◆非暴力主義しか、今回の安倍氏襲撃「テロ」を批判できない
2022年8月2日記録
世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」を恨み、その広告塔となっていた安倍元首相を銃撃した山上容疑者の事件について、政権中枢、自民党など多くの政治家と宗教右派や「反社会的集団」との関係がマスメディアなどでもようやく取り上げられるようになったことは、結果的にはよかった側面と言える。また秋葉原事件との共通性などのコメントも散見される。
だがほかの人が述べていないが、私が重要と思うことがあるので、ここで簡単にメモっておきたい。
そのひとつは今回の「テロ」を批判できる人とは誰なのかという問題である。
2つめは、テロといっていいかという問題である。
3つめは、「テロ等の暴力が横行する暗黒時代」のドアが開くかもしれないという予感と心配の問題である。
4つ目は、統一教会と安倍氏・政権・自民党の関係は単に「選挙で支援を受けたいから」ではないという点である。これは、なぜ自民党は「こんな反社会的勢力とは今後一切関係を断つ」と言えないのかという問題にかかわる。
- 1 非暴力主義しか今回の「テロ」を批判できない
安倍元首相を銃撃という暴力で抹殺したことはもちろん認められない。しかしそういえるのは、私が「非暴力主義」の立場をとるからである。
安倍氏など既存の政治家の多くは、政治闘争の中を泳ぎ、そこは力の勝負であると自覚している。安倍・菅政権で人事の権力を使って官僚を脅し、安倍の息のかかった人物・仲間を重用した。嘘を平気で言いつのり、相手をこき下ろし、文書を改ざんしたり破棄したりもした。慰安婦問題などでも示されたように、敵と味方を作りフェイクニュースで人々を誤った方向に信じ込ませた。オリンピック・万博、アベノミクスなどのスローガンを含め金の力で後の事にも責任もとらずに短期的に大衆を動員して自分たちの政治的支配を強化した。
つまり、安倍氏は謀略・陰謀・捏造などの手法もいとわず、すべては「力の闘い」であり、勝てばいいという世界観であった。だからこそ、軍事的にも強大になって相手を力で抑えればいいという路線となり、安全保障とは軍拡・戦争ができる状態にすることであるという路線をとり、教育にも復古主義を持ち込み、9条破棄含む憲法改悪までめざした。
安倍政権の中心であった安倍氏は暴力信奉者であり、そういう世界をつくって来た。その結果、地域のつながりや弱者救済の網の目をずたずたにした中での、自己責任論に洗脳された人物が、個人的恨みを暴力的に安倍氏に向けたのである。ある意味、安倍は「戦争状態の中で敵に暴力で殺された」ようなものである。安倍の世界観とその結果の社会とその犠牲者の中において、安倍が「敵」にやられたのである。それは安倍氏の生き方の結果的現れであった。安倍自身が武力・軍事力・暴力を「リアルな政治には必要」と選び取っていたのであるから、その敵が暴力を選ぶことは織り込み済みであった。其れが戦争というものであろう。それが安倍の生きる世界であった。したがって思想的に見て、安倍自身に、山上の暴力自体を批判することはできないだろう。核兵器もミサイルも持つべきという安倍に、「銃を持つな、銃で意思を示すな」という資格はない。
その意味で、この山上容疑者の蛮行を非難することができるのは非暴力主義者だけである。
「憲法9条を守れ、非武装中立だ、自衛隊をなくせ」というような非暴力主義の主張に対して、お花畑だといい、現実政治には力が大事だといってきたのが、自民党や右派勢力のスタンスであった。安倍は選挙演説で「安倍帰れ!」といった者たちに対して、「こんな奴らに負けるわけにはいかない」と言ったように、トランプやプーチンばりに敵と味方に分け、敵をぶっ潰せとがなり立ててきたのである。安倍は自分が好んだ「暴力の世界」の結果に倒れたのである。
