ソウルヨガ

主流秩序、DV,加害者プログラム、スピシン主義、フェミ、あれこれ

DV/ストーカー事件の情報 と 児島氏のデートDV理解批判(の一部)

 

『続 デートDV・ストーカー対策のネクストステージ』の中に書いているDV/ストーカー事件の情報を最新のものに改訂しました。

すでに購入してくださっているかたの場合、最新のものに変更されているかと思います。

興味ある方は見てください。

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同書の一部を紹介していきます。


(イ) 小島妙子氏のデートDV理解をめぐって-―恋愛は結婚への途上か

 

次に、拙著『デートDV・ストーカー対策のネクストステージ』では少し専門的になるので削った問題に触れたいと思います。それは、2013年改正DV法(以下、改正DV法と略す)でも恋人間DV(デートDV)を法律の対象に入れない根拠となっているデートDVの理解そのものについてです。小島妙子『DV・ストーカー対策の法と実務』(民事法研究会、2014年)をベースにして、以下論じます。


DV法制定者、提案者や小島氏にはデートDVの理解に問題があると思われ、そのことがDV法の対象に恋人間DVを入れない原因のひとつになっていると思われます。
まず小島氏の議論から検討対象としていきます。小島はパートナー関係の関係性を次の3つ、すなわち①関係形成途上(未来が不確定な人)、②関係継続中(未来を信じている人)、③関係解消途上(別な未来を作りたい人)(小島p9、p30)に分類しています。


そして②を結婚、①を恋愛関係ととらえ、「「夫婦関係」に至る「関係形成」途上にある場合を、DVとは区別してデートDVないし交際相手からの暴力と呼ぶ場合がある。」(小島p30)としています。
小島によれば、デートDVは①の関係に起こるもので、「たとえ性交渉があっても未来は不確定であり、友人以上婚約未満の関係」であるとします。また「排他的性関係でない」とも言います(p9、p30)。つまり結婚関係を中心に据えて、恋愛はそこに至る出発点、恋愛関係を結婚への途上ととらえています。

 

私は以上のとらえ方は、間違っていると思います。 


まず恋愛関係は、必ずしも結婚を目指しているものではありません。結婚などまったく考えていない恋愛関係は数多く存在します。婚姻関係でも関係が続く保証、愛情が続く保証はないのですから未来は保証されないし、未来に希望を持っていると言うなら恋愛関係でも「絶対に二人の愛は冷めない」「一生この人と愛し合う」と思っている恋愛関係は多数存在します。つまり恋愛関係で未来を信じている場合もあります。「未来は不確定」と言うならそれは婚姻関係のカップルも同じです。


以上より、恋愛=関係形成途上(未来が不確定な人)、結婚=関係継続中(未来を信じている人)と区分することに合理性、説得性はありません。恋愛は結婚に至る準備の段階ではないので、「友人以上婚約未満の関係」と言うのも恋愛の一部しか表現しておらず、本質規定としては間違いです。


結論とすれば、恋愛も関係の継続中と言えるし、結婚関係でも関係を形成している途中ともいえるので、結婚と恋愛を「関係継続中」かどうかで区別するのは適当ではありません。したがってデートDVは②関係継続中、③関係解消途上のいずれとも状況が異なるという(p31)のも正しくありません。そのためDV法で結婚関係と恋愛関係を区別していることに理由があるかのように扱っていること自体が間違いです。
当然、「当事者の未来は不確定であるため、法的介入が困難になる」(小島)と言うのも非論理的で説明になっていません。人間関係の未来は常に不確定ですが、だからと言って今の関係に法律が介入しない(デートDVをDV法の対象としない)というのは論理的帰結とは言えません。恋人関係だから暴力を振るっても法的介入できないなどと言えるはずがありません。「未来」などを持ち出すのは全く必要ありません。恋人関係は不安定で別れがありうるというなら結婚関係でも別れはあります。

