片岡英子さんと日野貴博さんのはなし
片岡英子さんと日野貴博さんの話があるということで、駆けつけた。
片岡さんがインタビューで語っていたこと(『人民新聞』2015年9月25日)がとてもよかったので、この人の話を聞きたいと前から思っていた。
そしたら企画があったので駆け付けたわけ。
で、話が聞けて良かった。期待にたがわず良かった。
一緒に話をした日野さんは学習支援ボランティア団体アトラスをやっている人で、これまた、いい感性で、聞いていて引っかかる所がない。
2人は、今時、珍しほどのまっすぐな感性と実践の人だった。
私は、カバンにいつかこれについて書こうと思て、ずっと片岡さんの記事を持って歩いていた。
それくらいこの人には何かあると思ったから。
そんなに有名な人ではないが、ネットで論文も読める。
読もうと思ってまだ読めていないが。
それは『BC級戦犯と戦争責任―――「すがも新聞」に見る戦犯の意識を中心に
』で、龍谷大学学術機関リポジトリから読める。
彼女のインタビュー記事の話を僕なりにかいつまんで紹介すると、彼女は
今普通の会社に勤めていて、普通の人に、どうやったら、戦争のこととか人権のこととか差別のことが伝わるのかなと考えて生きている。
運動界隈だけでは通じるが、外では通じないことを、戦犯の問題とつなげて、戦争に行った、行かされた人たちは、しかたなかったと思っている、それは今の多くの人の生き方とつながっている、
で、それのおかしさを感じるとともに、
人間って、そういう面があるし、そこにきれいとか純粋な思いもあるわけで、国家のためにというのはうまく人を動員する感情装置だと思うわけ。
「デモに行こう」ではなく、普通の職場の隣の人がデモに行ったことがあるとか、別に怖くないよ、楽しかったよと身近に、あることが大事ではないかと考える。
犯罪加害者の人は特別なのか、皆と紙一重ではないかとも思う。
戦争に利用され、簡単に靖国の物語に巻き込まれるような弱さに、批判だけではなく、共感する気持ちがある。
人の好さとか、弱者性とか。
それを本当に切り捨てるだけでいいのか。勇ましい言葉で批判すれば、事足りるのか。
そういう感受性を持つ片岡さんの感覚に、僕はとてもまともときれいなものを感じる。魅力的なものを感じる。
同時に、彼女がぽろっと出す、奥にある激しい怒りや正義感や根性に、これまた共感する。
そこまでの怒りや思いがありながらの、同時に、強い批判だけではないスタンス。
そして日野さんもそうだが、私が最も重視するのが、主流秩序を決して駆け上がろうとしない人だということ。上昇志向のにおいがないのだ。
僕は多くの人に接してきて、若手でもエラそうに語る人をたくさん見てきた。そこには共通して、傲慢さがあった。たいしたことでもないのに、先人が言ったことも踏まえずに、自分が最もすごいことを言っているというような傲慢さが感じられ、そして上昇しようとして、メディアに出たり、本を売ったり、語りが偉そうであったりする。
そういう人を多くみてきたので、
そうではない人に、心がほっとするし、惹かれる。
それを昨年9月の記事に感じて、唯一持ち歩いていた記事だったのだ。
この人をとりあげた人民新聞記者のラボルテさんの感性がいいと思う。
今回もそのラボルテさんが司会となって企画されたものだった。
BC級戦犯の問題は、私が学生さんたちに問いかけている、内部告発するのか、ドランクドラゴン鈴木さんの意見をどう思うのか、
主流秩序にどういう態度をとるのか、
ゼロと100の間のどこをとるのかで、23と24は違うのだという話で、
で自分は36なのか、56なのか、71なのか、そこから一歩さらにどうするのか、どうしていくのかという話である。
同じ問題意識の人と出会うのはうれしい。
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