また統一教会の一分派であるサンクチュアリティ教会は、銃を聖なる道具とする信仰をもち、アメリカや韓国では合同結婚式をはじめ行事には全員銃を携えて参加するというような側面を持っていたという。
だから軍事力拡大を主張したり、「政治は権力闘争だから昔からそうであったように、金バラマキや謀略含め“汚い戦い方”をするものだ」という世界観で生きてきた人には、山上の蛮行を批判することはできないと思う。
暴力を肯定してきたものに、山上を批判できない。批判できるのは、非暴力を主張し、非武装を求める者だけではないのか。これが私の提起したい1点目である。
- 2 山上容疑者の蛮行を「テロ」といっていいかという問題
山上容疑者は安倍と同じく暴力信奉者であった。彼の計算がどこまで深かったかはわからないが――彼の言葉では、安倍を倒した後の政治的影響など考える余裕はないと書いていた――、安倍を殺害したことで統一協会勢力がこれだけ追い詰められるのだから結果的に効果があったと言うべきである。
テロを政治的目的がある場合の暗殺のようにとらえる向きからは、山上は個人的な恨みだから「テロではない」という見方もあるようだが、統一教会の組織的な悪行を批判し、その団体にダメージを与えたいという社会的目的を持った攻撃であるので、テロリズムの一つとみて差し支えないだろう。
またテロという手法を認めたくないという視点から、「効果があった」と認めたくない、だから安倍襲撃と統一教会問題をつなげるな、深堀りするなという右派・保守側からの「くさいものにふた」論も出ている。だが、安倍をトップとする右派は、まさにテロと思想土壌を同じくする暴力主義を自ら広め、敵を倒すことに血眼(ちまなこ)になったのである。自らの言動を振り返りたくない者たちの逃げとして「テロではない」といっているだけである。
テロリズムとは「政治的目的を達成するために、暗殺、殺害、破壊、監禁や拉致による自由束縛など過酷な手段で、敵対する当事者、さらには無関係な一般市民や建造物などを攻撃し、攻撃の物理的な成果よりもそこで生ずる心理的威圧や恐怖心を通して、譲歩や抑圧などを図るもの」という一つの説明に照らしても、山上の行動はおおむね当てはまっている。
山上がどこまで理解・認識・計算していたかは不明だが、家族から金をむしり取り家族を破滅させた統一教会がおかしい、その勢力に打撃を与えたいとみていたことは、広くは政治的なまなざしと言えるからである。
目的達成のためには暴力的手法もありという世界観に立つならば――安倍氏もそうであった――、結果から見て、山上の方法は、戦略的には間違ってなかったとなる。暴力主義者ならそう考える。右でも左でもテロでも戦争でも同じである。
私は非暴力主義者であるから、目的達成のためになんでもあり、と思わず、だからこそ、山上の主観的感情や意図がどうであろうと、暗殺襲撃を批判できる。
非暴力主義への理解が、時に日本では無理解や偏見、浅い理解が多いが、そのことはここでは横に置いておく。
短期的には、暴力に対抗する手立てはなく、非暴力主義はなかなか勝てないと思うが、だからこそ非協力や逃げるのがせいぜいであるが、非暴力主義は長期的には戦い続ける。
最近では、ロシアの侵攻に対して、民族の自決権があるなどと言ってゼレンスキー大統領の路線を賛美するものは暴力肯定主義者の面があるが、これは非暴力主義などの理解が進んでいないことの一例である。だから日本ではマスネディアで「原理派」か「和平派」かの世論調査さえない。
以上、テロとして山上の行動は効果があった。それを批判できるのはだれかにかかわって、山上の行動をテロと認識したという話であった。テロを認めないためには、何がいるのかが考えられなくてはならない。
- 3 テロが続く暗黒社会になるのではないかという予感?