別れがあろうとDVは許されません。現状は、結婚関係のDVだけを保護の対象にしていますが、それは本書で示すように合理的なものではありません。デートDVをDV法の対象にしていないことには(小島が別のところでも言うように)正当性はないのですから、小島が「当事者の未来は不確定であるため、法的介入が困難になっている」などと言うことは全く不要な議論であり、誤りです。

法律制定者たちの謝った議論に引っ張られてしまっていると言えます。ここには小島の混乱、主張の一貫性のなさがあるといえるでしょう。

 

 

(ウ)小島妙子氏のデートDV理解をめぐって-―恋愛は排他的性関係ではないのか


次に、小島が、恋愛関係は「排他的性関係でない」と言うのも間違いです。法的には法律婚と恋愛にはその法律上での契約関係性の強弱の点で差はありますが、実態的には、恋愛関係でもほとんどの場合、排他的性関係となっています(結婚関係でも排他的性関係でない場合はいくらでもあります)。だからこそ、デートDVやストーカーはその排他的恋愛観に基づき強大なエネルギーで嫉妬し束縛し、怒っているのです。小島の主張は実態を全く反映していません。


小島は恋愛関係の場合には「第3者が2人の関係に割り込んできたとしても、配偶者獲得のための自由競争として許容される」(p30)と言っていますが、そんな意識は全く今の社会には定着していません。一部にそのような考えの人はいますが、社会の常識つまり多数派の意識と社会の規範では「第3者が2人の関係に割り込むこと」をルール違反、非道徳的として非難しています。小島は法的にはそれを許容するように明記しようと提起しているのでしょうか?そうではなくただ現状の法律で、法律婚では「第3者が2人の関係に割り込むこと」を禁止していることを追認しているだけです。


しかし今議論しているのは、実態としてのDVをどう減らすかです。その議論の時に、法的には恋人関係なら第3者が入っても罰せられないから加害者の人は、「第3者が2人の関係に割り込むこと」に対して怒ってはだめですよと言えばDVやストーカーが亡くなるとでも主張するのでしょうか?


社会的にも、DV加害者を含む多くの人の意識においても、恋人が付き合っている人をふって(あるいは隠れて)その第3者と関係を持つと浮気(乗り換え、二股交際等)と言われ批判されて当然だと思われています。小島のとらえ方ではデートDVやストーカーが起こっている状況を説明できませんし、加害者を止められません。


小島は形式的な法律にとらわれ過ぎて実態を理解していないように見受けられます。そのために「排他的性関係でないにもかかわらず、相手を独占しようとしてデートDVが起きる」(p30)と記述していますが、それはこの記述自体の論理性としても、それまでの自分の主張とも矛盾しており、非論理的です。排他的性関係でないならどうして相手を独占しようとするのかの説明がつかないのですが、小島はそこを解明せず、いわば不思議な現象のように記述してしまっています。


小島の記述の奥にある意識を現出させるなら、夫婦間では排他的性関係だから相手を独占しようとするのは正当でありDVもありえるが、恋人間は排他的性関係でないから独占する理由もないし、DVになるのもおかしいとなってしまいます。

小島はもちろんそんな意識ではないというでしょうが、論理構造としてはそのような主張につながるものとなっています。これでは小島は夫婦間のDVを容認することにもなってしまいます。

小島が、今のDV法を前提に、恋愛と結婚をことさら区分してデートDVとDVが異なるものであると言おうとするために陥った誤りだと思われます。

 

では、小島の分類を批判するなら、どのような分類を私(伊田)は主張するのかと聞かれると思いますので答えておきます。それは価値中立的に(1)恋愛=非婚期、(2)婚姻関係期、(3)離婚後と分けるしかない、そして婚約期間は(2)の一部とみるべきというものです。そしてどの時期・どの形態でもDVはありうるし、本質的な差異はないので、すべてDV法の対象にすべきだとなります。

 

以下続く


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