ソウルヨガ

主流秩序、DV,スピシン主義、フェミ、あれこれ

均等法の評価、まったく違う

 

 

赤松さんは以下の記事のように、いつもこのように自己弁護して、均等法成立させて意義があったように言います。

当時の運動を知らない者は、鵜呑みにする人もいます。

私はあんなものを作らず、いったん廃案にして数年間もめて、日本が男女平等法がない状態のままになり、国際的に突き上げられ、当時の均等法よりもマシなものを作るように粘るのが、当時の運動と連携した道であったと思います。批准しないとかっこ悪いので、女性差別撤廃条約は批准するしかないのです。

 

赤松さんらの行動は、歴史的に見てまさに主流秩序の側にたった行動でした。妥協しかないと言ってひどい法律を作り、運動側を理想主義だと言って内心、わかっていないとバカにしているのです。

私は、赤松さんのような考え方をする人が好きになれません。でも官僚ですからこういう人もいるだろうとは思います。問題は、「これしかないと思うこと」です。これしかないことはなかった。現場の運動、庶民のこと、一般職やパート労働の女性のことがわかっていない赤松さんではこんな法律を作るしかないのだろうと思います。

赤松さんのような人がいるのはわかりますが、それを「男女平等の前進に寄与した」と持ち上げることには、全く賛成できません。私は後退させた人だという評価です。

 

 

*****

以下は記事の一部だけ。

 

〈証言そのとき〉男女平等を求めて:1 婦人局長、成立に奔走

2015年9月21日01時00分

 

 今年は、働く場での男女平等に道を開いた「男女雇用機会均等法」の成立から30年。当時の労働省婦人局長で、その後に文部相も務めた赤松良子さん(86)は、いまも女性の地位向上のために活動を続ける。「均等法の母」が、法制定にかけた思いや、若い人たちへの助言を語る。

 

――1985年5月17日。修正を経て、男女雇用機会均等法衆院本会議で可決、成立した。

 成立の瞬間は、感無量でしたね。私は衆院の傍聴席に座っていて、拍手にこたえて山口敏夫労働相が深々と頭を下げる姿を見届けました。

 忘れもしません。法律ができるまで3年間という長い攻防がありましたから。仕事をやり遂げて、ほっとした思いでした。

 けれども一方で、残念な、悔しい気持ちもありました。経済界や労働側と折り合いをつけていくうちに、理想として描いた姿とはかけ離れた法律しかできなかったからです。どこで妥協したかなんていうことは、自分が一番よく知っていますしね。

 

■機会を逃せない

 色々批判もされました。敵というか、相手はだんだん変わっていくのですが、最後の段階で批判を浴びたのは、婦人団体からなのよね。法案の条文を読んで「なんだ、(企業にとって強制力の弱い)努力義務ばかりじゃないの」と怒った。彼女たちの怒りも、理解できます。そうした女性たちの悔しさにも思いをはせました。

 

けれど、妥協なくしては法律の成立は難しかったのです。努力義務にとどまっていようと、法律をつくったことが重要だったと私は思っています。このタイミングを逃せば、雇用の男女平等のための法律が整うのは、またずっと先に延びるだろうとも思いました。いまでも仕方がなかったと、そう思います。

 

 実際にその後の改正で「努力義務」は、企業などに採用や配置、昇進の差別を禁じる「義務」へ変わり、法律として大きく前進しました。

 「男女雇用機会均等法」こそが、わたしの人生で最大の仕事でした。この法律があるとないとでは、女性の働き方がまったく違います。世の中に法律は何千とあるけれど、日本の歴史を大きく変えた法律だと思っています。

 

以下略

 

「〈証言そのとき〉男女平等を求めて:2 「青杉優子」が黙ってない」@朝日新聞デジタル

 ――労働基準法は、賃金以外の男女差別を禁止しておらず、60年代には企業が結婚を機に女性を退職させる「結婚退職制」が問題になっていた。女性らが次々に訴訟を起こした。

 

■結婚退職制「違憲

 

 66年に結婚退職制は「公の秩序に反する」ので違憲とする画期的な判決(東京地裁)が出ました。私の考えとぴったり合うし、今後に大きな影響を及ぼすとピンと来たのです。

 

 判決の意味について論文を書くことにしました。仕事が暇だったから、執筆にエネルギーを向けられたんです。女性参政権の実現に尽くされた市川房枝先生(元参院議員)が、機関誌「婦人展望」に大きなページをくれました。そして67年2月に発表したのが「結婚退職制度は違憲――住友セメント事件の判決をめぐって」です。

 

 このときのペンネームは「青杉優子」。本名とは違うけど、何となくわかるので職場の人たちにばれちゃって、白い目で見られました。あの人、ろくに仕事もしないであんなもの書いて!ってね。

 