今回のテロに効果があったということから、過去の歴史と同じく、同様のテロが続くのではないかと心配する人がいる。安倍元首相銃撃後の日本は、「テロ等の暴力が横行する暗黒時代」のドアが開くかもしれないという予感と心配である。
それにたいしての私のスタンスを簡単に記しておく。
私は、20世紀の最後あたり〈1997年ごろ〉から、「これからは暗黒社会化」が進むとみて、そのなかでいかに生きるかを考えていかねばならないということで「スピリチュアル・シングル主義」を提唱し、その後「主流秩序論」を展開してきた。グローバルな新自由義化・市場化の中でバラバラにされた個人が自己責任論で競争に駆り立てられるような社会では、人間不信・社会システム不信の絶望的な世界観がひろがり、暴力が蔓延すると見たのである。その中で自分はどう生きるか、どのような社会運動が求められているかを考えてきたのが、「スピシン主義」であり、『主流秩序論』であった。
つまり、ロシアのウクライナ侵攻がなくても、山上の安倍襲撃がなくても、すでに世界は酷いものになっていたと考える。秋葉原無差別殺傷事件も主流秩序に囚われつつその中で上位に行けない恨みを暴発させたものであった。
そうした人が大量に生産され続けている世界であるので、今後も様々な暴力的暴発が起こるであろう。今回の山上のテロはその一つであり、それに刺激されて、今後、同種のことは続き、それに対して、体制側がそれを口実に管理社会化を進めるであろう。
私は、この流れに対して、全体的政治的にはなかなか対抗して止める展望を持てない。しかし、社会の一部(片隅、はしっこ)において、短期的・中長期的に理想と信念を持って幸せに生き延びていくことは可能であるとみている。
ユニオンで個別の対抗をしていくとか、パワハラ・DVなどの身近な暴力に対して、当事者や支援者が暴力を減らす営みを行っていくことは可能であり、そこに希望があるとみている。すぐに選挙での勝利とか制度的な改革にまではいかないが、大きな意味で、人権・民主主義を地域のコミュニティの中で根付かせる営みである。
主流秩序の下位の者たち(違和感を持つ者たち)による、主流秩序に囚われない空間の創設といったものである。ユニオン・NPO・弁護士・メディアなどをつかって法的社会的公的に闘うことによって民主主義は屹立すると思ってきた。私は一貫して、闘いかた・サバイバルの仕方を具体的に教える教育が必要といってきたし、その一部を実践してきた。
つまり結論は、「いまさら、暗黒社会化を恐れてどうする?」と思う。ずっと前から暗黒社会化は進んできた。当面それは続く。その中で、きれいな精神を持って生きる、生き延びるということが追求されるべきだし、それはできるということである。古いマルクス主義を超えて、アナーキズム、ユートピア、アニマルライツ観点を再生・豊富化して、新たなニューレフト」を作って行くことが展望である。
この展望から見て、宮台真司や中島岳志など有名社会学者などの処方箋は生ぬるく、非実践的であると考えている。むしろ、暗黒社会・主流秩序の社会へのスタンスを示したものとして、キム・スヒョン著『私は わのままで生きることにした』(ワニブックス。2019年)が最近読んだもので一番希望を与えるものであった。山上の事件に対抗するのは、このキム・スヒョンの世界観である。そして私もかかわっている、ユニオンぼちぼちやDV 加害者更生プログラムのような実践である。
自民党議員と統一教会との深い関係はかなり暴かれて来ているが、その多くは「選挙で支援を受けたいから」という表面的な理解で終わっている。そして統一教会との関係がよくないのは、霊感商法などをしたよくない団体だからという理解である。
だがそれはことの半分でしかない。
なぜ、なかなか、自民党議員は、「こんな反社会的勢力とは今後一切関係を断つ」と言えないのか。
お笑いコンビ「雨上がり決死隊」の宮迫博之や「ロンドンブーツ1号2号」の田村亮が、直接反社会勢力とのつながりはなかったが、その宴席に呼ばれて金を受けとったことが強く批判されたことに比べて、安倍氏やその他の政治家が統一教会の事実上の広告塔となったり関係を深く持っていたり、名称変更に加担したりしたことの方がはるかに社会的責任は大きいはずであるのに、どうして、反社会的勢力と手を切れないのか。
