の自己決定と人権を尊重する意味として、使っていけばいいのである。トランスジェンダーの権利を考えるとき、この概念をなくすことが有効などとは思えない。ジェンダーフリ―と言わなければフェミニズム攻撃がなくなると思うのが間違いなのと同じである。

山口氏はまるでジェンダーフリー概念を使ったフェミニストが皆、バーバラ・ヒューストンがこういったから使ったかのように言うがそれはまったく違う。日本の当時の実態を知らない謬論である。日本では、ジェンダー平等を考えるひとやフェミニストたちは、性別役割や規範(異性愛結婚するのが当然など)を強要する意味でのジェンダーに囚われなく生きるとか、ジェンダー秩序の状況(制度)を変えて多様性のある社会にするという意味でジェンダーフリ―といっていたのである。「ジェンダー構造に敏感になること」の否定の意味でなど使っていない。バーバラ・ヒューストンが言葉の定義を決める権利を独占しているわけではないのである。

またジェンダーフリーは「意識や態度の問題という、後ろ向きのコンセプト」で、「ラジカルではない」としているのも間違っている。そういう使い方をした人もいたが、私を含め、そうでないラジカルな使い方をしていた人が多くいたのである。歴史的事実を都合よくゆがめるのは正しくない。

意味が複数あるのは、多くの言葉がそうであり、ジェンダーもそうである。山口氏の考えではジェンダーダイバーシティも、シングル単位(個人単位)も、人権も平等も、主流秩序も、スピシン主義も、セクハラも、DVも、そういう概念を使うのは危ない、使わない方がいいとなる。どの概念の理解も色々で、ネットを見ても定義や説明は多様で、右派は酷くゆがめて攻撃するからである。

山口氏は「ジェンダーフリーを使うにしても、自分たちで議論し、批判し、自分たちの言葉として使うべきでした。」というが、そうしていたのだから、何をいっているのかと思う。

山口氏の主張の文脈では、「問題は、なぜ利用される恐れのある言葉をあえて使うのか」といって、まるでジェンダーフリーを使ったために攻撃されて、「ジェンダー」という言葉すら使いにくい状況になったかのように書いているが間違ったまとめ方である。「あいまいな言葉が独り歩きし、それぞれが都合よく利用したのがジェンダーフリーです。」「あいまいだけどごまかしながら推進していたら、バックラッシュに遭ってしまった」というまとめ方は完全に間違っている。反フェミの勢力がフェミの思想や運動を攻撃し、その中で、性教育ジェンダー平等も、ジェンダーフリーという概念も攻撃されたのである。右派が都合よく言葉をゆがめて攻撃するのは常であるので、ジェンダーフリーだけではないし、フェミニストは「ジェンダーフリーを都合よく利用した」のではない。「独り歩き」するかどうかは運動にかかっているのであり、社会が分断されれば、ダイバシティーといった概念も「独り歩き」して、様々に解釈され利用される。実際、いまそうなっている。

「あいまいさ」などにこだわって、今また、右派との闘争の課題となっているジェンダーアイデンティティ概念に対して、こうしたスタンスをとるのは、その主観とは別に、客観的にはまたトランスジェンダーの運動側の足を引っ張る見解となるであろう。「監視していかねばならない」というとき、山口氏はジェンダーフリーの適切な使い方を擁護するように監視し戦ったのかということが問われている。右派からのフェミ攻撃がある中で、東大で、ジェンダーフリー概念を攻撃する集会を開いたのは、フェミニスト側に立った行動だったのだろうか。

 

[1] 「(耕論)ジェンダーアイデンティティー 「あいまいさの利用」心配 山口智美さん(文化人類学者)」(朝日新聞 2023年9月27日)、「標的にされた「ジェンダーフリー」 危うさは理解増進法のあの言葉も」(朝日新聞、2023年9月27日)