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抽象的な思考はどこへ=高村薫

 

抽象的な思考はどこへ=高村薫
毎日新聞2016年3月13日 東京朝刊

 


 小説家は人間や社会に強い関心をもち、それなりに観察もしているけれども、しょせんはフィクションをつむぐ仕事だからか、折々に考えたり、発見したりしたことを自身の実人生に生かそうという発想は乏しい生きものかもしれない。しかも往々にして、一般の生活者に見えていることが見えていなかったり、いまどき知っていて当たり前のことを知らなかったり、はたまた巷(ちまた)の話題に疎かったりもする。小説家は、意外に浮世離れしているのだ。


 そうして自身の暮らしと切り離された頭で、小説家は日々架空の物語をつむぎながら、人間について、生死について、あるいは社会について思いめぐらせている。たとえば私はいま、山間の集落の名もない平凡な農家の暮らしを小説にしているところだが、描いているのは米づくりのリアルな技術や稲の成長の話であっても、私の頭には植物としての稲の光合成や、そのためのエネルギーをもたらす太陽光や、ひいては宇宙のことが広がっていたりする。あるいは、すでに古稀(こき)を過ぎている主人公の心身を借りて、老いとは何かと壮大な自問をしていることもある。


 つまり、日常のさまざまな農事や山の自然は、主人公Aの生に実体を与えると同時に、Aが日々ものを思う土台になっており、Aはものを思うことで自身の世界を拡張し続けるのである。米農家であれば米づくりのあれこれにこころを砕くだけで十分ではないかという意見もあるだろうが、小説家の私は、それだけではつまらないと思う。自然とともに生きる人間は、自然を通してなにがしかの生命観や宇宙観、信仰、さらには美などを発見するはずだし、古来人間はそうしてさまざまな生活風土と文化を築いてきたからである。


 ひるがえって、私たちはいつのころからか、生命や社会や人生について抽象的な思考をしなくなったのではないだろうか。「人間とは」と言いだすだけで「ドン引き」されるいまの時代、もてはやされるのは日常の小さな仕合わせや、ささやかな暮らしの風景や、心温まる小さな生きものたちの物語などである

そこでは、人間の一生は日々の暮らしの送り方や、手づくりのご飯や、食卓に生けた一輪の花などに還元される。もっと言えば、個々人の生活感覚や価値観へと矮小(わいしょう)化される。


 それはそれで人間が生きることの一面ではあるし、軽んじていいとも思わないが、それだけで事足りるかと言えば、そうではないだろうと思うのだ。たとえば、「人間とは」を考える言葉が失われたところでは、「人間らしさ」を考えることもできない。「人間らしさ」を考えることができないところでは、貧困や難民について深く考えることもできない。こうして多くの深刻な問題が、私たちの関心の外に放り出されているのである。


 今日、私たちはネットを通して自分に必要な情報を必要なだけ入手するようになった。そうして個々に興味のある情報だけを効率的に収集することで、個人や仲間内の関心事だけで満たされた快適な暮らしが出来上がるが、それは抽象的な思考や公共への関心とは無縁の暮らしと言える。


 もっとも、社会や他者への無関心と引き換えに、足もとの小さな仕合わせがやたらにクローズアップされる今日の風潮は、私たちの隠れた不安を映しているのかもしれない。老いも若きも、明るい未来を思い描くことができないゆえの、足もとの仕合わせ探しかもしれない。かくして「生きるとは」「人間とは」などと哲学するより、猫でも眺めて癒やされたいというのがいまの時代であれば、なるほど、小説が売れないはずである。(小説家)=今回で終わります

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