それは、まさに、統一教会の主張する世界観と、自分たち「政治的右翼勢力」の世界観が同一だからである。統一教会を否定することは、自らの右翼的主張の自己否定につながるからである。
統一教会なるものはたんなる「集票の団体」ではなく、その思想が、自分と同じく、ナショナリズム、民族主義・血統主義、家父長制(ジェンダー秩序)、非科学的世界観に基づいて、反左翼、反共産主義、反フェミニズム、反人権、反平和主義、反個人(単位)主義(反夫婦別姓)、反LGBTQ(反同性婚)の団体であった。
それはほかの宗教右派、そして日本会議などの右翼組織と重なるものであり、それに沿って安倍を中心として、1990年代から、慰安婦問題での右翼からの攻撃、歴史教科書をつくる会などによる教科書問題での歴史修正主義的攻撃(侵略記述削除)、ジェンダーフリー・性教育へのバックラッシュ攻撃、教育基本法を改悪して道徳主義・国家主義的思想の復活、韓国・中国・北朝鮮へのヘイト醸成をもくろんできた。まさに、その政治に内容において一緒になって右翼的な運動を展開してきたのである。その集大成が安倍政権であった。
たとえば安倍氏は、統一教会系の団体へのビデオメッセージで、「UPFの平和ビジョンにおいて家庭の価値を強調する点を高く評価します」といった。「家庭は世界の自然かつ基礎的集団単位としての普遍的価値を持っています」と述べて、個人を社会の単位とするフェミニズム的・ダイバーシティ的な世界観とそれに基づく政策、社会民主主義的制度に明確に反対の姿勢を示している。それは自民党の憲法改革案でも如実である。
安倍が自分の国家主義的価値観を示すために「美しい国」という言葉を生み出し、主張し、著作を出したが、本のその言葉は、元は、安倍の著作出版の2年前に統一教会の人物が「美しい国」という言葉を使ったことを契機としていた。「美しい国」という言葉を使うことは、統一教会を含め右翼的世界観感を同一にもった仲間ということを示す記号だったのである。
2010年の参議院選挙において、統一教会の内部文書では、山谷えり子を応援するとしている。2010年の参議院選統一協会の文書で、「山谷えり子先生、安倍先生なくして私たちのみ旨は成就できません」「一番重要なことですがくれぐれも個人名山谷えり子と2枚目の投票用紙に記入することを何度も何度も徹底して下さい。自民党党名ではだめです」と書かれていた。
LGBT法案や同性婚法案に反対し、ジェンダーフリー攻撃をおこなって来た、悪名高きバックラッシャー山谷えり子を最も応援する団体こそが統一教会などの右翼組織であった。
安倍は、山谷だけでなく、杉田水脈など自分と同じく過激な右翼思想を持つ人物を立候補させ、自民党内で自分の派閥を大きくし力を増してきた。ネトウヨは、こうした流れのネットでの仲間・支持勢力であり、その価値観は日本会議や統一教会とほぼ同一である。
ジェンダー・バッシングの際、フェミニズム批判に最も活発だったメディアのひとつは、『世界日報』という右翼宗教新聞だったがこれは統一教会系の新聞媒体であった。
組織名を変えて「家庭連合」というのも、その価値観を表している。
こうしてみると、どうして自民党右派が、統一教会やむちゃなバックラッシュやヘイトをしてきた日本会議や馬鹿なネトウヨを切ることができようか。根本から批判できるだろうか。反社会的勢力とみなすことができるだろうか。そんなことをしたら自分自身の否定である。だから、「何が問題かわからない」のである。関係を切ると宣言できないのである。選挙のためだけでは全くない。
自民党の保守・右派勢力は、統一教会を否定も関係断絶もできない。それはまさにそこは自分自身の基盤であるからである。(今後言葉上でごまかしても本質的には関係を切らないという意味)
維新もその世界観において、こうした宗教右派や自民党右派と近いものを持っており、同じ穴のムジナである。また公明党も、宗教を悪用し、真面目な創価学会員を利用してきて、戦後最悪の安倍政権を、ただ権力欲しさに支持し続け、大阪では維新とも妥協し、俗物のきわみとなっている。
安倍氏銃撃事件、統一教会問題があぶりだしたものは大きいが、マスメディアはまだその一部にしか触れていない。
今回の私のメモが、より多くの人に共有されることを期待したい。