「〈証言そのとき〉男女平等を求めて:3 土壇場で決まった署名」@朝日新聞デジタル

――国連は79年、政治や社会、文化などのあらゆる分野で男女平等を達成することを理念とする「女子差別撤廃条約」を採択した。先進国の一員として、条約を批准するかどうか。日本に問いが突きつけられた。

 

 まずは、80年にデンマークコペンハーゲンで開かれる「国際婦人の10年」中間年世界会議の時点で、条約の批准に向けた大きなステップである「署名」ができるかが焦点でした。

 

■三つのハードル

 

 当時、わたしは労働省から出て、ニューヨークの国連代表部で働いていました。国内情勢がつかめずにやきもきしていましたが、「署名はだめらしい」と伝わってきました。

 

 条約の署名、その先の批准に向け、クリアすべきハードルが三つありました。法務省による国籍法改正、文部省による教育の男女別カリキュラム見直し、そして労働省は雇用における男女平等の法制化です。批准の見込みもなく署名するわけにはいきませんから、各省は慎重でした。

 

 中でも最後まで残った難題が労働省の案件でした。職場での男女平等のための法律づくりは早すぎるという意見が強かった。一方、それまでばらばらに活動していた国内の女性団体が、条約の署名問題をきっかけに連帯し、声明を出したり政府に陳情したりして、世論に訴えました。

 

 そんな状態のまま、会議が迫りました。わたしは政府代表として参加するため、ニューヨークから向かいました。ところが到着した時点でも、まだ署名するかどうか決まっていませんでした。

 

■「この瞬間!」興奮

 

 世界会議の首席代表は、労働省の先輩で、日本初の女性大使である高橋展子・駐デンマーク大使でした。土壇場で政府から「署名を決めた」という内容の公電が届き、高橋さんと喜び合いました。

 

――80年7月、条約の署名式で日本は「女子差別撤廃条約」に署名した。

 

 どんでん返しでした。当時の労働事務次官が決断したとのちに聞きました。世論が盛り上がっていたことに加え、さすがに署名をせずに、出身母体の労働省が高橋さんに恥をかかせるわけにはいかないということでね

 

 会場の後ろの方で、高橋さんが署名するのを見ていました。「きょう、この瞬間!」と興奮しましたね。日本がいよいよ、世界に向けてあらゆる男女差別をなくすべく「女子差別撤廃条約」を批准することを約束したんだと。約束というのはもちろん果たせないこともありますが、「約束した」ということがとても大きなことですから。

 

――赤松さんは82年、日本に戻り、労働省の7代目婦人少年局長に就いた。条約の批准を果たすため、国内で雇用についての男女平等を定める法律を整備する重大な仕事を任された。

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「〈証言そのとき〉男女平等を求めて:4 政・財界に強い反対論」@朝日新聞デジタル

 1982年に労働省の婦人少年局長に就任しました。のちの「男女雇用機会均等法」の法制化に向け、一気に走り出そうと思いましたが、なかなかうまくいきませんでした。

 

 ――労働省内にすら、雇用の男女平等のための法律をつくることに根強い反対論があった。

 

 省内もほとんど男性ですから。女性が男女平等を叫ぶのはあんまりうれしくないわよね、誰だって。それでも良識ある人は「そうは言ってもご時世だから」ってあきらめたけど、あきらめきれない人もいたのね。「わざと過激な中身にした方がつぶしやすい」なんて悪知恵を出していた人もいたそうです。

 

 当時の大野明大臣も「女性は家にいるのが幸せ」という価値観の持ち主で、男女平等なんて大嫌いな人でした。だから省内でも「そんな法律、本当にできるの?」って白い目で見られていました。

 

■担当として根回し

 ――83年夏、赤松さんは担当局長として財界、政界への根回しに明け暮れた。

 

 当時の偉い男性たちの認識というのは「労働力が必要だから女性にも働いてはもらいたい。だけど結婚や出産をしたら、30歳くらいまでに辞めるべきだ」というものでした。女性が働き続けて責任あるポストに就いていくことは、家庭にも社会にも良くないというのが大勢でしたね。

 

 そこで条約と法律の関係をよく説明しました。法律ができないと、世界に約束した「女子差別撤廃条約」を批准できません。日本は先進国としての立場をまずくしますよ、と。国のメンツで説明すると、ほとんど理解してくれました。

 

 その代わり、必ず「あまり厳しい法律はごめんだ」と釘を刺されました。義務や罰則のないものでないと困ると。そのため無理に義務としないで「ソフトランディングで」と考えたわけです。これはのちに女性団体から非常に怒られるところなんですが、約束でしたから守ったんです。

 

 ――その年の秋、日経連が雇用の男女平等のための法律制定に反対する声明を出す動きがあるとのニュースが飛び込んだ。

 

 まだ法案の中身が決まっていない段階。こんな声明が出たら大変です。慌てて日経連の幹部のところへ説明に行きました。

 範囲や強さなど何も決まっていない時点で法制化に反対を表明すると、雇用の場での男女平等という原則そのものに反対だということになる。「日本の経営者はそんな考えの持ち主だと世界に知らせるようなことをしていいんですか」と言いました。

 

 大企業の社長さんたちですから、国際的な視野もあり、ちゃんと耳を傾けてくれました。すったもんだの末、反対声明は出ませんでした。

 

■新内閣誕生で一変

 

 潮目がかわったのは83年の年末です。衆院解散で第2次中曽根康弘内閣が誕生。新しく労働相に就任したのが坂本三十次氏で、彼は熱心に雇用の男女平等について勉強を始めてくれました。これで省内の雰囲気がガラリと変わった。

 

 中曽根首相にも面会がかないました。「資本家の走狗(そうく)になる覚悟で」と言われました。あなたは女性労働者の味方と思っているかもしれないが、妥協すれば財界に有利な法律になる、資本家の使い走りの犬だと言われても仕方ないんだよ、という意味でしょうね。すごい悪口よね。脅しのつもりだったのかしら? 私は励ましと思うことにしました。でも、「スゴイ言葉よね」と一緒に行った次官と話したものです。

 

「〈証言そのとき〉男女平等を求めて:5 たとえ骨抜きの法でも」@朝日新聞デジタル

 ――1984年になっても、雇用の男女平等のための法律をめぐる経営側と労働側の対立が続いていた。

 

 募集や採用、昇進、昇格における男女差別の禁止について、経営側は義務にすべきではないと言い、労働側は義務でなければ意味がないと真っ向から対抗します。当時あった深夜労働などを制限する女性の保護規定についても、経営側はなくせ、労働側はなくすなと主張が反対でした。

 

■バランス感覚頼り

 自分のバランス感覚を頼りに、ぎりぎりの判断が続きました。法律をつくる過程で一番大変でした。

 

 強硬な反対を考えると、男女差別の禁止は義務ではなく、努力義務にせざるを得ませんでした。一方、女性の保護規定では労働側の言い分を入れ、深夜業の解禁を管理職など一部にとどめ、ほかは大幅に残すことにしました。

 

 内閣として法律案をつくるということはがんじがらめで、理想的な「男女雇用平等法」とはいきません。こうして配慮を重ね、「男女雇用機会均等法」の骨格ができていきました。

 

 ただ、私はこのとき法律をつくったことが重要だったと思っています。差別禁止を義務にできないのならやめる方法もありますが、それでは法制化がいつになるかわかりません。国連女子差別撤廃条約批准の期限とのリンクがほどけたら、きっとずっと先に延びてしまう。そんなに先でいいのか、と考えたのです。

 

 ――骨抜きの実態が明らかになるにつれ、「真の男女平等法を」と望む女性から反対運動が起きた。

 

 法案の中身が明らかになると、「私たちが欲しかったのはこんな法律じゃない」と言う女性も出てきました。労働組合の婦人部や、そういった組織ではなく自由なスタイルで活動をする女性のグループもありました。労働省前で集会をしたり、日比谷公園ハンガーストライキをしたり、かなり活発でした。

 

■文句もわかるけど

 

 私のいた局長室は18階にあり、窓を開けると抗議の声が聞こえました。「赤松局長、粉砕」なんていう声もありましたね。時々エレベーターで下へ降りて、こっそり見に行きました。彼女たちが熱心に関心を持ってくれていることはよくわかりました。寒くて雪も降る時期にわざわざ霞が関まで来て、声を上げるんですからね。

 

 自分でも不十分なところがあると思っているから、彼女たちが文句を言うのもわかるんです。でもね、こちらもやむを得ない妥協をしているのに、そんなにがみがみ怒らないでよ、という気持ちもありました。

 

 ――法案づくりの最終段階であわやの事態もあった。

 

 全体を整え、労働省内の審議会へ諮問する段階になったときのことです。労働側の山野和子委員(総評婦人局長)が諮問案の中身を知って「後退だ」と激怒し、会合を欠席すると通告してきたのです。

 

 労働側の委員がみな欠席となれば審議会が開けず、法案の提出も条約批准もおじゃんになってしまいます。私は辞表を準備した上で電話を入れ、説明の遅れをわびてなんとか出席するよう頼みました。開始時間の数十分前のことです。

 

 電話では返事がなかったものの、彼女は現れました。長年にわたる労働運動の闘士である山野さんは、最後の最後は、条約批准のために法律が必要だと考えたのだろうと思います。彼女とは丁々発止でやり合いましたが、最後は絶対通してくれるだろうと信じていました。

 

 法案はいよいよ国会の議論に移りました。